歌詞考2-1

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(神威岩)

 

「忍路高島およびもないが せめて歌棄磯谷まで」

 

 私が最も愛唱する歌詞です。

「鷗の鳴く音に~」が全盛の中で、何故にこの歌詞に惹かれるのか自分でも判然としないのですが、心を捉えて離さないその哀哀切々、男と女の情愛溢れる想いが何とも言えず私の趣味とマッチする故かとも思はれます。

 

 また、これほど古来その由来について云々されてきた歌詞はないのではないでしょうか。 

江差追分の元歌ともいうべきこの歌詞は、元禄四年(1691年)の松前藩の政治的思惑による神威岬より北には女人通行禁ずる、とのお達しによって、想い人と引き裂かれた女の心情を歌い上げたもの、というのが大方の見るところでしょう。私もその心情で唄っております。

 

 明治40年『風俗画報(第374号)』の山下重民氏の追分記事 😿

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 何時の事なりけん、越後(越中の誤)は、高岡の漁師の妻に鄙には珍しき美人あり、良人は舟を褥とし、海の上に明し暮す活計とて、昨日は東今日は西、波のまにまに行衛も定めなかりしが、或年のこといかにせしか、良人は定めの月日を経ても帰り来たらず、更に便りすらなきことゝて、妻は痛く船路の良人の上を歎き佗び、果は悲に得堪へず、良人の船が泊として思ふ北海の函館にまで辿り行き、日毎海岸に立て舟の来るを待てど暮せど、恋しき人の姿は夢にも見えねば、遂には哀れにも心や狂ひけん、唯、

 忍路高島及びもないが、責て歌棄磯谷まで。

と明け暮れ聲高らかに唄ひて、函館の市中を西と東と駈け歩く、其の聲音の清らかなるさへあるに、調子の悲愴人の心に沁み渡る許りなれば、雨の日、月の宵、之を耳にする人々は、何れも狂女の心根を哀れみて、妙なる歌の節に袖を絞らざるはなく、遂には土地の人も之を習ひ覚ゆるに至りぬ。

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 文中、越中高岡は工業地帯で漁師の住むようなところではないので新湊あたりの間違いではないのかという人もいるようだ。 

 

 大正五年、木村恒氏が様々な恋の伝説を集めた『戀の伝説』という本を出した。

その中の「松前乙女」(函館)を要約すると、

 松前の乙女が、恋しい人がいる忍路に行きたいと船頭に頼み、船頭が神威岬を越えて女人を連れて行くことはできない、とあくまでも断ると、それではせめて歌棄か磯谷まで連れて行ってください、と涙ながらに頼むのを船頭が可哀そうに思って、とうとうそこまでなら連れて行ってあげましょうと言う。

 船頭たちは皆この哀れな情の濃い乙女の胸の内を哀れみ、誰の口からともなく、

   忍路高島及びもないが せめて歌棄磯谷まで

と唄い出した。今も彼地の船頭はその唄をよく唄っている。

 という内容です。

 

 大正11年『正調江差松前追分』 越中谷四三郎他 🐎

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 忍路高島の歌の起源は

 約百三四十年前、奥場所(神威岬から奥)が開拓かれて、上場所の番人が、奥場所へ移った。メノコは従いて行きたいが神威岬があるので、従いて行かれぬのを非常に悲しんだ。其時番人が歌を残して、船を浮かべて行って了った。残されたメノコは慕はしさの餘り、大膽にも道のない浜邊傳いを追って目的地の手前まで艱難辛苦して岩を伝って辿り着いたが、折柄の大吹雪に遇って遂に行き倒れて死んで仕舞った。雪が消えてから岩と岩との間に死骸が横たはって居た。此の哀れな話が江差、福山あたりへ伝はって来た時に、琵琶弾き座頭で、佐の市と云う者が聞いて、可哀想と同情の餘り作って唄ったのが此の文句の始まりであるとも伝へられて居る。

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大正9年『蝦夷民謡 松前追分』古舘鼠之助編 🐭
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 『忍路高島』の由来に就ては従来種々の説が伝はって居るが、一説には越後の漁師が新潟の女郎に迷ひ、妻の有る身も打忘れてセッセと通ひ詰めた揚句が、お定まりの借金で首が廻らず、遂々その女郎を連れ出して一夜北海道へ逃げて来た。其事が漁師の妻に知れると、可哀想に朝顔日記の如く、夫を尋ねるばかりに女の一人身で旅から旅への如に渡り歩いた。其して漸っと江差へ着いて見ると、戀しい夫の姿は此處にも見えず、漁師仲間の話には、疾うに其人なら中場所へ行ったと云ふ事なので、またも江差を後にしやうとしたが、其處には哀れにも積丹半島の西北端に、女人を入れぬ神威岬の障碍物が横たはって居た。

 この岬から以北へは、昔から婦人の入るのを厳しく禁ぜられ、この禁を冒す時は鮭や鱒が絶対に獲れなくなるばかりで無く、大荒れの為めに近郊近村は非常な神の怒りを蒙ると云ふアイヌの迷信から、安政三年頃までは神秘なる岬として兎も角も封ぜられて居たものである。

 此岬の有る為に、漁師の妻は戀慕うふ夫の後を追ふ事が出来なかった。それで日毎夫戀しさの情が募り、江差の濱へ出ては朝夕中場所の空を眺めて悲嘆の涙に暮れ而して遣る瀬無い自分の情緒を謡ったのが、今の忍路高島であるとの説である。けれども是を江差の古老から聴くと、全然否認されて居る。此歌の出所は矢張り積丹郡神威岬が発端ではあるが、當時江差松前あたりで漁師や移住者の内地人等が、女房や情人といつも辛い別れをして行かねばならなかったので、其惜別の情を前の幇間佐の一に作らせたのが此唄の起因であると云って居る。蝦夷草紙から見ても後者の説が真箇であるらしい。

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 昭和11年『懐古情緒 哀艶切々追分節の変遷』石島鷗雅著 🐤

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 越後の或る船頭が、新潟の歌妓と深い戀中になって、やがて型通り圓かなる家庭に、三味線持つ手には水桶さげて、水も漏らさぬ楽しい數年を過ぎたのでありますが、夫は船乗りの身の事故、一度家を出て波の上に浮べば、浮草のやうな身の生業であります。

或る年の一月、夫は戀女房を置いて遥に松前の地に渡った。残された女房は一人わびしく空閨を守って、待てども待てども夫からは何の音信もない。遂に待ちあぐんで、可弱い女の身を一人はるばる夫の後を慕ふて松前に渡り、諸所心當りを探し廻ったが、探せど尋ねど影さえ見えず、尚も曲せず気も狂わんばかりに夜毎々々に江差の濱邉をさまようて、よき音信もやと、百方夫の行方を捜したところ、ある奥地通ひの漁夫の話に依って、尋ねる夫は遠く奥地に出稼ぎして居るといふことが判明した。併し奥場所への海路途上にある御神威岬以北へは婦人の入ることは禁制となって居るため、尋ねて行くことも出来ず、妻ははつこいの初戀の昔を偲びながら、獨り煩悶は募り、自ら、

  忍路高島及びもないが せめて歌棄磯谷まで

 と夫を慕ふ真情を吐露した歌を作って、追分節の調律に合せ、やるせない胸の苦悩を癒やさんものと、朝な夕な、何百遍となく繰り返し繰り返し悲痛の聲を絞って唄って歩いた。この哀れな女の胸中を知るも知らぬも、皆其の凄艶な唄ひ振りに断腸の涙を絞ったといふことであります。之が江差松前追分節の起原であると傳へられて居ります。

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 明治19年、夜短坊大瓶選『唱歌諸芸粋の種本』に、「おゐわけ」として6首ある中に、 

 ♪ おしよろ高しまおよびはないがしめてうたせてゐそやまで

が見られるが、これをどう評価すべきか私にはわかりかねます。

  

 明治27年『日本風景論』の中で志賀重昴氏は、神威岬にふれた個所で

 ♪ 忍路高島及びもないが せめて歌棄磯谷まで

を載せています。

 また同氏は『眼前萬里』の、北海道拓殖の祖先(御神威岩の由來)の項に

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 北海道に遊ぶ者、紅燈緑酒の下、

     忍路高島及びもないが せめて歌棄磯谷まで

追分節を聴かん、正に是れ一曲の想夫憐、聲々悲哀、聴く者の腸を断つ。

 北海道の北西突角を神威岬(後志國積丹半島)となす、岬端より一鏈半、一大岩石の屹として高く特立するあり、高さ四〇米突、其形人の如く、古來土人以て神となし、御神威岩と名け、此處を過ぐる時、舟人合掌三拝し、米酒を海に投じて祭る。

 口碑に云ふ、昔源義経蝦夷酋長の女に昵み、別を告げずして北に渡る、女追ひ神威岬に至りて及ばず、義経の船を悵望し、身を震はして哭き、呪いて曰く、和人の船、婦女を載せて此處を過ぐれば忽ち覆没せんと、遂に御神威岩と化す。是より以後、本州の船、婦女を載せて神威岬以上に入らず。忍路、高島は岬の彼岸にあり、歌棄、磯谷は岬の此岸にあり、追分節は即ち紅閨離別の情を酌みて此く歌うもの。

 安政三年、幕吏梨本彌五郎謂らく、天孫の裔豈に蝦夷に殖う可らざるの理あらんやと、自から妻女を船に載せ、鳥銃を放ちて岬を過ぐ、本州婦人の蝦夷内地に移住する是に始まり、所謂北海道拓殖は事実上彌五郎の此行より始まる、随て追分節や無意味となるも、節の悲哀なる聲は今に聴かれ、本邦の歌謡中第一に推さる。

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と記している。

 

 また、明治28年の『琴曲獨稽古』大橋又太郎編に、追分節二上がりとしてこの歌詞が載っています。

 

 『歌謡字数考』明治41年 中根香亭著には

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 渡島松前

  此の唄松前節と称すれども北海道全地にて謡ふ 元は舟歌なるべし

 「おしオろ高島、およびもないが、せめて歌棄、磯屋まで」

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とあり、かなり広範に唄われていたことがうかがえます。ただし「磯屋まで」は「磯谷まで」の間違いでしょう。

 

 とまあ、ここまではレジェンダリーでロマンティックな由来を中心にいくつか紹介しましたが、次回は少しばかり生臭い由来にあたってみたいと思います。