歌詞考1(色の道にも~)

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「色の道にも追分あらば こんな迷いはせまいもの」

 

  明治三十四年(1901年)『江差』川竹駒吉

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 江差追分節は元は江差が始まりである。天保の頃、貸座敷の尚切石町にいた、ある一人の芸妓が孕むということがあった。これより前、盲人の佐ノ市という者が作ったケンリョ節というものがあって、この話を聞いてすぐに「色の道にも追分あらばこんな迷いはせまいもの」という歌詞を作った。これが江差追分の初めだという。

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 森野小桃『江差松前追分』 (明治43年)

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 天保の頃、わが江差の芸妓の一人が、うっかりと客の胤を宿して、それを苦に病み悶々として楽しくない日を送っていた。これより前、按摩の佐の市という者が、けんりょ節というのを創作して、いろいろな歌詞を作っていたが、この話を聞いて、すぐに「色の道にも」の歌詞を作った。。これが江差追分の初めだと伝えられている。その意味は解釈するまでもなく、すなわち、恋の道にも追分があったならば、こんな迷いはしなかったものをーーつまり、あまり、深入りしたために遂に種をまで宿し、線香は落ちる、働けない、誠に物憂い日をのみ送らなければならぬ場合に陥ったのも、恋路の闇に踏み迷った自分の誤り、もしもこの道にも、追分があったならば、こうして踏み迷いはしなかったものをーーと嘆いたのだ。あまり知られていない唄だが、たしかに秀れた作である。 

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 ここではこの歌詞は佐の市の創作であるとしているが、本当のところはどうなんだろうか。

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 江差町字中歌町 東本願寺別院に追分の祖師佐之市の碑があります。
昨年の全国大会の折、初めて訪れました。
この佐之市は、佐の市とも佐ノ市とも書かれますが、寛政年間(1789~1800年)盛岡から来た琵琶師の座頭佐之屋市之丞こと佐之市とも、町人佐野屋市兵衛のこととも言われており、はっきりしたところは不明のようです。ただ地元の天保問屋荷揚唄』に、
「追分はじめは佐ノ市坊主で芸者のはじめは蔦屋のかめこ」という唄が載っているところから架空の人物ではなく、実在した人物として祭られているのです。
 ところで余談ですが、実は最近思わぬところでこの人物の名前を見つけました。すなわち尾崎紅葉が明治26年に発表した『心の闇』という小説の主人公が若き按摩の佐の市なのです。

尾崎紅葉全集. 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
一瞬これはと思ったのですが、さすがに時代が明治で、所も宇都宮とくれば追分祖師の若き佐の市をモデルにしたとは考えにくいが、夜道を歩きながら
 ♪ 命懸けても添わねばおかぬ、添わにゃ生きてるかいが無い
と唄うところなどは、座頭佐之市が作ったといわれる、「色の道にも追分あらば、こんな迷いはせまいもの」と共通する追分風な感情が読み取れて面白い。とはいえ前の唄は追分風というにはちと艶っぽすぎるか。

 

 民謡研究家の竹内勉がこの歌詞について湯朝竹山人が『歌謡集稿』でとりあげていることについての注釈として、
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 この歌詞については、私もあえて注釈を加えておく。江差では、「江差追分」が我が町で誕生したと思い込みたい人々が、いまだに寛政年間(1789~1801)に、座頭の佐ノ市が、南部津軽(現青森県)方面からやってきて、酒席を賑わしながら、「けんりょう節」(検校節が訛ったもので『越後松坂』のこと)を元にして、先の歌詞を唄い出したのが「追分節」(のちの『江差追分』の本唄のこと)の始まりで、開祖として祀りあげている。
 この話は、
  色の道にも 追分あらば
  こんな迷いは せまいのに

  あやこ(酌婦)よければ 座敷がもめる
  もめる座敷は けんりょ節
の二首を組み合わせての創作話である。佐ノ市が実在するかどうかの問題とは全く別の問題である。
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 と述べているが、湯浅竹山人が『歌謡集稿』でどう取り上げているかと言うと、信州追分節の列挙の中で、

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「色の道にも追分あらば こんな迷ひはせまいもの」

 あまりに世間に流布しすぎるためこの唄なども粗末に思われているけれど追分節として広く唄われて来た。この一首が北海松前節にまで伝唱されているのが不思議なほどだ。北海道にこの「色の道」の文句が伝わっているという事実は信州追分節の北遷と何等かの推移交渉のあることかと推量もされる。 

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 と語っているところから参考にしていると思われるが、勉くんが創作話だとしているのは多分、佐ノ市が天保の頃切石町の妓楼で、客の子を孕んだ女が苦しんでいるのを見て、同情してこの「色の道にも~」の唄を創作したといわれていることを言っているのであろう。

  しかしながら、信州追分節の伝播ルートは越後を経由した海上ルートの外に南部ルートも知られているわけで、南部津軽方面からやってきた座頭の佐ノ市がこの一首を引っ提げて蝦夷地にわたり、そこで開花させたと考えればなにも創作話だなどと言う必要もないわけであります。

 

 阿部龍夫などは、その著『江差追分其の他』(昭和28年)の中で、

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 この唄が追分のはじめだと云われるのは、唄の中に追分という言葉があるためでありましょうが、どうも内地出来らしい匂いのする唄であります。

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とオブラートに包んで述べております。北海道産というには詞が艶っぽすぎるということだろう。

 

 また、河合裸石は蝦夷地は唄ふ』(昭和十年)の中で、

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 信州の追分節から福山なり江差なりの追分節の歩いた道程をたどって見るとその節の変化が明らかに判るのである。いや節ばかりではなく歌詞までが輸入そのままを唄っているなどはこの追分節が信州追分の産である事を証拠立てる。例えば、

   色の道にも追分あらば こんな迷いはせまいもの

などは信濃で出来た歌である。

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と述べていますが、この歌詞が信州追分節としていつから唄われてきたのかは浅学でわかりません。

 文政五年(1822年)の『浮れ草』の中の「国々田舎唄の部」に追分節と思われる七首が載っているが、この中には「色の道にも~」は入っていないし、文久二年(1862年)の『粋の懐』第七編に「追分ぶし 二上がり」として四首上がっているが、この中にも入ってはいません。

この辺の文献にこの歌詞が載っていれば、はっきりするのだが、『歌謡集稿』が出版されたのが昭和六年、それ以前の大正十四年発行の『正調信濃追分(矢ケ崎七之助編集)という冊子に、信濃追分節歌詞として50首ばかりの中に、この「色の道にも~」の歌詞が載せられているのみなので、信濃方面発祥の歌詞であるとは断言できないと思われるが如何。 

 

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(分去れ)さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿