江差三下り

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(歌川国丸)

 

 30数年前江差追分に出会って間もない頃、もう一つの唄に出会いました。

江差三下り」です。

 レコードだかテープだかは忘れましたが、唄:土門譲 三味線:浜谷ヨシエのコンビで録音されたものを、江差追分同様それこそ擦り切れるまで聴いて覚えました。従って、私の江差三下りは土門譲直伝と言ってもよいでしょう。

 ただし、めったに人前で歌う機会はなく、追分セミナーの最終日に催される追分酒場の余興で唄ったことがあるくらいなものです。 江差追分とはまた一味違う、しっとりとした、艶っぽい唄いくちがなんとも好ましいです。

 この「江差三下り」、江差追分節の元唄と伝えられています。 即ち、この三下りを 母とし、けんりょう節を父として生まれたのが江差追分というわけです。

 

  ここに偶々目についたレコードがありますので紹介します。

https://www.youtube.com/watch?v=BbO1uf7gonw

 この平野源三郎氏の「追分(馬方節)」・・・碓井峠の権現様は わしが為には守り神・・・は、大正年間の録音のようですが、江差三下りそのものですな。

因みに、昭和八年吹き込みの阿部笑山氏の唄も「碓井峠の権現様は・・・・」となっています。また大正十四年の福田幸彦(号蘭童)・坂本一雄共著の『追分の研究』の中に「追分三下り唄」として

 ♪ 碓井峠の権現様は わしのためには守り神

が載っています。

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碓井峠の権現様)

 この歌詞は古くは文政五年(1822年)の『浮れ草』に、追分節として七首載せているうちの一首に、 ♪ うすひ峠の権現様よわしが為には守り神

としてあらわれています。

 また、上の浮世絵は歌川国丸(寛政五年1793~文政12年1829)が描いたものと思われるが、 ♪うすゐとうげの ごんげんさまは~ わしがためには のふまもりがみ~ しいしぼう〴

という歌詞が見える。すなはち、文政年間には追分節の元唄的な唄として広く唄われていたことが窺われます。

 

 出自は碓井峠から信濃追分宿近辺で唄われていた馬子唄で、その馬子唄に三味線をつけて艶のある粋な座敷唄にしたものが馬方三下りですが、今では馬方を外して、江差三下りとか松前三下りと称します。ただ南部馬方三下りのように、律義な南部人らしく今でも馬方をつけているところもあります。

 この馬方三下りが漂泊の座頭という人達によって信濃や越後から、さらに陸路奥羽を経て蝦夷地に運びこまれ、松前江差の三下りとなり、踊りも振り付けられて盛んに唄われ、伝承されてきたものとされています。

 しかしながら、二上りの追分節が盛んに唄われるようになると徐々にその地位を奪われるようになったわけですが、明治末、小樽の芸者熊野リツ女が現れたことで、再びこの唄が注目を集めるようになりました。

 

その辺のところは竹内勉氏の『追分節』(昭和55年)から引用させてもらいます。

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 『江差追分』ゆかりの町、北海道檜山郡江差町には、「追分節」と呼ばれる『江差追分』のほかに、もう一つ『江差三下り』という唄がある。地元では土門譲(明治42年生まれ)が中心になって伝承している。(中略)

 土門譲の話によると、この唄は江差でも浜小屋の花柳界では唄わず、新地の高級花柳界で、芸者衆がうたっていたという。そのためか、御本人が唄う時は、浜谷ヨシエという、江差は新地出身らしい芸者あがりの老婆に三味線を弾かせている。ところで、一番の元唄的な歌詞、これは江差の沖合いに浮かぶ鷗島に鎮座する弁天様のことで、北前船の船頭たちはこの前で出航のための風を祈り、出航日を決めたという。それだけに一見もっともらしいが、私などがかつて聞いた『江差三下り』の歌詞は、

 ♪ 碓氷峠の 権現様は わしがためには 守り神

であった。この辺の事情について、昭和四十五年六月二十二日、土門譲に函館で会った折尋ねてみた。土門譲の場合、『江差三下り』は、江差の『鰊場音頭』の名音頭取り近谷林太郎(この時七十六歳)から習ったもので、近谷林太郎は小樽の芸者熊野リツから教えられたものという。年代的には江差が寂れ、小樽が栄える頃である。その時は「碓井峠の権現様は・・・・・」で習った。ところが昭和三十二年になって、周囲の人たちが江差で「碓井峠」という歌詞はおかしいからと言い始めたので、上の句を「江差港の弁天様は」と変えたのだという。ということは、この時まで、中山道群馬県から長野県へ入る碓井峠の歌詞を唄っていたことになる。

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 これとは別に越中谷四三郎氏によれば、「松前三下り節」というのがあって、歌詞は「碓井峠の権現様は わしの為には守り神」であるが、三味線が非常に賑やかで、太鼓も加わる結果、追分の如く悲哀の情調はなく、極めて陽気な唄である、という。     してみると、しっとりと粋で艶のある「江差三下り」とはだいぶ趣がかわっているようだ。

 現在でも「江差三下り」「松前三下り」はそれぞれあるが、やはり「松前三下り」の方が陽気な唄になっているように感じます。 

 

  因みに踊りは明治初年に江差に来演した歌舞伎役者によって手直しされ、江差商人と芸妓に見立てた道行姿の踊りとなって伝わっており、 踊りの扮装も、男は町人髷に立縞の着流し・角帯、女は潰島田に荒縞のお召、黒繻子帯に浅黄の湯文字、手拭を被って道行姿で登場するのが本式だそうだ。

 

江差三下り」の代表的歌詞:

 (♪ 碓井峠の権現様は わしが為には守り神)

 ♪ 江差港の弁天様は わしが為には守り神

 ♪ 心細さよ身は浮舟の 誰も舵とる人もない

 ♪ 文の上書き薄墨なれど 中にこい字が書いてある

 ♪ ふとしたことからついこうなって 今じゃ他人と思われぬ

 ♪ 沖は寒かろ着て行かしゃんせ 情けあつしの蝦夷

 

歌詞考3

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「鴎の鳴く音にふと目を覚まし あれが蝦夷地の山かいな」

 

 現在、多くの人が好んで唄っている歌詞です。

 教える方も統一した歌詞の方がなにかと都合がいいというのも爆発的な人気につながっている一因であろう。

人気に火をつけたのが誰なのかは残念ながらわかりません。

 

  ♪ 鷗の鳴く音にふと目を醒し あれは蝦夷地の山かいな

               (大正9年『純粋の江差追分節』村田弥六)

  ♪ 鷗の啼く音にふと眼を覚まし あれは蝦夷地の島かいな 

               (大正9年『松前追分』古舘鼠之助)

  ♪ 鷗の啼く音にフト目を覚まし あれは蝦夷地の山かいな

               (大正9年『追分物語』小早川秋声) 

  ♪ 鷗の鳴く音にふと目を醒まし あれは蝦夷地の山かいな

               (大正11年『正調江差松前追』」越中谷四三郎他)
  ♪ かもめの泣音にふとめをさます あれはえぞぢの山かひなぁ

               (大正14年『追分の研究』福田幸彦他)  

  ♪ 鷗の鳴く音にフト眼を覚まし あれが蝦夷地の山かいな

               (昭和11年『哀艶切々追分節の変遷』石島鷗雅) 

  ♪ 鴎の鳴く音にふと眼を覚まし あれが蝦夷地の山かいな

    蝦夷地の出稼の途中にある荒くれ漁夫も、明けても暮れても海又海の船旅にあ       きあきして鷗の鳴く音を聞いてふと眼を醒ましてあれが蝦夷地の山であらうか 

       といふ意。(昭和14年『正調追分節』三木如峰)     

  

  ♪ 鷗啼く音に、ふと眼をさまし あれが蝦夷地の山かいな

    越後越中などから、北海道へ出稼ぎに行った人たちの中には、妻子を伴った者    

      もあった。荒海の波にもまれ、船酔いに疲れて眠っていた妻が、俄かに騒がし   

    く聞こえる鷗の聲に、ふと眼をさましてみると、紫にかすんだ山影が彼方に見

    える。

    「あゝ、あれが松前かネ」と、思はず声を弾ませて、夫に訊くーーさうした情

    景をうたったものである。(昭和14年『追分の研究』高橋鞠太郎)

 

 こうしてみると、大正期までは五節を「あれが」ではなく、「あれは」と唄っているが、誰がいつ変えたのか、経緯は不明です。 

 大正8年の横田雪堂氏の『追分節の物語』にはこの歌詞は載っていない。この時期はまだあまり知られていなかったものか。

 追分に詳しい湯浅竹山人氏がこの歌詞を、その著作(小唄夜話大正13、小唄漫考大正15、歌謡集稿昭和6)で取り上げていないというか、載せていないというのはちと意外です。

 

 この歌詞の作詞者は今のところ特定されておりません。

 一説に明治39年に閑院宮が小樽へ来道の折、「江差追分」を上覧に供するについて、小樽新聞社の主筆北山晃文氏が作詞したとされているが、閑院宮の来道時期が合わないことや、当時は北山氏はまだ小樽新聞社の主筆ではなかったこと、皇族への追分歌詞の上覧などという特筆すべき事実の報道が見当たらないなどから、多分に疑問視されているのであります。

 『風濤成歌』によれば、下の大正7年7月札幌富貴堂発売の『松前追分番付』が文献上最も早くに姿を現したようです。ただし一番下に位置し、当時は人気は低かったことがうかがわれます。

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 北前船に乗って、板子一枚下は地獄と言われる日本海の荒海を乗り越え、はるばる蝦夷地を目指してやって来て、もういい加減島が見えてきてもいい頃だと思っているある朝、鴎の鳴き声にふと目を覚まし、小手をかざして見るとかすかに陸地が眺められる。at last! ついに蝦夷地に着いたんだという、感動感慨を歌ったのがこの歌詞でしょう。

 

 

 

 

 

 

 

歌詞考2-3

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 野村 公氏が昭和39年12月に発表した『民謡「江差追分」の研究』の中で、興味ある説を述べております。

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 江差の歴史は漁業の歴史といわれ、江差の人達の生活は鰊漁を土台に営まれてきたのである。北海道の西海岸一帯は、もともと公開で制限なしの漁場であったが、元禄4年(1691)「追鰊禁止令」が出され、以後熊石以北へは行けなくなった。しかし、享保4年(1719)からは、税金を払って許可を得、春出かけて秋に帰るようであったが、越年居住は許されなかった。鰊漁は安永5~6年(1776~7)から福山が不漁になり、天明2~3年(1782~3)には江差も又不漁になり、同4年以降は、全く漁獲がなくなった。

 鰊はだんだん北上し、江差不漁の時は、島小牧から歌棄磯谷にかけて豊漁であり、寛政4年(1792)になると更に北上し、奥蝦夷積丹以北)が主な漁場であった。

 江差の漁民は追漁のため、モツタ岬、雷電岬、神威岬の難所を切りぬけ、西蝦夷の遠くへ出漁していたのである。「忍路高島」の歌詞は、この追鰊の漁民が、自分達の心のねがいを歌い込んだものとして次のような解釈ができよう。

   江差の浜では鰊がとれなくなった。遠くの忍路高島まで出かけて行けば、鰊はい

   くらでも獲れるのだが、それには、波の荒い、岬の難所をいくつも越えて行かな

   ければならない。だから、せめて、漁は薄いが、近場所の歌棄磯谷までは行きた

   いものだ。

 以上のことから、この歌詞は寛政4年(1792)から、鰊漁挽回の文化5年(1808)までの間に作られたものと考えることができる。 

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  最後に、鶏と卵ではないが、この歌詞が落首を元として「いそやたけ」が「いそやまで」に変化して唄われるようになったのか、はたまた、『風濤成歌』に述べられているようにーー天保の頃よりかなり前から唄われていた「忍路高島」の文句の末尾の二字だけを変えて落首に応用したと考える方が妥当ーーなのか、はたまた、鰊が獲れなくなった漁師の願望なのか、今の私には判断しかねますのでこの歌詞についてはとりあえずここまでとします。ただ、西川家の請負っている四つの「場所」が双方に読み込まれているのが単なる偶然とは思われないというのも、また確かな事であろう。
  しかしながら、「だけ」といい、「まで」といい、たった二文字の違いではあるが、その世界観、人生観には雲泥の差があります。たとえ、それが落首風刺唄が元になったものだとしても、「まで」の内包する深さの価値を減ずるものではないでしょう。

                                 了

 

歌詞考2-2

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忍路(追分節によりて其名天下に高し)大正九年四月鰊漁期 

                        陸地左端の突起を兜岩と称す

 

 そもそも「〇〇はおよびもないが せめて〇〇まで」という言い回しは各地にあったわけで、なにも蝦夷地専売ではなかったのであります。

 

 ♪ 田沼様には及びもないが せめてなりたや公方様(江戸での流行唄)天明年間1781

                                         ~1789   

♪ しバた五万石およびはないが せめてなりたやとのさまに(越後松坂節)

♪ 本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に(酒田節)ー安政年間1854~1860

                           お殿様は米沢藩主上杉鷹山

 

 これらはいずれも落首、風刺唄ですが、この言い回しは当然ながら海路陸路で北海道にも伝わったわけです。

 ここにしばしば引用される人物がおります。

小樽在住の河合吉兵衛(号無涯)翁です。この人物は明治初年まで高島運上所(現在の税関にあたる役所)に勤めていた人で、漁業文化の裏面史に詳しい人物とのことであります。

  

 昭和六年十月の『歌謡集稿』で湯朝竹山人氏は、忍路高島唄の由来として以下の如く述べています。ちと長いが本が手元にない人のために敢えて載せます。

 因みに西川家の番頭をしていた近松文三郎氏も昭和十年の著書『西川貞二郎』の中の「附たり松前追分節」の項で同様のことを述べております。

 また昭和15年2月16日の北海タイムス紙も「縄張争いの風刺文 これが追分"忍路高島"の正体」として河合吉兵衛翁(当時82才)の同様な内容のインタビュー記事を載せています。

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(前略)然るに偶然にも、小樽の河合無涯翁が、松前節の元唄といはれてをる「忍路高島」の唄の由来を知ってをられるといふことを聞いた。生憎、私が小樽滞在中は翁が東京へ旅行中であって面会の機会を得ず残念に思ってをったが、私が東京へ帰って後、翁から手記の資料を送って頂き、また次で翁が東京へこられて直接に話も聞き、大体のことはわかった。それで愚考もめぐらして、要点と思はれるところを述べてみたいと思ふ。

   忍路高島およびもないが、せめて歌棄磯谷まで

 この唄が、松前追分節の元唄であるかは明言することはできぬけれど、現在唱はれてをる北海道追分節の代表唄の一つであって、この唄の由来を知ることが、やがて松前節の起原を尋ねる上にも因果関係の手がゝりが得られようかと思ふ。

 先づ、この忍路高島の唄は、天保の初年(大正十五年より九十六年程前)に起こった、松前福山の城主松前氏治下の一陰謀事件で、つまり利権争奪の一芝居を風刺したものだといふ。

 忍路高島の唄は、女が男を恋ひ焦がれ妻が夫を慕い焦がれての、情を唄ったものとばかり思っていたのに、事実は然らず。恋愛を唱った情歌にはあらずして、利権問題を冷笑した風刺唄だといふ。(中略)

 松前藩の制度として、蝦夷各地方は行政の一部を城下の豪商連に請負わせた。殊に歳入の主なるものは、いふまでもなく漁業にあるので、納税の如きも請負人に代納せしめたのである。漁業の成績如何に拘らず、七箇年の収穫を平均した金額で、運上金を徴収した。これが責任を負ふものを請負人とし、御用達の列に加へた。御用達は請負人全体に及ばず、身分財産の勝れたるものを選定して命じたらしい。西川、岡田、藤野(以上江州人)及び伊達,栖原、村上以上六件であった。後代岡田、村山は廃して四軒となり、幕末松前藩経済の関係から第二級の御用が出来たといふ。請負は利益もあれど種々の負担もあり、就中蝦夷人を撫育し部内の治安を見なければならぬ。若し撫育治安の方法よかざる時は漁業場所返還命ぜられ或る期間は謹慎しなければならぬ責任もあった。

 その請負御用人の一人に、江州出身、西川徳兵衛といふのがあった。松前では支配人の名前を以て店名とした。西川徳兵衛は西川出店七代目の支配人で天保十年から安政三年に及ぶ。西川家は御用達請負人ではあるけれど、格式は士の班に列し、随分と幅を利かしていた。加之、特に蝦夷地の宝庫といはれた有利なる漁場、即ち、忍路、高島、歌棄、磯谷の四郡の漁業場所主であるから、おのづから他の請負仲間から羨望され嫉視されたのも無理からぬことである。而して西川家が占有する漁場を奪ひ取らうとする野心家が現はれた。この陰謀計画が、やがて「忍路高島」の唄を産むの動因とはなった。

 話題一転、文化四年(大正十五年より百二十年前)のことであった。幕府は松前藩松前志摩守章宏廣に命じ、蝦夷全島を上地せしめ、奥州梁川へ転封せしめ、十五年後の文政四年に再び松前に復封せしめた事実があった。この転封、復封の事変は、どんな理由で行はれたのか、明らかに知ること能はぬけれど、多分蝦夷撫育の不行届といふことが原因の主たる一つであったらしく思へる。

 然るところ、天保九年の頃、同じ福山城下に、桝谷某といふ一商人があった。彼れは何とかして西川程の勢力を得たいものだと野心を抱いてをった。藩主さへ転封されることもあるのだから、蝦夷撫育の欠陥をあばきだしたら、どんなことにならうやも知れぬ。現在の漁場の持主に変動を来たすやうなことも起こらうやも知れぬと思惑した。それで一方、当時藩の権威といはれた某家老職に取入り、陰謀を企つるに至った。

 野心家の腹では、忍路、高島は遠くして航運の便が容易でなく、従って経営にも多大の資本を要するので、それは到底及びもないけれど、せめて歌棄、磯谷ならば、交通の便もあり、資本も少くてすむことだから、この二郡の漁場は我が手に入れたいものだと目論見んだ。

 そこで、西川が責任を有する場所の土人間に騒ぎを促し、所謂、撫育不行届問題を起こし、土人を扇動し、土人から函館奉行へ訴へ出でしめた。函館奉行は松前町奉行へ取調方を命ずるに至り、調査されたる結果、西川の撫育上に、土人が訴へ出たやうな不行届はなしといふ判決で、当時の運上所支配畑中某を罷免しただけで事済みとなり、折角企てたる野心家の陰謀は水泡に帰した。

 然るところ嘉永五年は運上金改正の時期であったので、多年の持主たる西川徳兵衛より歌棄、磯谷の二郡を返還せしめ、野心家から買収されていたといふ某当局者の魂胆もあったゆえか、終にこんどは野心家といはれたる桝谷某の所有に帰したといふ説が伝はってをるのである。

 それで、天保十年ごろ(大正十五年より八十年程前)松前城下に、次の如き落首が現はれた。落首に曰く、

 忍路高島およびもないが、せめて歌棄磯谷だけ 

 そのころは、まだ新聞といふものもなく、落首といって、人知れず紙片に風刺的の狂歌だの俗謡だの、軽口やうのものを書いて、路ゆく人の眼にとまるやうなところへはりだしたもので、一時は随分流行したものであった。

 今、この一首の落首が、当時藩政の腐敗、及び暗に西川家と野心家との事件を説明して余りあるものと思はれる。一たびこの落首が現はれ、終に松前節で唱はれることになり、やがては松前追分節の元唄の如く伝唱されることになった。

 忍路高島及びもないが・・・・・この唄は、哀々切々たる叙情歌として伝唱されて来た。女が男を慕ひ焦れたる断腸の唄として愛吟されて来た。けれど史実の示すところは、全然漁業場所の争奪に由来する風刺の唄であるといふ。(中略)

 この唄をかりに情歌とすると、神威岬を境とし、石狩、増毛は大場所で、漁業家も多く、住民も多数のことだから、漁夫たる夫を慕ふ女房ならば、先ず「石狩増毛はおよびもないが」と唱ひさうなはずだといふ人があり。更に地理的に考へて「小樽石狩及びもないが」又は「古平余市はおよびもないが」と唱ひさうなはずだといふ人もあり。又次に、神威の手前の場所を指すにしても、歌棄磯谷に限りはせぬ。寿都あり、古宇あり、下の句を「せめて岩内古宇まで」と唱っても情の唄の意は通ずるといふ人もある。

 唄に唱はれて、消し去ることのできぬ印象となってしまった忍路、高島、歌棄、磯谷の郡名が、女の男を戀ひ慕うふ意の表現には要素ではなく、漁業場として有利有望なる場所として、その名が唄の基調となっているのではあるまいか。

 蓋し、右の如く述べ来ったものの、私は従来の伝説が実か、以上の記事が実か、判断を下さうとはせぬ。今日まで私が調べた唄の中にでも「高い山から谷底見れば」の文句でも「わたしゃ備前の岡山そだち」の文句でも、其の起原をたづねると、いづれも生活境遇に対する風刺詠嘆であって、案外なる由来をもってをる。それで「忍路高島」の唄にしても、資料によると実に斯の如くに判断されるといふまでだ。

 松前節の曲調といふものが、いつのころから発明されたものか、それは明白にわかりかねる。松前節で最初に唱はれた唄が、どんな文句であったか、それも勿論知る由はない。けれど「忍路高島」の唄が、最初は天保十年頃、松前城下の落首として現はれ、下の句の「歌棄磯谷だけ」を「歌棄磯谷まで」と変へて松前節で流行したといふことに対しては、別に他の記録証拠を挙げて説明されるまでは、如上の事実は、この唄の由来を確説したる唯一の史実だといはれても、反証の上がるまでは一応首肯しておかう。

 今、思ひ出すことは、歌詞の上に一つの暗示となる落首である。

 田沼様には及びもないが、せめてなりたや公方様

 右は安永天明の頃、十代将軍家治の治下、老中田沼意次の専制に対する落首俚謡であって、世上に随分唱はれた。「及びもないが」といひ「せめて」といひ、一般民謡に耳慣らされたる言葉であったことを知りたい。この落首の如きは好実例の一つというてよい。

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(小樽)

 

 西川家が「忍路」を請け負ったのが、寛延二年(1749年)。

「高島」を請け負ったのが、宝暦二年(1752年)。

「歌棄」「磯谷」を柳谷庄兵衛より譲り受けたのが、文政十三年(天保初年)(1830年)。

 従って、

 ーーこの忍路高島の唄は、天保の初年(大正十五年より九十六年程前)に起こった、松前福山の城主松前氏治下の一陰謀事件で、つまり利権争奪の一芝居を風刺したものだといふ。ーー

とあるが、その年は歌棄磯谷を請け負った年であって、勘違いでしょう。

 陰謀事件が発生したのは七代目西川徳兵衛が支配人であった時期で、首謀者は桝谷榮三郎という野心家。かくて、

 おしよろ たかしま およびもないが せめて をたすつ いそやたけ

という落首が松前城下各所に張り出されたのであります。

 

 この歌詞についてはさらに別の説もありますので、次回はそちらを紹介します。

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

 

歌詞考2-1

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(神威岩)

 

「忍路高島およびもないが せめて歌棄磯谷まで」

 

 私が最も愛唱する歌詞です。

「鷗の鳴く音に~」が全盛の中で、何故にこの歌詞に惹かれるのか自分でも判然としないのですが、心を捉えて離さないその哀哀切々、男と女の情愛溢れる想いが何とも言えず私の趣味とマッチする故かとも思はれます。

 

 また、これほど古来その由来について云々されてきた歌詞はないのではないでしょうか。 

江差追分の元歌ともいうべきこの歌詞は、元禄四年(1691年)の松前藩の政治的思惑による神威岬より北には女人通行禁ずる、とのお達しによって、想い人と引き裂かれた女の心情を歌い上げたもの、というのが大方の見るところでしょう。私もその心情で唄っております。

 

 明治40年『風俗画報(第374号)』の山下重民氏の追分記事 😿

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 何時の事なりけん、越後(越中の誤)は、高岡の漁師の妻に鄙には珍しき美人あり、良人は舟を褥とし、海の上に明し暮す活計とて、昨日は東今日は西、波のまにまに行衛も定めなかりしが、或年のこといかにせしか、良人は定めの月日を経ても帰り来たらず、更に便りすらなきことゝて、妻は痛く船路の良人の上を歎き佗び、果は悲に得堪へず、良人の船が泊として思ふ北海の函館にまで辿り行き、日毎海岸に立て舟の来るを待てど暮せど、恋しき人の姿は夢にも見えねば、遂には哀れにも心や狂ひけん、唯、

 忍路高島及びもないが、責て歌棄磯谷まで。

と明け暮れ聲高らかに唄ひて、函館の市中を西と東と駈け歩く、其の聲音の清らかなるさへあるに、調子の悲愴人の心に沁み渡る許りなれば、雨の日、月の宵、之を耳にする人々は、何れも狂女の心根を哀れみて、妙なる歌の節に袖を絞らざるはなく、遂には土地の人も之を習ひ覚ゆるに至りぬ。

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 文中、越中高岡は工業地帯で漁師の住むようなところではないので新湊あたりの間違いではないのかという人もいるようだ。 

 

 大正五年、木村恒氏が様々な恋の伝説を集めた『戀の伝説』という本を出した。

その中の「松前乙女」(函館)を要約すると、

 松前の乙女が、恋しい人がいる忍路に行きたいと船頭に頼み、船頭が神威岬を越えて女人を連れて行くことはできない、とあくまでも断ると、それではせめて歌棄か磯谷まで連れて行ってください、と涙ながらに頼むのを船頭が可哀そうに思って、とうとうそこまでなら連れて行ってあげましょうと言う。

 船頭たちは皆この哀れな情の濃い乙女の胸の内を哀れみ、誰の口からともなく、

   忍路高島及びもないが せめて歌棄磯谷まで

と唄い出した。今も彼地の船頭はその唄をよく唄っている。

 という内容です。

 

 大正11年『正調江差松前追分』 越中谷四三郎他 🐎

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 忍路高島の歌の起源は

 約百三四十年前、奥場所(神威岬から奥)が開拓かれて、上場所の番人が、奥場所へ移った。メノコは従いて行きたいが神威岬があるので、従いて行かれぬのを非常に悲しんだ。其時番人が歌を残して、船を浮かべて行って了った。残されたメノコは慕はしさの餘り、大膽にも道のない浜邊傳いを追って目的地の手前まで艱難辛苦して岩を伝って辿り着いたが、折柄の大吹雪に遇って遂に行き倒れて死んで仕舞った。雪が消えてから岩と岩との間に死骸が横たはって居た。此の哀れな話が江差、福山あたりへ伝はって来た時に、琵琶弾き座頭で、佐の市と云う者が聞いて、可哀想と同情の餘り作って唄ったのが此の文句の始まりであるとも伝へられて居る。

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大正9年『蝦夷民謡 松前追分』古舘鼠之助編 🐭
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 『忍路高島』の由来に就ては従来種々の説が伝はって居るが、一説には越後の漁師が新潟の女郎に迷ひ、妻の有る身も打忘れてセッセと通ひ詰めた揚句が、お定まりの借金で首が廻らず、遂々その女郎を連れ出して一夜北海道へ逃げて来た。其事が漁師の妻に知れると、可哀想に朝顔日記の如く、夫を尋ねるばかりに女の一人身で旅から旅への如に渡り歩いた。其して漸っと江差へ着いて見ると、戀しい夫の姿は此處にも見えず、漁師仲間の話には、疾うに其人なら中場所へ行ったと云ふ事なので、またも江差を後にしやうとしたが、其處には哀れにも積丹半島の西北端に、女人を入れぬ神威岬の障碍物が横たはって居た。

 この岬から以北へは、昔から婦人の入るのを厳しく禁ぜられ、この禁を冒す時は鮭や鱒が絶対に獲れなくなるばかりで無く、大荒れの為めに近郊近村は非常な神の怒りを蒙ると云ふアイヌの迷信から、安政三年頃までは神秘なる岬として兎も角も封ぜられて居たものである。

 此岬の有る為に、漁師の妻は戀慕うふ夫の後を追ふ事が出来なかった。それで日毎夫戀しさの情が募り、江差の濱へ出ては朝夕中場所の空を眺めて悲嘆の涙に暮れ而して遣る瀬無い自分の情緒を謡ったのが、今の忍路高島であるとの説である。けれども是を江差の古老から聴くと、全然否認されて居る。此歌の出所は矢張り積丹郡神威岬が発端ではあるが、當時江差松前あたりで漁師や移住者の内地人等が、女房や情人といつも辛い別れをして行かねばならなかったので、其惜別の情を前の幇間佐の一に作らせたのが此唄の起因であると云って居る。蝦夷草紙から見ても後者の説が真箇であるらしい。

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 昭和11年『懐古情緒 哀艶切々追分節の変遷』石島鷗雅著 🐤

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 越後の或る船頭が、新潟の歌妓と深い戀中になって、やがて型通り圓かなる家庭に、三味線持つ手には水桶さげて、水も漏らさぬ楽しい數年を過ぎたのでありますが、夫は船乗りの身の事故、一度家を出て波の上に浮べば、浮草のやうな身の生業であります。

或る年の一月、夫は戀女房を置いて遥に松前の地に渡った。残された女房は一人わびしく空閨を守って、待てども待てども夫からは何の音信もない。遂に待ちあぐんで、可弱い女の身を一人はるばる夫の後を慕ふて松前に渡り、諸所心當りを探し廻ったが、探せど尋ねど影さえ見えず、尚も曲せず気も狂わんばかりに夜毎々々に江差の濱邉をさまようて、よき音信もやと、百方夫の行方を捜したところ、ある奥地通ひの漁夫の話に依って、尋ねる夫は遠く奥地に出稼ぎして居るといふことが判明した。併し奥場所への海路途上にある御神威岬以北へは婦人の入ることは禁制となって居るため、尋ねて行くことも出来ず、妻ははつこいの初戀の昔を偲びながら、獨り煩悶は募り、自ら、

  忍路高島及びもないが せめて歌棄磯谷まで

 と夫を慕ふ真情を吐露した歌を作って、追分節の調律に合せ、やるせない胸の苦悩を癒やさんものと、朝な夕な、何百遍となく繰り返し繰り返し悲痛の聲を絞って唄って歩いた。この哀れな女の胸中を知るも知らぬも、皆其の凄艶な唄ひ振りに断腸の涙を絞ったといふことであります。之が江差松前追分節の起原であると傳へられて居ります。

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 明治19年、夜短坊大瓶選『唱歌諸芸粋の種本』に、「おゐわけ」として6首ある中に、 

 ♪ おしよろ高しまおよびはないがしめてうたせてゐそやまで

が見られるが、これをどう評価すべきか私にはわかりかねます。

  

 明治27年『日本風景論』の中で志賀重昴氏は、神威岬にふれた個所で

 ♪ 忍路高島及びもないが せめて歌棄磯谷まで

を載せています。

 また同氏は『眼前萬里』の、北海道拓殖の祖先(御神威岩の由來)の項に

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 北海道に遊ぶ者、紅燈緑酒の下、

     忍路高島及びもないが せめて歌棄磯谷まで

追分節を聴かん、正に是れ一曲の想夫憐、聲々悲哀、聴く者の腸を断つ。

 北海道の北西突角を神威岬(後志國積丹半島)となす、岬端より一鏈半、一大岩石の屹として高く特立するあり、高さ四〇米突、其形人の如く、古來土人以て神となし、御神威岩と名け、此處を過ぐる時、舟人合掌三拝し、米酒を海に投じて祭る。

 口碑に云ふ、昔源義経蝦夷酋長の女に昵み、別を告げずして北に渡る、女追ひ神威岬に至りて及ばず、義経の船を悵望し、身を震はして哭き、呪いて曰く、和人の船、婦女を載せて此處を過ぐれば忽ち覆没せんと、遂に御神威岩と化す。是より以後、本州の船、婦女を載せて神威岬以上に入らず。忍路、高島は岬の彼岸にあり、歌棄、磯谷は岬の此岸にあり、追分節は即ち紅閨離別の情を酌みて此く歌うもの。

 安政三年、幕吏梨本彌五郎謂らく、天孫の裔豈に蝦夷に殖う可らざるの理あらんやと、自から妻女を船に載せ、鳥銃を放ちて岬を過ぐ、本州婦人の蝦夷内地に移住する是に始まり、所謂北海道拓殖は事実上彌五郎の此行より始まる、随て追分節や無意味となるも、節の悲哀なる聲は今に聴かれ、本邦の歌謡中第一に推さる。

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と記している。

 

 また、明治28年の『琴曲獨稽古』大橋又太郎編に、追分節二上がりとしてこの歌詞が載っています。

 

 『歌謡字数考』明治41年 中根香亭著には

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 渡島松前

  此の唄松前節と称すれども北海道全地にて謡ふ 元は舟歌なるべし

 「おしオろ高島、およびもないが、せめて歌棄、磯屋まで」

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とあり、かなり広範に唄われていたことがうかがえます。ただし「磯屋まで」は「磯谷まで」の間違いでしょう。

 

 とまあ、ここまではレジェンダリーでロマンティックな由来を中心にいくつか紹介しましたが、次回は少しばかり生臭い由来にあたってみたいと思います。

 

  

 

 

歌詞考1

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「色の道にも追分あらば こんな迷いはせまいもの」

 

 森野小桃『江差松前追分』 (明治43年)

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 天保年間、我が江差の一芸妓が、計らず客の胤を宿して、それを苦に病み怏々として楽しからざる日をのみ送って居た。是より先、按摩の佐の市といふ者が、けんりょ節といふのを創作して、いろいろな新文句を作っていたが、此由を聞いて、直ちに「色の道にも」の歌を得た。是江差追分濫觴であると傳へられて居る。一篇の意は解釈するまでもなく、即ち、恋の道にも追分があったならば、こんな迷ひはしなかったものをーー詰り、餘り、深入りしたために遂に胤をまで宿し、線香は落ちる、働けない、誠に物憂い日をのみ送らなければならぬ場合に陥ったのも、恋路の闇に踏み迷った自分の誤り、もしも此の道にも、追分があったならば、こうして踏み迷ひはしなかったものをーーと嘆じたのだ。餘り知られていない唄だが、慥かに秀れた作である。

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 ここではこの歌詞は佐の市の創作であるとしているが、本当のところはどうなんだろうか。

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 江差町字中歌町 東本願寺別院に追分の祖師佐之市の碑があります。
昨年の全国大会の折、初めて訪れました。
この佐之市は、佐の市とも佐ノ市とも書かれますが、寛政年間(1789~1800年)盛岡から来た琵琶師の座頭佐之屋市之丞こと佐之市とも、町人佐野屋市兵衛のこととも言われており、はっきりしたところは不明のようです。ただ地元の「天保問屋荷揚唄」に、
「追分はじめは佐ノ市坊主で芸者のはじめは蔦屋のかめこ」という唄が載っているところから架空の人物ではなく、実在した人物として祭られているのです。
 ところ余談ですが、実は最近思わぬところでこの人物の名前を見つけました。すなわち尾崎紅葉が明治26年に発表した「心の闇」という小説の主人公が若き按摩の佐の市なのです。
一瞬これはと思ったのですが、さすがに時代が明治で、所も宇都宮とくれば追分祖師の若き佐の市をモデルにしたとは考えにくいが、夜道を歩きながら
 ♪ 命懸けても添わねばおかぬ、添わにゃ生きてるかいが無い
と唄うところなどは、座頭佐之市が作ったといわれる、「色の道にも追分あらば、こんな迷いはせまいもの」と共通する追分風な感情が読み取れて面白い。とはいえ前の唄は追分風というにはちと艶っぽすぎるか。

 

 民謡研究家の竹内勉氏がこの歌詞について湯朝竹山人が『歌謡集稿』でとりあげていることについての注釈として、
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 この歌詞については、私もあえて注釈を加えておく。江差では、「江差追分」が我が町で誕生したと思い込みたい人々が、いまだに寛政年間(1789~1801)に、座頭の佐ノ市が、南部津軽(現青森県)方面からやってきて、酒席を賑わしながら、「けんりょう節」(検校節が訛ったもので『越後松坂』のこと)を元にして、先の歌詞を唄い出したのが「追分節」(のちの『江差追分』の本唄のこと)の始まりで、開祖として祀りあげている。
 この話は、
  色の道にも 追分あらば
  こんな迷いは せまいのに

  あやこ(酌婦)よければ 座敷がもめる
  もめる座敷は けんりょ節
の二首を組み合わせての創作話である。佐ノ市が実在するかどうかの問題とは全く別の問題である。
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 と述べているが、湯浅竹山人が『歌謡集稿』でどう取り上げているかと言うと、信州追分節の列挙の中で、

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「色の道にも追分あらば こんな迷ひはせまいもの」

  余りに人口に膾炙し過ぎるためこの唄なども粗末に思はれているけれど追分節として広く唱はれて来た。この一首が北海松前節にまで伝唱されているのが不思議なほどだ。北海道にこの「色の道」の文句が伝わっているという事実は信州追分節の北遷と何等かの推移交渉のあることかと推量もされる。

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 と語っているところから参考にしていると思われるが、竹内氏が創作話だとしているのは多分、佐ノ市が天保の頃切石町の妓楼で、客の子を孕んだ女が苦しんでいるのを見て、同情してこの「色の道にも~」の唄を創作したといわれていることを言っているのであろう。

  しかしながら、信州追分節の伝播ルートは越後を経由した海上ルートの外に南部ルートも知られているわけで、南部津軽方面からやってきた座頭の佐ノ市がこの一首を引っ提げて蝦夷地にわたり、そこで開花させたと考えればなにも創作話だなどと言う必要もないわけであります。

 

 阿部龍夫氏などは、その著『江差追分其の他』(昭和28年)の中で、

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 この唄が追分のはじめだと云われるのは、唄の中に追分といふ言葉があるためでありませうが、どうも内地出来らしい匂ひのする唄であります。

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とオブラートに包んで述べております。北海道産というには詞が艶っぽすぎるということだろう。

 また、河合裸石氏は『蝦夷地は唄ふ』(昭和十年)の中で、

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 信州の追分節から福山なり江差なりの追分節の歩いた道程を辿って見ると其節の変化が明らかに判るのである。いや節ばかりではなく歌詞までが輸入其儘を謡ふているなどはこの追分節が信州追分の産である事が証拠立てる。例えば、

   色の道にも追分あらば こんな迷いはせまいもの

などは信濃で出来た歌である。

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と述べています。

 

 この歌詞が信州追分節としていつから唄われてきたのかは勉強不足でわかりません。

 文政五年(1822年)の『浮れ草』の中の「国々田舎唄の部」に追分節と思われる七首が載っているが、この中には「色の道にも~」は入っていないし、
 文久二年(1862年)の『粋の懐』第七編に「追分ぶし 二上がり」として四首上がっているが、この中にも入ってはいません。

 『歌謡集稿』が出版されたのが昭和六年、それ以前の大正十四年発行の『正調信濃追分』(矢ケ崎七之助編集)という冊子に、信濃追分節歌詞として50首ばかりの中に、この「色の道にも~」の歌詞が載せられています。 

 

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(分去れ)さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿

 

 

 

 

 

 

 

 

 

特級編「止め」

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以前「型より入りて型より出づる」という話の中で、型の中にあっても個性で聴衆を感動させる様な唄い方が今後は求められていくだろう、と言いました。その一つの例として今回は「止め」を取り上げてみます。

 

 「止め」は四つということは決まっていますが、それをどう止めるかは実に千差万別というか、個性の分かれるところだと思います。キリッと止める人もいれば、牛の涎の如き止めの人もいます。師匠によっては、しり上がりに止めるべし、同じ高さで止めるべし、尻下がりに止めるべし、と様々です。どれも一理ある様な無い様なものですが、

要は、唄全体の中でバランスがとれているかどうかであり、一つ間違いなく言えることは、息も絶え絶えの「止め」ではなく、力強く止めなければいけないということです。

生まれつき息の続く人は別にして、多くの人が苦労苦心するのもそこのところでしょう。私なども大いに苦労しておりますです、はい。

 「止め」まで息を続かせ、さらに力強く止めるためには、古来言われているように、各節の前半を速めに、後半をゆったり唄うというのが一つのヒントになると思います。

 

 私はごく最近まで「止め」は七節とも同じだと思っておりました。

ところが昔の人の書いたものなどを見ると、まあ現在もそのまま通用するかは別にして、そこまで突っ込んで唄い込んでいたのかと感心しました。

 例えば、三木如峰氏曰く(「正調追分節」昭和14年)

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 追分節の各節の止めは最も大切であって、又最も面倒と言われている。頗る美しい聲の所有者で節回しが如何に上手であっても、各節の止め方が拙劣では唄そのものに力がなく、聞いて雄大な気分に欠くるものである。本唄の止め方の名称を列挙すれば、

 一節は軽投止、 二節は投止、 三節は結止、 四節は上止、 五節は大投止、

六節は結止、 七節は上止である。止めは各節ともに正確にハッキリ止めなければならない。

 止めが不確実であれば唄の力と品格を傷け、気分一杯の唄を唄う事が出来ないから、十分の研究をして、唄全体がキチンと整った歌を歌ふやうにしなければならない。追分節に於ける止め方を殊更やかましく言うのも亦当然である。

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 確かにそう言われてみると、「止め」が一様でなく、無意識のうちに一、二、五節は投げるような止め方をしているように感ずるから不思議だ。

 

 また、湯浅竹山人氏の「歌謡集稿」の中で安田磯女が言うには

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追分節の妙味も困難も、声を張り上げたり、喉をころばしたりするところに有るのではなく、落としと切りと止めとにある。第二節タカシマの止めは「振り切り」という。第三節のオヨビモの落としは「下止め」という。第五節セメテは中音の「振り切り」だ。・・・第四節のナイガは陽で止め、第七節イソヤマデは陰で止めるのだという。

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まあなんだな、磯女の陰陽論は「本すくり」と「半すくり」の関係みたいなものかなと思ったりもしますが、今は陰陽まで考えて唄っている人はまずいないでしょうな。

 

 しかしながら、温故知新というか、こういう昔の人の真剣な探求の上に今日の江差追分が出来上がってきたんじゃないでしょうか。そういう意味では、これらの引用も追分愛好家にはまんざら意味のないことでもないでしょう。