江差追分事始め

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 わしが最初に江差追分を耳にしたのは(その時はその唄が江差追分であることすら知らなかったわけだが)20代後半で、一時的に埼玉に住んでいた時です。

大学が埼玉にあって、卒業後もなすことなくアルバイトをしていた時期です。

 そのアルバイト先の近くに料理屋があって、初めて入った時に民謡が流れていたんですが、その中にズンと心に響く唄があって、料理屋の主人に聞いたら江差追分だという。それが私と江差追分の出会いです。

 その後もその唄を聴きたくてそこに通って、主人とは大分なじみになり、そのうちテープを買って聴くようになりました。

それで料理屋で聴いたのが初代浜田喜一氏だと分かった次第です。その当時は浜田喜一と佐々木基晴のテープが一般的に流布されていました。テープがそれこそ擦りきれるくらいに聴いたですね。真似て唄ったりもしましたが音程が狂ったりで散々でした。

 話の中でその主人はかつて函館に住んでいたんですが、家の前で作業をしながらいつも追分の同じ個所を何度も何度も繰り返し唄っている人がいて、それが佐々木基晴さんでしたと語ってくれました。

 そうこうするうちにアルバイト先で民謡を習っている人が先生を紹介してあげようかというので、近くの民謡の先生を紹介してもらうことにしました。

 その先生は女性でしたが、テレビに出演したりするようなかなり民謡界では有名な先生でしたが、当時はわしも怖いもの知らずというか、いきなり”江差追分を教えてくれませんか”とやっちゃったんですな。そうしたら、一瞬あきれたような顔をした先生は諭すようにこうおっしゃったんです。”あなたね~、最初から追分をやると肺を壊すからやめなさい”と言われて、なるほどそれもそうかなと思って、ソーラン節から始めることにしました。一年の間にソーラン節と酒屋唄と網のし唄を習いましたね。

 丁度一年がたった頃に、民謡のせいなのかは分かりませんが肺を壊しまして実家に帰ることを余儀なくされました。 

 実家に帰って病が癒えた後、いわゆる就活で追分からは暫く遠ざかっていたんですが、ようやく仕事も決まり生活の基盤が出来上がりました。

 当時は民謡ブームの真っ最中で、あちこちに民謡酒場があって、よく仕事がえりに行ったものです。ある時、民謡酒場で知人と飲んでいた時に、プロ歌手の芳村君男氏も来ていて、話をしていく中で追分を得意にしていると聞いたので、ずうずうしくも掛け合いを所望しまして、それでも嫌な顔一つしないで応じてくれました。さすがに上手いなと思いましたね。芳村氏の唄い方はいわゆる正調の唄い方ではなかったのですが、その頃は江差追分に正調があることは知らなかったので、とにかく教室に通わせてもらうことになりました。

 芳村先生の歌は正調ではないので、当然江差追分会には加入していませんで、郷土民謡に所属しておりました。私もその郷土民謡の大会に何度か出させてもらってトロフィーもいくつか貰う事が出来ました。唄は当然追分です。年は三十位でしたので、今と違ってとにかく声は気持ちよいくらいによくでました。

 芳村先生のところには三年ほどお世話になりましたが、嬉しいことと残念なことが一つづつありました。嬉しいことは、武道館での郷土民謡関東大会の年令別で優勝したことです。昭和56年5月のことです。その時の優勝トロフィーは娘が出来た時にオモチャにされ、土台しか残っておりませんww。残念なことは、県大会で予選、準々決勝、準決勝を通過し決勝20名の中に残ったのはいいが、仕事の都合でどうしても出場できなかったことです。出場できなかったことよりも先生を失望させたことが心残りでした。 

 芳村先生は初代浜田喜一の名取でもありましたが、民謡研究家の竹内勉のところにも通っていて、どうもそこで「せつど」のない追分を薦められたようで、その唄い方を得意にしておられました。

 そのことは、竹内氏は著書『民謡地図』③167頁でこう言っています。

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 それともう一つ、昭和五十年代はじめ、我が家に初代浜田喜一の弟子で、「江差追分」を唄う男などが集まって、「江差追分」の勉強会を開いている折り、菊地淡水も尺八を持って加わってくれたことがある。その時の言葉は、

 「ここは型にとらわれないからいい。それで唄い込めば充分」

と、江差で愛用している「『江差追分』波状曲譜」を否定して帰っていった。私はこれで賛成者が二人になったと喜んだことを覚えている。

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 つまり、竹内氏は「基本譜」否定論者の一人でもあったわけだが、竹内氏のいう江差追分の姿というものは一体どんなもんだったんだろうか。

 

 わしも一度何かの機会に芳村先生に紹介されてお会いしたことがあります。”竹内先生の『追分節』という本読ませていただきました”と言ったところ、”あんなものはゴミ箱にでも捨てておいてください”なんて言うものだからちょっとシニカルな人だな~という印象をもちましたね。さらに芳村先生が”この人はなかなか追分がうまいので今度機会があったら聞いてみてください”と言ってくれたんですが、”あ、そ”で終わってしまいガクっときましたね。

 

 ある日わしが生意気にも、『先生の唄は「せつど」がありませんね』といったら、芳村先生非難されたと思ったのか、『僕ぁ、この間本場の江差の舞台で唄ってきたが、大いに好評を博したぜ』とおっしゃるものだから、そいつはどうも恐れ入りました、と答えたのを覚えています。私が三十代初めころの話です。

 芳村先生はプロ歌手なわけなので、竹内氏の影響もあり「正調江差追分」の唄い方に満足がいかなかったものと思います。とはいえ普通なら生徒に、自分と同じように唄いなさい、というのが当たり前なところを、「せつど」を入れて唄ってもとがめだてをしない懐の広い先生でした。 

 そうこうするうちに、全国大会に出たいという欲が出まして、わしの家から一番近い支部を事務局に確認したところ品川に支部(今は無くなっています)が一つありますとのことなので早速入会しました。本格的に追分を始めて四年目のことです。

 当時は地方予選のない時代でしたので、支部推薦で全国大会に出場できたんですが、どういうわけかいきなり出場させてもらえました。昭和58年の第21回大会です。

 

いまはまるでコンサート会場のように皆さん上品に聴いていますけど、そのころの会場の印象はとにかく騒がしかったですね。唄ってる間もガサガサ袋を開けて煎餅はかじるは、隣の人と唄の批評はするはで、とにかく騒々しかった。でもそれがまた関東から来たわしなどから見てもごく自然な感じで、江差追分とはこういう中で唄うもんなんだと思いましたね。

ところが、これはうまいという歌い手が出ると会場が水を打ったようにし~んとなるから面白い。まさに歌い手と聞き手が一体となっている感じがしたね。

そうこうするうち、いよいよわしの唄う番がまわってきたんだが、関東の見たこともないやつが出たなぐらいに思われたか残念ながら、し~ん、とはならなかったようだ。ところが、一節を無事唄い終わりやれやれと思って、二節を唄い終わったところで前列の方から、なんと うまい!、という声がかかったんだ。これですっかり舞い上がってしまったのか、見事に五節でこけてしまいました。

でもまあ初出場にしては上々の出来じゃなかったかな。

 

本番前には格付審査も初めて受けまして、4級秀をいただきました。

翌年の第22回大会にも出場させてもらいましたが、この時も五節でこけました。

 

その後、所帯を持ったり、仕事が忙しくなったりで追分に対する情熱が急速に冷めてしまい、追分会を脱会してしまいました。再び追分にとりつかれたのは三十年経った定年退職後のことです。それからの経緯はまたの機会に。