息の吸い方について

 歌を歌う時は,息は鼻から吸うのが理想である。
 口から吸うとどうしても声帯が乾燥しやすく音程が不安定になりがちだからである。ヴォイス・トレーニングの教本なんぞを見ても、大体において、鼻から吸うことを推奨しているようです。とはいえ、わしのように穴が狭く詰まりやすい鼻の持ち主は、息継ぎで素早く鼻から吸うなんて芸当は出来やしないので、三日三晩寝ずに考えた末に悟った方法を特別大サービスで披露しよう。勿論「正調江差追分」を唄う時の息の吸い方である。
 世の中には、生まれつき息が長く続く人がいるんですね。そういう人に習うと、病気にかかったことのない医者が、薬の副作用に悩む患者の気持ちが理解できないのと同じで、音感の確かな人が音痴の人を理解できないのと同じで、また方向感覚が確かな人が方向音痴の人を理解できないのと同じで、息が続かないということが理解できないから、適切なアドバイスが出来ないのです。 であるからして、これはわしと同じように息継ぎに苦労している人のために、参考になればと思って、述べるのです。
 まず一節ですが、前奏の後に来るソイ掛けが終わってから、おもむろに息を吸う人がほとんどだと思いますが、わしの場合それでは間に合わないので、ソイ掛けの後半あたりから、まず腹に空気を入れて、次いで肺に空気を入れます。ここまでは口から吸います。そして最後に口を閉じて鼻から少し入れます。つまり三段構えで吸うわけです。これを「七三の構え」といいます。口から七分、鼻から三分ということです。別におちょくってるわけじゃないです。本人は実にまじめに実行しているんですから。
 二節から四節は鼻で吸うのは間に合わないので、口で吸います。もちろん、鼻の穴の大きい人は鼻から吸うのよいでしょう。五節は余裕があるので一節と同じように吸います。六節七節は三節四節と同じです。まあこれはあくまでも、わしのやり方です。
 息継ぎの時に鼻で息を吸うのはいいが、息継ぎのたびに横を向いて息を吸う人がいます。これは、息継ぎの音を聞かれたくないというところから、かくいう行動に出たものと見受けるが、息継ぎのたびに屁をひるような音がするってんなら止むをえないが、そうでなければ、ちと見苦しいです。最近は全国大会なぞでも、唄う姿も採点の対象になっているようなので、損をしてるのではないでしょうか。
 うら若き乙女にはお勧めできないが、漁師あがりの人などはむしろ、すするような音をたてて息継ぎをすることで野性味を出し、それがまたなんとも追分好きにはたまらん魅力を醸し出すなんてこともかつてはあったもんです。
 最後にもう一つ、練習の時は息が続くのに、舞台にあがると緊張して息が続かなくなる人がいるが、これも上がらない人からすれば、なんであがるのってなもんですが、あがっちゃうんだからしょうがねーだろとしか答えようがないわけだ。統計的にB型の人が名人になる確率が高いと言われてますな。
 対策としては、先人が色々考えてくれています。できるだけ舞台に多く立って度胸を付けなさいとか、手のひらに人と書いてのみ込みなさいとか、救心をを飲むといいよとか、その他ありとあらゆることが語られているが、要は自分に合った方法を見つけることだな。

海にて唄う

 わしの住んでる家は海岸まで歩いても15分位のところなので、体調不良になる前はよく散歩がてら海まで行きました。途中、海の手前に県立の海浜公園があるので、中を一周散歩してから海に出ます。一周3キロくらいあるので、ちょっとした運動にはなります。
 途中、ベンチに座って一休みがてらちょっと小声で追分を唄いますが、一度だけ犬の散歩中の中年女性から「いい声ですね~、詩吟ですか」と声をかけられたことがあります。思わずにんまりしましたが、残念ながら、「詩吟ですか」と聞かれたので、ちょっと座ってお話でもしませんか、と誘うのはやめました。なかなかに江差追分を知っている人に出会うことはないものですな。           
 祖父が漁師であったせいで、子供の頃にはよくこの浜辺で地引網の手伝いをしたものです。もっとも、小学校に入ったかどうかという位の年だから、網を引くというよりは太い綱にぶら下がってたようなものだったろう。それでも、網を引き終わって、色々な魚がピチピチ跳ねる様子を見るのは別世界を覗いた気がして感動したものです。
 その頃は、波打ち際を足でさぐると、大きなハマグリが面白いように採れましたが、今では何艘もあった船もすっかり影を潜めて、ただの浜辺をさらしています。
 左に江ノ島、右に富士山、正面に伊豆半島がかすんで見え、その手前にはサザンの歌で知られる烏帽子岩(姥島)がポツンと見えます。
 その海に向かって追分を唄うのが日課のようになっておりました。湘南名物のサーファーがうようよいる日もありますが、誰もわしに関心を示す人はいません。ただ波打ち際に群れて羽を休めている鴎だけが聴いてくれます。
 江ノ島を鴎島に、烏帽子岩を神威岩に、伊豆半島蝦夷地に見立てて水平線に向かって唄うのは実に気持ちの良いものです。
 「浜辺の歌」の作詞で知られる林古渓が子供の頃近くに住んでいて、この海岸を思い浮かべながら作詞したことも最近わかりました。また昨年、最寄り駅の開通百周年を記念して、電車発車時の音楽もこの浜辺の歌になりました。
 はやく体調不良を克服して、またここで精一杯唄ってみたいものです。

三坂馬子唄


 愛媛県中部、久万高原の久万盆地にある上浮穴(かみうけな)久万町は、土佐街道

沿う旧宿場町であり、木材の町としても知られている。江戸時代から、木材は馬車に積

まれて松山に運ばれた。この道中に三坂峠があり、この三坂峠は「三坂三里は五里ござ

る」という悝謠が伝わっているほど久万街道最大の難所であったところで、久万産の木

材を馬に乗せ松山城下に向かい、生活物資を代わりに戻ってくる往復に一昼夜かかり、

その道中の行き帰りに唄われたのが「三坂馬子唄」なのです。


 西日本ではいわゆる「馬子唄」はそれほど多くない中で、これは西物の馬子唄の中で

は大変美しいメロディのものではあります。


♪ むごいもんぞや 久万山馬子は 三坂夜出て 夜戻る


などは、三坂峠がいかに難所であったかが偲ばれるものであり、三坂峠を越え松山城

まで、片道八里の道のりを一昼夜かけて、物資運搬をしていた久万山馬子たちの過酷な

労働の中から生まれた、なんとも切ない唄です。

 

(ハイハイ)三坂越えすりゃ(ハイ)雪降りかかる(ハイ) 戻りゃ妻子が(ハイ)
 泣きかかる(ハイハイ)

 

♪ わしも若い時ゃ城下まで通うた 高井の川原で夜が明けた


♪ わしも若い時ゃ久万まで通うた 三坂峠で夜が明けた


♪ わしが若い時ゃ小田まで通うた 小田の河原で夜が明けた

 

♪ 馬も辛かろ馬子衆も辛い 久万の三坂を後に見て


♪ 馬子も辛かろ峠にかかりゃ 月の明かりと鈴頼り

 

♪ むごいもんぞや久万山馬子は 三坂夜出て夜戻る


♪ むごいもんぞな明神馬子は 三坂夜出て夜戻る

 

♪ 馬よ歩けよ沓買うて履かそ 戻りゃ唐黍とうきび煮て食わそ


♪ 馬よ歩けよ沓買うて履かそ 二足五文の安沓を

 

♪ 三坂峠を手綱をせなに 越えりゃ松山近くなる

 

♪ 急げ栗毛よもう日が暮れる 戻る山道 辛くなる

 

♪ 遠い山道鈴の音するが あれは荏原の兼さんか 

正調江差追分歌詞集Ⅱ

『後唄』
 『後唄』は、いつ頃、どこで、誰が、加えたのだろうか。
 「江差追分」のはじめは『前唄』も『後唄』もなく、全部『本唄』の26文字であって、これを二回繰り返して唄っていたのです。これを大正に入って、「江差追分」を興行で唄うようになってから、『前唄』・『後唄』を付けるようになったのです。
 当時の北海道を中心とする巡業の芸人たちの興行形式は。人気絶頂の浪花節の舞台をまねることであった。つまり、この、『前唄』・『後唄』浪花節の枕のようなもので、『本唄』を二つ続けて唄うのは能がないので『前唄』-『本唄』-『後唄』から成る三つ揃いを考えたのである。その際、『前唄』-『本唄』-『合の手』としなかったのは、名称に統一がとれなかったためでしょう。
『前唄』の項目の中で紹介した山田氏は、『江差追分節の来歴』の第四回に次のように書いている。
ーーーーーーーーーー
 関西尺八界の大家、内田秀堂氏は民謡に関して相当の権威者であって、わが江差追分節につても既にひとかどの見識のある意見をもっていた。すなわち江差追分節は単に前歌だけでは到底本唄の意味をはっきりさせることが不可能であるから、その本唄の意味を更にもっと緊張させるには、歌全体の均斉をとる上で後唄(送りともいう)をつけ加える必要があると強調するに到った。これをこの道の熱心家三浦為七郎が神戸から北海道に来た大正十年の夏、同好者と歓談交遊の際大いに宣伝に努めたのである。それからこの後唄をつけて唄う新しい試みをするものが漸次拡充していったのである。
ーーーーーーーーーー
 これが事実だとするなら、『後唄』は大正十年夏に、内田秀堂が案を出し、三浦為七郎が広めたということになる。
 この『前唄』ー『本唄』ー『後唄』の組み合わせは、どう組み合わせるかは歌い手の自由で、好きに組み合わせてよいのだが、とは言ってもある程度の整合性がないと情感が湧かないわけです。『後唄』として唄われることが多くても、それを『本唄』として唄ってはいけないということはなく、「ネー」をはずして『本唄』として唄うこともあるのです。更には『前唄』の半分だけを『本唄』や『後唄』に活用するすることもあったのです。

 

♪恨みあるぞえお神威様よネー なぜに女の足止める

 

蝦夷地海路のお神威様はネー なぜに女の足止める

 

♪沖で鷗の啼く声聞けばネー 船乗り稼業はやめられぬ

 

♪なにを夢見て啼くかよう千鳥ネー ここは江差の仮の宿

 

♪誰を慕うて啼くかよ千鳥ネー ここは江差の恋の宿 (市川天涯)

 

♪泣くなと言われりゃなおせき上げてネー 泣かずにいらりょか浜千鳥

 

♪主は奥場所わしゃ中場所でネー 別れ別れの風が吹く (実相寺信男)

 

♪泣くに泣かれず飛んでも行けずネー こころ墨絵の浜千鳥

 

♪今宵一夜は緞子の枕ネー 明日は出船の波枕

 

♪月をかすめて千鳥が啼けばネー 波もむせぶか蝦夷の海

 

♪波にくだけし磯辺の月はネー 乱れながらも丸くなる

 

江差恋しと渚にゆけばネー 沖行くかもめと風だより

 

♪浜の真砂におもいを書けばネー にくや来て消す夜半の波

 

♪ならばこの身をかもめに変えてネー 後を追いたい主の船 (実相寺信男)

 

♪ここは何処よと船頭衆に問えばネー ここは江差のかもめ島

 

♪今宵入船江差の港ネー はるかに見えるは かもめ島

 

♪空飛ぶかもめがものいうならばネー 便り聞きたい聞かせたい

 

♪つらい思いに泣くのじゃないがネー 月がなかせる浜千鳥

 

♪花の松前紅葉の江差ネー 開く函館菊の紋

 


 
 以下は『前唄』『本唄』『後唄』のわしの好みの組み合わせです。

 

♪国を離れて蝦夷地ケ島へヤンサノエー 幾夜寝覚めの浪枕
 朝な夕なに聞こゆるものはネー 友呼ぶ鷗と浪の音

 

 鷗の鳴く音にふと目をさまし あれが蝦夷地の山かいな

 

 月をかすめて千鳥が啼けばネー 波もむせぶか蝦夷の海

 


♪空を眺めてホロリと涙ヤンサノエー あの星あたりが蝦夷ケ島
 逢いたい見たいは山々なれどネー かなしや浮世はままならぬ

 

 忍路高島及びもないが せめて歌棄磯谷まで

 

 恨みあるぞえお神威様よネー なぜに女の足止める

 


♪大島小島のあい通る船はヤンサノエー 江差通いかなつかしや
 北山おろしで行く先ゃ曇るネー 面舵頼むよ船頭さん

 

 沖のかもめよ流るる雲よ せめて伝えよこの心

 

 沖で鷗の啼く声聞けばネー 船乗り稼業はやめられぬ

 


♪荒い波風もとより覚悟ヤンサノエー 乗り出す船は浮世丸
 西か東か身は白波のネー 漂う海原果てもない

 

 荒い波でもやさしく受けて 心動かぬ沖の岩

 

 なにを夢見て啼くかよう千鳥ネー ここは江差の仮の宿

 

 

♪波は磯辺に寄せては返すヤンサノエー 沖は荒れだよ船頭さん
 今宵一夜で話は尽きぬネー 明日の出船を延ばしゃんせ

 

 泣いたとて どうせ行く人やらねばならぬ せめて波風穏やかに

 

 泣くなと言われりゃなおせき上げてネー 泣かずにいらりょか浜千鳥

 

 

♪添えぬえにしに故郷すててヤンサノエー 今じゃ流れの都鳥    
 想いこがれて渚にゆけばネー はぐれ千鳥の忍びなき

 

 泣いたとて どうせこの身は帰れるあてもない 母の面影なつかしや

 江差恋しと渚にゆけばネー 沖行くかもめと風だより
  松本勇悦が得意とする歌詞、レコードの「ソイ掛け」は初代浜田喜一と思われる。
  初代の流れをくむ唄い方である。また「もみ」に個性がある。


♪思いあまりて磯辺に立てばヤンサノエー あわれさびしき波の音
 沖のいさり火かすかに燃えてネー 遠く寄せ来る暮の色 

     

 月は照る照る夜は更けわたる 磯の波音高くなる

 

 浜の真砂におもいを書けばネー にくや来て消す夜半の波
  三浦為七郎の十八番の歌詞である。三浦一座には那須野亭月という座付き作詞者がいて、その作詞と思われる。ただし、三浦為七郎の唄は「八つの節」確立以前のものです。



正調江差追分歌詞集Ⅰ~Ⅱの参考文献
 『正調追分節』三木如峰 昭和14年
 『追分の研究』高橋鞠太郎 昭和14年
 『江差追分』国原州月 昭和43年
 『追分節』竹内勉 昭和55年
 『江差追分江差追分会 昭和57年
 『 風濤成歌』江差追分会 平成11年

正調江差追分歌詞集Ⅰ

 これは何もすべての歌詞を列挙しようというのではありません。いわばわしの「お好み歌詞集」です。それでもかなりの数になるでしょう。

 

『前唄』
 この『前唄』を編み出したのは、南部水沢の虚無僧、島田大次郎と言われている。
 昭和9年頃の「江差日々新聞」に、山田伝蔵という人物が『江差追分節と来歴』という題で連載をしているのだが、その第二回に次のように書いている。
ーーーーーーーーーー
 前唄は明治27年頃南部水沢の人で島田大次郎と言う虚無僧が、日本各地を歴遊した際、越後方面で盛んに歌われている船歌の囃子を応用して、いわゆる前唄を創成したものである。その初め「春の弥生に鳴く鶯は、桃ノ木小枝に法華経」という二節の歌詞に更につけ加へて「あれ見やしゃんせ小鳥でさえも、後生大事と法華経読む」と語句を集成して前唄というものの体系を完全に作りあげたのであった。島田大次郎氏が初め越後追分節につけて唄っていた前唄が、近世に至って江差追分節にも活用されることになったのである。
ーーーーーーーーーー
 ということは、この文章によれば、島田大次郎は「江差追分」に『前唄』をつけたのではなくて、「越後追分」の『本唄』-「合いの手」に『前唄』を加えて、『前唄』-『本唄』-「合いの手」とし、それを『江差追分」の人たちが取り入れたということなのである。また、《越後方面で盛んに歌われている船歌の囃子を応用して》とあるのは、「舟唄」の「エンヤラヤのこと」である。
 先の山田氏はさらに『前唄』につき次のように続けている。
ーーーーーーーーーー
 純正江差追分節と関係のない前唄のようなものは一笑にふしてしまうのは当然である(中略)元来、江差追分節に前唄をつけることは、地方民謡として育まれて来た権威ある曲節を傷つけるものであるとの意見は、だれしも同感であったのであるが、その後誰も彼もこれをつけて唄っていて、それがまた追分節を常に唄う人から見ても、まず本唄を歌う前に「声ならし」として前唄を歌えば歌の調子も吟味が出来、かつ精神の統制もついて非常にコンデーションがよいというのは、経験者の一致する意見だ。
ーーーーーーーーーー
 これを読むに、『前唄』江差のものではない、と言う人がいるのも当然なことではあるが、今日では深く根付いているのも確かな事であります。ゲストが舞台で唄うに『本唄』だけでは物足りないので三つ揃で唄うようになったということもあるでしょう。

 

♪国を離れて蝦夷地ケ島へヤンサノエー 幾夜寝覚めの浪枕
 朝な夕なに聞こゆるものはネー 友呼ぶ鷗と浪の音 (市川天涯)

 

松前江差の津花の浜でヤンサノエー 好いた同士の泣き別れ
 連れて行く気は山々なれどネー 女通さぬ場所がある

 

♪波は磯辺に寄せては返すヤンサノエー 沖は荒れだよ船頭さん
 今宵一夜で話は尽きぬネー 明日の出船を延ばしゃんせ (市川天涯)

 

♪大島小島のあい通る船はヤンサノエー 江差通いかなつかしや
 北山おろしで行く先ゃ曇るネー 面舵頼むよ船頭さん

 

♪荒い波風もとより覚悟ヤンサノエー 乗り出す船は浮世丸
 西か東か身は白波のネー 漂う海原果てもない (佐藤勘三郎

 

♪空を眺めてホロリと涙ヤンサノエー あの星あたりが蝦夷ケ島
 逢いたい見たいは山々なれどネー かなしや浮世はままならぬ

 

♪粋な船子が追分唄うヤンサノエー つれて啼くかよ浜千鳥
 船は追風(おいて)に帆をはらませてネー 恋し忍路をさして行く

 

♪煙る渚に日は黄昏れてヤンサノエー 沖にいさりの火が灯る
 江差よいとこ寝覚めの夜半にネー 通う千鳥の鳴く音聴く (市川天涯)

 

♪浮世荒波漕ぎ出て見ればヤンサノエー あだやおろかに過ごされぬ
 浮くも沈むもみなその人のネー 舵のとりよと風次第 (市川天涯)

 

♪波に千里の思いを乗せてヤンサノエー 月に掉さす筏舟
 浮世の苦労も荒波枕ネー 思い悲しや啼く千鳥

 

♪朝は朝霧夜は波枕ヤンサノエー 海路はるかに越えて行く
 蝦夷地恋しやお神威様よネー せめて想いを忍路まで 

 

♪荒い風にもあてない主をヤンサノエー やろか蝦夷地の荒海へ
 主の出船を見送りながらネー またの逢瀬を契り草

 

♪浮世の苦労も荒波まくらヤンサノエー 月を抱き寝の浜千鳥
 明日はいずこの大海原でネー 荒い波風しのぐやら

 

♪思いあまりて磯辺に立てばヤンサノエー あわれさびしき波の音
 沖のいさり火かすかに燃えてネー 遠く寄せ来る暮の色

 

♪添えぬえにしに故郷すててヤンサノエー 今じゃ流れの都鳥
 想いこがれて渚にゆけばネー はぐれ千鳥の忍びなき

 

 

『本唄』 
 『本唄』という言い方は『前唄』や『後唄』に対するものであって、『前唄』・『後唄』の発生以前は、「江差追分」といえば、『本唄』のみであったのです。またこれを、「ほんうた」という人もいれば、「ほんか」と呼ぶ人もいる。しかし、『前唄』は「まえうた」とは言うが「まえか」とも「ぜんか」とも言わないし、『後唄』も、「あとうた」とは言うが「あとか」とも「こうか」とも言わない。「ほんうた」だけが「ほんか」とも呼ぶのである。何故そう呼ぶかというと、推測だが、「ほんうた」より「ほんか」の方がなにか格調が高く、格好よく聞こえるような感じがするためであろう。
 この『本唄』、「正調江差追分」にあっては、今日では「七節を七声」で唄い、「八つの節」が必ず含まれなければならないとされております。


♪忍路高島及びもないが せめて歌棄磯谷まで 
    この歌詞については、「歌詞考2-1,2,3」を参照してください。

 

♪鷗の鳴く音にふと目をさまし あれが蝦夷地の山かいな
    この歌詞については、「歌詞考3」を参照してください。

 

♪恋の道にも追分あらば こんな迷いはせまいもの
    この歌詞については、「歌詞考1」を参照してください。

 

♪荒い波でもやさしく受けて 心動かぬ沖の岩

 

蝦夷地海路にお神威なくば 連れて行きたい場所までも

 

♪沖を眺めてほろりと涙 空飛ぶ鷗がなつかしや

 

♪沖のかもめよ流るる雲よ せめて伝えよこの心

 

松前江差の鷗の島は 地から生えたか浮島か

 

江差の五月は江戸にもないと 誇る鰊の春の海

 

♪寒い風にもあてない主を やろか蝦夷地の荒波へ

 

♪雪にたたかれ嵐にもまれ 苦労して咲く寒椿

 

♪泣いてくれるな出船のときに 櫓も櫂も手につかぬ

 

♪沖の鷗がものいうならば 便り聞きたいきかせたい

 

♪月は照る照る夜は更けわたる 磯の波音高くなる

 

♪せめてこの身が鷗であれば ついて行きたい主の船

 

♪今宵一夜は緞子の枕 明日は出船の波まくら

 


五字冠り『本唄』

  唄い手は、この初め五文字部分を平坦に、節をつけずに「ま、つ、ま、え、のー」

  と投げ出すように枕を振ると、大変に格好よく、情感が出しやすかったのである。

 

松前の ずっと向こうの江差とやらは 朝の別れがないそうな

 

松前は 昆布で屋根葺く細目でしめる 雨の降る度だしが出る

 

♪浪の音 聞くが嫌さに山家に住めば またも聞こゆる鹿の声

 

♪櫓も櫂も 波に取られて身は捨て小舟 どこへとりつく島もない

 

♪泣いたとて どうせ行く人やらねばならぬ せめて波風穏やかに

 

♪泣いたとて どうせこの身は帰れるあてもない 母の面影なつかしや

 

♪奥山の 滝に打たるるあの岩さえも いつほれるともなく深くなる

 

♪三味線の 棹に三筋の手綱をつけて 恋の重荷を引かせたい

 

♪竹ならば 割って見せたいわたしの心 中に曇りのないわたし

 

♪紫の 紐にからまるあの鷹さえも 落つれば蝦夷地の藪に住む

 

♪あいの風 別れの風だよあきらめしゃんせ またいつ逢うやら逢えぬやら

 

♪船底の 枕はずしてきく浜千鳥 寒いじゃないかえ波の上

 

 

 

わが詩集

江差追分に寄せて』(昭和54年32才時)
 
   荒磯の岩に砕けし波しぶき 鴎島に春遠からんを想う

 

   名人の唄を聞くたびわが芸の 遅々たる歩みがもどかしい

 

   いつの日かまことの追分もとめつつ 歩いてみたや江差の浜を

 

   波しぶく海に向かいて追分を 声も裂けよと繰り返すわれ

 

 

 

江差追分


♪はるか彼方のあの帆柱はヤンサノエー 蝦夷地がよいかなつかしや
 荒い波風乗り越え行きてネー どうぞご無事でゆかしゃんせ
 
 暗い波間に帆影が浮かぶ あれはあなたの乗る船か


 ついて行く気はやまやまなれどネー せめてなりたやかもめどり (令和2年2月8日)

 

 

♪遠くはるかに 立つ白波をヤンサノエー 越えてはるばる かもめ島 
 ほのかに見ゆる大島小島ネー ぽつんと一つ瓶子岩

 

 新地がよいの主さん憎くや 戻っておくれ浜小屋へ

 

 山の上よりかすかに聞こゆネー 三味の悲しや水調子  (令和2年2月22日)

 

 

 

 

『浜辺にて』(令和2年2月10日)


浜辺を歩み ふと見れば 波打ち際で 戯れる
鷗の群れが 愛らしい 侘しい浜の 昼下がり
沖の漁船の 陽に映えて 静かにじっと 二つ三つ  
寄せては返す 凪波へ 向って唄う 七節に
追分節の 万感を 込めるも空し 声のさび      
遥に霞む 大島と 伊豆の半島 かざし見て
あれが蝦夷地と 想いなす 手前に見ゆる 烏帽子岩
神威岩とも 見えようか

 

 

『江の島にて』(令和2年2月12日)

  
島の裏ての 岩礁の 波が砕ける 荒磯に
はて人か波か わからねど 洞穴穿つ その力
神も仏も 敬うが 恃むまいとて 思いしに
岩屋に住まう 弁天に 祈る心が あさましや
世に変えられぬ ものありて そは宿命と 例えられ 
世に変えられる ものありて そは運命と なぞられる  
音曲の神 弁天は そもそも水の 神ならん
第二岩屋の 龍神に 願いをかけて 御覧じろ

 

 

『愁い』(令和2年2月16日)
  
雨のしとしと 降る夕は 一人窓辺に たたずみて
古稀を過ぎたる 身を嘆き この先いかに 生くべきか
思案にくれて 如月の 庭を眺めて ふと見れば
椿のつぼみ 綻びて 雨の雫を 身にまとい
我にそも何を 囁くや 
好きなショパンの ノクターン 静かに聴くも もの悲し 

 

鷗島

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                 江差町郷土資料館より)鴎島

 

 江差には都合11回訪れました。内訳は、追分会に入る前の若い時の個人旅行で2度、セミナーで4度、全国大会で5度である。「鷗島」にはその都度必ず訪れました。江差の風に当たり、江差の匂いをかぐにはこの上ない場所だと思ったからです。正直、この鷗島の上から日本海に向かって江差追分を唄える人がうらやましいです。それほどにこの島の上から見る日本海は素晴らしいです。うまく表現できないが、わしの暮らす太平洋の海とは違う何かを感じます。
 かつてここの浜に鰊が群れ来て、「江差の五月は江戸にもない」と謳われるほどの活気を呈していた江戸から明治にかけての時代を、守り神の様にジッと静かに見守って来た鷗島。明治の20年代以降、鰊の群れ来ることのほとんどなくなった江差の浜。そこに残ったものは何か・・・・・。

 

 「鷗島」江差港にある海抜20m、周囲約2.6kmの陸繋島です。島の入口付近は砂浜になっていて、島に向かって右側は「前浜」、左側は「えびす浜」と呼ばれています。
 この鷗島は、古来江差江差たらしめていると言ってもよいくらいの生命の島でありました。海側から日本海特有の強烈な風雨が襲ってくるので、それらを遮る自然の防風壁として利用されたのです。この島によって江差は天然の良港となり風光明媚な町となり、また古来、様々な伝説を生んだのです。
 江差にまだ鰊が群来ていた頃は、それを追って鷗が多く来てこの島を棲家としていたので鷗島と言ったともいい、あるいは鷗が羽を広げたような形が似ているのでそこから取ったともいうが、また、アイヌ語のカムイ(神)シリ(島)それが転化してついにカモメジマとなったとも言われています。

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 上の写真は、神奈川県藤沢市の片瀬地区にある「江の島」です。海抜60m周囲4km、ほどなので、鷗島よりは高さで3倍、広さで1.5倍ですが、同じ陸繋島で古来は引き潮の時のみ洲鼻(すばな)という砂嘴(さし)が現れて対岸の湘南海岸と地続きとなって歩いて渡ることができたそうです。わしの子供の頃にはすでに木の橋が出来ていましたが今はコンクリートの橋です。
 島の裏側にある「岩屋」の洞窟内には弁財天が祀られており、歌舞音曲の守護神とされたため、歌舞伎役者や音楽家なども数多く参拝したのです。

 謡曲の『江島』えのしま)には、「そもそもこの弁天は欽明天皇に仕えた臣下であったが、ある時不思議な奇瑞がが色々と起きて、海上に一つの島が湧出した。これを江野(こうや)になぞらえて、江の島となずけた」とある。

 わしなどは近くの浜辺からこの「江の島」を眺め、これを「鷗島」に見立てて♪かもめ~とやっております。
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 この「鷗島」、江戸時代くらいまでは「弁天島」と呼ばれていたようです。
 鷗島に厳島神社という社がありますが、建立当時(1615年元和元年)は「弁財天社」と名付けられていました。それが1868年(明治元年)に現在の名称に改められたのです。
 もともと、弁財天は水辺や島など水に関係がある場所に祀られていることが多い神様なので偶然とはいえないものの、遠く離れた両島に共通するものがあるのは江差追分愛好者としては嬉しいものがあります。

 

姥神の伝説と瓶子岩『正調追分節三木如峰 昭和14年)

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 江差の町がまだ淋しい片田舎の一漁村であった昔の事である。おりえ婆さんという一人の姥が津花の地に草庵を結び住んでいた。不思議にこの婆さんは雲を見ては雨の降ることを知り、天を仰いでは風の吹くことを察し、天地人文あらゆる予言が的中することさながら仙女のようであったので、人々は神様のように敬い尊んでいた。ある年の二月の初め頃、夜の丑三つ時、神島(今の鷗島)から橋を渡したような光輝が虹のように姥の草屋を射た。姥は目を覚まして驚きつつも、その光輝に従って島に渡り、これを仰ぎ見れば髪の白い老翁が岩上に座って柴火を焚きながら、おりえ婆さんを招いているではないか。おりえ婆さんは恐る恐る老翁に近づけば、老翁は小さい瓶を与えて言うには「この瓶の中に白い水がある、汝がこれを海中にまいたならば忽ち大海の色が変わり、鰊という小魚が海岸に群来るであろう。島人は春毎にこれを護って業となし衣食の資とせよ。われ汝と共に永く島人を護らん」と告げ終わると忽ち柴火と共にその姿を消してしまった。
 姥は不思議に思いながらもその老翁の教えのままに浜辺に火を焚き、手を洗い清めて祈りを捧げつつ、小瓶の水を海中に撒けば、果たして海水は米のとぎ汁の様に色変りて、やがて鰊が真っ黒く銀鱗を輝かせて群来てきた。そこで皆に網を投じさせると鰊が網に満ち満ちて、江差の浜は鰊の山を築く有様となった。
 すべてを見届けた姥は「毎年春毎に網を投じて生業となし決して他所へ移り変わってはならぬ」と教え諭して何処ともなく行方をくらましてしまった。人々は驚いて方々を探し廻ったが遂に見当たらなかったので、母親を失ったように落胆した。泣く泣く老婆の草庵に集まって見るならば神像が祀られてあった。何神であるかは判断がつかなかったが江差の人々は「姥が神」と称して洞を造って永く尊崇することになった。その後、年経て神職藤原永武という人が来てこの姥の神は天照大神・天兒屋根命・住吉大明神の御尊体であると人々に告げたので、生保元年今の所に祀ったのが、現在の懸社姥神大明神の由来だということである。
 また、おりえ婆さんが海に投げた小瓶はそのまま石になった。今、鷗島の付近にある瓶子岩がそれであると伝えられている。

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          瓶子岩と鳥居 byBATACHAN

より詳しくは、以下を参照してみて下さい。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1461660/30

https://esashi.town/tourism/page.php?id=101

 

鷗島に関係する義経伝説


 その発端は津軽三厩伝説です。
 《義経公は蝦夷へ渡らんと、此の三馬屋が岬に来られた。所が波風激しく、渡る術もなかった。それで義経は一心に観世音菩薩を祈り奉る事三日三夜にして感触があった。即ち観世音は白髪の老翁と変現して、義経に三疋の龍馬を与へ、この馬に乗って渡るべしとお告げになった。義経感涙にむせんで海辺を見れば、三匹の龍馬が嘶き来たった。それでこれを捕えて岸につないだ。それでこの里を三馬屋と名付けるのである。》『龍馬山観世音菩薩緑記』
 そして義経江差に第一歩を踏み入れたのが「鷗島」であるという。


馬岩

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 義経津軽三厩で白髪の老人にもらった白馬はこの鷗島の「えびす浜」側に残され、岩になって主を待ち続けているという。 
 また、一説にはアイヌたちに追われた義経が白馬に鞭打ってここまで逃げ延びて、この岩に馬をつないでいたところ、馬は寒さと飢えで死にそのまま化石になったのだともいう。
馬岩の後ろの島の登り口左手にある洞窟は、弁慶が義経から預かった六韜三略の巻物を隠した場所といわれる。


弁慶の足跡

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 なお、次の三か所が江差町の史跡文化財として指定されています。


かもめ島砲台跡 2ケ所 【昭和56年7月14日】
北前係船柱及び同跡(かもめ島周辺) 【昭和57年7月22日】
北前船飲用井戸 【昭和57年7月22日】

 

 

鷗島を唄い込んだ歌詞


松前江差の鷗の島は 地から生えたか浮島か
 かつて大漁であった頃には、この島は港内に群がる鷗の好適な休憩場所なっていたもので、その為島全体が埋もれ、あたかも数千の鷗が海上に浮いているように見え、地から生えているのでなくて浮島ではなかろうかというのである。
同じような歌詞は各地に見られます。
    〇島で名所は仙酔島よ 根から生えたか浮島か(岡山県小田郡船唄)
    〇鞆の向ふの仙酔島は 地から生えたか浮島か(広島県加茂郡船唄)
    〇島で名所はかづさの岩戸 根からはえたか浮島か(長崎県南高来郡雑謡)      〇三崎城ケ島は見事な島よ 根からはえたか浮島か(三崎甚句)
    〇さても見事な安島の雄島 地から生えたか浮島か (三国ぶし)
    〇向こうに見ゆるは淡路の島よ 根からはえたか浮島か(明石の盆踊り唄)

 

松前江差の鷗の島は 地から生えたか渡島か
 弁財船は帆柱一本につき三か所くらい棒杭に網をつけて、島の内側に碇泊していて、その船べりが接しているので渡って歩くによかったのです。

 

♪島の鷗か鷗の島か 鷗に聞いたらわかるじゃろ

 

♪姥が神代の昔も今も 土地の華なり鷗島

 

江差千軒昔が恋しヤンサノエー 倉は千こす二百軒
 千石弁財船橋かけてネ 渡す江差のかもめ島

 

♪今宵入船江差の港ネ はるかに見えるはかもめ島

 

♪ここは何処よと船頭衆に問えばネー ここは江差のかもめ島

 

♪むかし変らぬかもめの島に 女波男波の花が散る (若山せい子)

   江差新聞社主催追分歌詞コンクール第1位 昭和31年1月

 

♪辛い思いを潮に乗せてヤンサノエー 北の国かよかもめ島
 波間に見ゆるは江差の浜辺ネ 風と追分人を待つ (長谷川富夫) 

   第35回記念江差追分全国大会新歌詞  

 

 

参考文献
蝦夷民謡『松前追分』古舘鼠之助 大正9年
追分節物語』横田雪堂 大正9年
『純粋の江差追分』村田弥六 大正9年

『清元研究』忍頂寺務 昭和5年
蝦夷地に於ける和人伝説考』深瀬春一 昭和11年
『正調追分節』三木如峰 昭和14年
江差追分江差追分会 昭和57年
『風濤成歌』江差追分会 平成11年