小室節2

「小室節」には歴史的文献があるわけですので、それらを見ていきましょう。 「小室節」の名称が出てくる最も古い文献といえば、『吉原はやり小唄総まくり』です。これは寛文二年(1662)版の草紙で、<万治二年(1659) 所々より吉原迄の駄賃付けの…

引退

このところ2年間、新型コロナのせいで江差追分全国大会が中止になっている。 その中止になる前の最後の予選会に出場した時には、幸い通過したので全国大会にも出 るつもりでいたところ、体調をくずして棄権せざるをえなくなってしまった。 今思えば、その予…

歌詞考5(碓氷峠の権現様は~)

碓氷峠の権現様は わしが為には守り神 「追分節」の最も古い文献とされているのは、松井譲屋編『浮れ草』<国々田舎唄の 部>文政五年(1822)で、追分節として載せられている次の七首です。 ♪こゝろよくもておひわけ女郎衆、あさま山からおにがでる ♪一…

歌詞考4(大島小島の~)

「大島小島のあい通る船は 江差通いかなつかしや」 この歌詞は今では、 「大島小島のあい通る船はヤンサノエー 江差通いかなつかしや 北山おろしで行く先ゃ曇るネー 面舵頼むよ船頭さん」 というふうに専ら『前唄』として唄われています。だが、古く前唄以前…

わが世相観

島国のゆえに、鎌倉時代中期の「元寇」以外はほとんど外敵に侵されることもなく、ひたすら内争に明け暮れて来た日本は、鎖国ゆえに外国がどのような発展を遂げていたかを知らず、徳川三百年の太平の世を謳歌してきたわけですが、黒船の到来により如何に外に…

趣味・趣向

芸術とは何ぞやを知りたい向きには漱石の『草枕』を読むことをお薦めする。特に、政治的プロパガンダを芸術だと称するやからには是非とも読んでもらいたいものだ。 《智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みに…

初めての白内障手術

わしは元々、いわゆる、ど近眼なのだが、それでもどうも最近急に右目の視力が落ちて来て、字が見づらくなったなと感じたので、医者に行って眼底検査をしたら、『網膜前膜』という病の症状だという。目の奥の網膜に前膜と言う膜があって、それは年とともに自…

お好み格言

『格言』とは、人生の真理や万人への戒めを簡潔にまとめ、教訓とする言葉のことであり、金言、処世訓、箴言(しんげん)などともいう。俗間に広く流布し、昔から言い伝えられているものを諺(ことわざ)、俚諺(りげん)という。英語で言うとproverbが相当する。 …

人生至るところ追分あり

人生とは人の一生である。至るところ山河あり。また山あるところ谷がある。立体的のみならず、平面的でもある。 山があろうと谷があろうと、立体的であろうと平面的であろうと、過ぎてみれば夢、幻のごとしである。 「追分」とは道が二つに分かれたところを…

追分を唄って強盗に遭う

まあなんだな、芸事に限らずなにごとも「キチガイ」と言われるくらいでないと上達しないもんだよ。わしなどは、追分を始めた頃のことだが、唄いながら歩いていて、よく道行く人に振りかえられたもんだ。夜中にどこかの家の軒下で唄っていて、このやろ~って…

咽喉に良い・悪い飲食物について

「春の海」の作曲で知られる宮城道雄の書いたものの中に『声と食物』というのがある。ちょっと面白いので引用します。ーーーーーーーーーー (中略)それと比較して、欧州人の歌うあの綺麗な声は、肉食をしているためであると思っている。それで、声楽家の三…

高い声を美しく出す

わしは30代の頃は二尺で唄っていました。それが三十年のブランクがあり、定年退職後に再開したせいで、今では二尺四寸です。低音は昔から得意だったが、高音がダメージを受けて出にくくなりました。それでもなんとか工夫しています。 五節を例にとってみま…

息の吸い方について

歌を歌う時は,息は鼻から吸うのが理想である。 口から吸うとどうしても声帯が乾燥しやすく音程が不安定になりがちだからである。ヴォイス・トレーニングの教本なんぞを見ても、大体において、鼻から吸うことを推奨しているようです。とはいえ、わしのように…

海にて唄う

わしの住んでる家は海岸まで歩いても15分位のところなので、体調不良になる前はよく散歩がてら海まで行きました。途中、海の手前に県立の海浜公園があるので、中を一周散歩してから海に出ます。一周3キロくらいあるので、ちょっとした運動にはなります。 …

三坂馬子唄

愛媛県中部、久万高原の久万盆地にある上浮穴(かみうけな)郡久万町は、土佐街道に 沿う旧宿場町であり、木材の町としても知られている。江戸時代から、木材は馬車に積 まれて松山に運ばれた。この道中に三坂峠があり、この三坂峠は「三坂三里は五里ござ る」…

正調江差追分歌詞集Ⅱ

『後唄』 『後唄』は、いつ頃、どこで、誰が、加えたのだろうか。 「江差追分」のはじめは『前唄』も『後唄』もなく、全部『本唄』の26文字であって、これを二回繰り返して唄っていたのです。これを大正に入って、「江差追分」を興行で唄うようになってか…

正調江差追分歌詞集Ⅰ

これは何もすべての歌詞を列挙しようというのではありません。いわばわしの「お好み歌詞集」です。それでもかなりの数になるでしょう。 『前唄』 この『前唄』を編み出したのは、南部水沢の虚無僧、島田大次郎と言われている。 昭和9年頃の「江差日々新聞」…

わが詩集

『江差追分に寄せて』(昭和54年32才時) 荒磯の岩に砕けし波しぶき 鴎島に春遠からんを想う 名人の唄を聞くたびわが芸の 遅々たる歩みがもどかしい いつの日かまことの追分もとめつつ 歩いてみたや江差の浜を 波しぶく海に向かいて追分を 声も裂けよと…

鷗島

(江差町郷土資料館より)鴎島 江差には都合11回訪れました。内訳は、追分会に入る前の若い時の個人旅行で2度、セミナーで4度、全国大会で5度である。「鷗島」にはその都度必ず訪れました。江差の風に当たり、江差の匂いをかぐにはこの上ない場所だと思…

古調追分

江差に発生した江差追分は、明治初期、江差地方の風土にとけこみ幾多の変遷を経ながら、愛好者の生活環境や労働形態の相違から、その微妙な節回し、止め方に違いができ多くの流派が生まれてきたのです。「浜小屋節」が最も古い型のようで、ついでその浜小屋…

平野源三郎

平野源三郎のことを何故にこのブログで取り上げようと思ったかといいますと、もちろん江差追分の普及に類まれなる功績を残した人物ということもありますが、なんといってもその名前の響きが気に入ったからです。端正な顔立ちと蒲柳の質の若旦那然とした容姿…

歌詞考6(蝦夷や松前やらずの雨が~)

信州追分宿の「追分節」が文化文政の頃(1804~30)に、流行り唄として日本中に広まった中で、新潟県下にも伝えられ、信濃川の河口に開けた港町、新潟の花柳界でも盛んに唄われた。その「追分節」を覚えた船乗りたちが海上で舵を取りながら口ずさむう…

信濃追分

信濃追分 - YouTube 信濃追分(1972) - YouTube わしは今、健康を回復したら行ってみたいところが二個所あります。一つは神威岬の神威岩であり、今一つが信濃追分宿です。この二個所にはわしの目が黒いうちになんとか行ってみたいものです。神威岩はちと難度…

道中馬方節

道中馬方節(唄・成田雲竹 尺八・高橋竹山) - YouTube 道中馬方節 - YouTube 道中馬方節 成田雲竹 (10) - YouTube この唄は、主に馬市へ馬を連れて行く時の「夜曳き唄」で、博労自身が曳く事も、頼まれた馬方が曳く場合もあるが、馴れない若駒をつないで…

小室節1

「小室(諸)節」が江差追分の源流であるとする説を唱える人達の先駆的存在が、昭和51年に『追分節の源流、正調小室(諸)節集成』を著わした長尾真道であります。 氏は若い時から尺八を習っていて、追分節の譜を買い求めた時に、その説明書の中に小室節が…

上州馬子唄

上州馬子唄 - YouTube 三国峠越えの三国街道で、駄賃付けの馬子をしていた樺沢芳勝が唄い始めた。このあたりの天気は越後側からくずれてくる。そうすると、三国街道を北上する馬子がこの唄を歌う時の位置は、赤城山の山麓で、前橋宿から渋川宿あたりまでであ…

箱根馬子唄

箱根馬子唄 箱根八里は~ 箱根名所巡り - YouTube 東海道を江戸日本橋から西へ11番目の宿・箱根は、東海道随一の難所で、峠を越す旅人は、馬や駕篭を利用しなければならなかった。箱根山を中心として上り下りの旅客や荷物を馬の背につけて運んだ駄賃付けの…

南部馬方節

曲がり屋 「南部馬方節」は、この唄が「馬子唄」ひいては「追分節」の源流であるという民謡研究家もいるくらい有名な馬子唄です。 これとは別に西の「小室節」が、「馬子唄」ひいては「追分節」の源流であるとする説もあり、それは別の項でとりあげたい。 以…

鈴鹿馬子唄

漱石の『草枕』に次の一節がある。 ーーーーーーーーーー 山を登ってから、馬には五六匹逢った。逢った五六匹は皆腹掛をかけて、鈴を鳴らし ている。今の世の馬とは思われない。 やがて長閑な馬子唄が、春に更けた空山一路の夢を破る。憐れの底に気楽な響が…

「馬子唄」と「馬方節」

「馬子唄」と「馬方節」、「駄賃付け」と「夜曳き」 わしがまだ子供であった昭和30年頃、馬が家の前を馬糞をボタボタ落としながら引かれていく光景を覚えています。 当時、祖父がまだ元気で漁師と百姓をしていましたが、わしが生まれるずっと前には自分の家…