歌詞考2-1(忍路高島~)

f:id:daaji:20170907154251j:plain

(神威岩)

 

「忍路高島およびもないが せめて歌棄磯谷まで」

 

 わしが最も愛唱する歌詞です。

「鷗の鳴く音に~」が全盛の中で、何故にこの歌詞に惹かれるのか自分でも判然としないのですが、心を捉えて離さないその哀哀切々、男と女の情愛溢れる想いが何とも言えずわしの趣味とマッチする故かとも思はれます。

 

  明治19年、夜短坊大瓶選『唱歌諸芸粋の種本』に、「おゐわけ」として6首ある中に、 
 ♪ おしよろ高しまおよびはないがしめてうたせてゐそやまで


が見られるが、わしの知る限り文献に現れた中では最も古いものの一つであろう。 

 


 明治27年(1894年)に志賀重昴が初めて『日本風景論』を著わしたが、その中でこの歌詞に触れた個所があります。

 これは海流が神威岩をいかに侵食したかという項目の中で漢文で記されたものであるが、後に氏の『眼前萬里』の中で「北海道拓殖の祖先(御神威岩の由来)」として、わかりやすく書かれたものがあるので、それを引用してみます。
ーーーーーーーーーー
 北海道に遊ぶ者、紅灯緑酒の下、
      忍 路 高 島 及 び も な い が
            せ め て 歌 棄 磯 谷 ま で
追分節を聴かん、正に是れ一曲の想夫憐、聲々悲凉、聴く者の腸を断つ。
 北海道の北西突角を神威岬後志国積丹半島)と言う。岬端より約280m、一大岩石がきっとして高く立っている。高さ40メートル、まるで人形のようにして、古くよりアイヌは神として敬い、御神威岩と名づけた。ここを通過するときは、舟人は手を合わせ三拝し、米酒を海に投げ入れて祭るという。
 言い伝えによれば、昔、源義経アイヌ酋長の姫とねんごろになったが、別れを告げずに北に渡った。姫が後を追い、神威岬まで来たところ間に合わず、呆然と義経の船が去るのを眺め、身を震わして泣き、呪って言うには、本州の船が女を乗せてここを通過しようとすれば、たちどころに沈没するだろうと。遂には御神威岩となった。これより以後、本州の船、婦女を載せて神威岬以上に入らず、忍路、高島は岬の先にあり、歌棄、磯谷は岬のこちらにあり、追分節はすなわち紅閨離別の情を酌みてこのように歌うものである。
 安政三年(1856)、幕吏梨本弥五郎が思うに、天がいわれなく蝦夷に害をなすことがあろうかと、自分ともども妻女を船に乗せ、銃を打って岬を通過した。これ以降、本州婦人も蝦夷奥地に移住することが出来るようになったのである。いわゆる北海道拓殖は事実上弥五郎のこの行いにより始まったのである。これに伴って、「忍路高島」の歌詞は無意味となるも、節の悲凉な声は今も聴かれ、わが日本の歌謡中第一に推される。
ーーーーーーーーーー
 志賀氏がどこからこの言い伝えを聞いたのかは不明なれど、学者であるからして全くの作り事ではなく、当時こういう言い伝えがあったことは確かであろう。



 また、明治28年の『琴曲獨稽古』大橋又太郎編に、追分節二上がりとしてこの歌詞が載っています。

ーーーーーーーーーー

 忍路高島およびもないが、ソイソイ「せめて歌棄磯谷までソイソイ

 この節は北海地方は勿論、函館や新潟あたりには盛んに流行ったけれども、江差が本場とすべきである。そもそも追分節は、右地方の船人がもっぱら唄うものだと、かつて聞いたことがある。この唄は北海の荒波を渡航する船人が時として難風大雨に遭遇して、船が転覆する恐れのある時、船人等が一斉に櫓櫂を操って勇気を鼓舞する為に唄うものだという。その際には、何となく愁いを含んだ音に聞こえるものである。また、前にも言ったように、元々海上の唄なのでこれに合せる三味線の音も、一の糸をトンと弾く音はすなわち波の音を模したものである

ーーーーーーーーーー 

 

 明治34年『江差』川竹駒吉

追分節として7首ほど挙げている中に「忍路高島及ひもないがせめて歌棄磯谷まで」が見られる。

 

 

 明治40年『風俗画報(第374号)』の山下重民の追分記事「函館の追分節」 😿
ーーーーーーーーーー
 いつの事だろうか、越後(越中の誤)は高岡の漁師の妻に、田舎には珍しい美人がおり、良人は舟を褥とし、海の上に明し暮して生計を立てていたが、昨日は東今日は西、波のまにまに行方も定かでなかった。ある年のこと、どういうわけか良人は定めの月日を経ても帰らず、さらに便りすらないので、妻は痛く船路の良人の身を心配し、はては悲しみに耐えきれず、良人の船が泊まっていたと思われる北海の函館にまで辿って行った。ところが毎日毎日海岸に立って舟の来るのを待てど暮せど、恋しい人の姿は夢にも現れぬので、遂には哀れにも狂ってしまった。ただ、
 忍路高島及びもないが、責て歌棄磯谷まで
と明け暮れ声高く唄って、函館の市中を西へ東へと駈け歩く、その声の清らかなうえに、調子の悲愴が人の心に沁み渡るのであった。雨の日、月の宵、これを耳にした人々は、誰もが狂女の心根を哀れに思って、素晴らしい歌の節に袖を絞らぬ人はいなかった。遂には土地の人もこの唄を習い覚えたのであった。 
ーーーーーーーーーー
 文中、越中高岡は工業地帯で漁師の住むようなところではないので新湊あたりの間違いではないのかという人もいるようだ。

 

歌曲全集』明治41年五月 由盛閣出版に「追分節」として 

「おしよろ高しまおよびもないがせめて歌すつ磯屋まで」が載っており、

歌謡字数考』明治41年六月 中根香亭には

ーーーーーーーーーー
 渡島松前
  この唄松前節といわれるが、北海道全地でうたわれている 元は舟歌であろう
 「おしオろ高島、およびもないが、せめて歌棄、磯屋まで
ーーーーーーーーーー
とあり、かなり広範に唄われていたことがうかがえます。ただし「磯屋まで」は「磯谷まで」の間違いでしょう。 

 また、これほど古来その由来について云々されてきた歌詞はないのではないでしょうか。江差追分の元歌ともいうべきこの歌詞は、元禄四年(1691年)の松前藩の政治的思惑による神威岬より北には女人通行禁ずる、とのお達しによって、想い人と引き裂かれた女の心情を歌い上げたもの、というのが大方の見るところでしょう。私もその心情で唄っております。

 

 

 明治43年(1910年)、江差出身の作家森野小桃(庄吉)は『江差松前追分』を著したが、その中で氏は次の如く江差追分の起原につき書いている。
ーーーーーーーーーー

『忍路高島及びもないが、せめて歌棄磯谷まで』と悽愴悲痛の情を含む一篇の哀謡に、之れ、邦国平民文学の白眉と言う可き、名謡松前追分節の一節である。(中略)

されば怒涛逆巻く北海の地、早く既に文化文政の頃より、舟子欵乃の間に伝へられ今尚ほ人口に膾炙されて居る。北は宗谷根室より、南は庄内秋田から北越地方まで、陸は馬士唄となり海は欵乃として、月冴えわたる芒の路、鷗なくなる浪の上、或時は鈴のねと和して或時は櫓の音と交って、哀々の曲悲愴の調、常に人の腸を絶った。

実に本道松前追分節の本場として、其名天下に普く、松前と言へば追分節を思ひ出し、追分節と聞けば松前を思い起す位い。然かも星移り物変って往時の栄華は夢と残るばかり、哀れや城下松前は、今、僅かに餘喘を保つに過ぎず、従って追分節の名手も四方に散じて昔日の俤もなく、現今では、殆ど本場には之を完全に唄ひ得る者が無い。

 翻ってわが江差を見るに、嘗ては、江差追分の名を博し、又た、追分節数十編の中、尤も悽愴無限の調を含む逸品として、人口に膾炙されつつある『忍路高島』の名謡草創の地として、追分節とは実に、離る可からざる関係を有し、又た之が歌曲を能くする者にも乏しくなかったが、前者同様の理由の下に、今では甚だ心細い次第となって居る。(中略)ーーー懐ふに、此の一篇は純乎たる哀謡である。調の悲痛、曲の哀憐、纏綿の想ーー、縷々つきざる万斛の涙が、其の背面に横溢して居るでは無いか。
而かも、春風秋雨幾百星霜、名曲いたづらに埋れて、能くその起源を知る者だも無い。
我、久しく此を遺憾とし、どうかして世に紹介するの機会を得たいと欲し、或は伝説に、或は口碑に、古墨を探り古記を渉り、断簡零墨の細をも之を空しくせず、辛ふじて、嵬集し得た材料に依って、今茲に、朧気ながらも、這箇、一篇の哀謡の起源について、頗る興味ある、しかも可憐なる一場の悲劇を物語らうと思ふ。
蒙昧なる土人より棲む人もなかった蝦夷地時代の、北海の哀史、そも、如何なる事実が諸君の眼前に展開さるるか、請ふ、暫く待ち給へ。
ーーーーーーーーーー
 という調子から始まるのであるが、あまりの名調子につき、原文のままにしました。以下要旨。 
 文治5年の秋も暮れんとする頃、積丹半島土人の酋長シタカベの娘フミキ姫は、同族の若者とめでたく千代萬代と契りを結ぶべく、巌上に篝をたいて、遥に彼のカンムイ岩の神霊へ誓いの言葉を建てようとしていた所であった。
そこへ突如一艘の小舟が断崖目掛けて漕いで来たのである。
すわ何人ぞと怒れるシタカベ、崖をよじ登ってきた義経に、唐竹割の真っ二つにと打ち掛かるも、敢え無くもんどり打って投げ出される。
これは只人ならん神威岩の化身に違いないと一同岩上に跪いて額から汗を流し、ひたすら命を請うた。それからというものは、シタカベは義経をヨシツネ様として丁重に扱い、敬まっていた。
フミキ姫はといえば次第に義経に惹かれ恋心を抱くようになり、義経もまたフミキ姫の真心を憎からず思うに至った。かくして1か月ばかり、この頃は巌頭にヨシツネ様の影を見る日が多くなった。ただ一日。肌をつんざく吹雪を物ともせず、黙して沖遠く眺め入っている。その心中の大望は天地広しといえども、もとより知る人のあるべき道理がない。
ある夜、怪しい夢から覚めたフミキ姫はヨシツネ様のことが気がかりになって、居ても起っても居られなくなった。物狂わしく、立ち上がるとひた走りにかの巌頭目掛けて走ってゆく。そこに見たのは、果てもない海原に揉まれもまれて沖を心ざす一葉の舟。その舳先に立ち高く手を振る愛しき人。
今は身も世もあらざるフミキ姫、いままさに絶壁より身を躍らせんとする刹那、シタカベに抱き止めらる。なおも振り払おうとするフミキ姫。結婚相手の有る身でかかる醜態は何事ぞとシタカベは、白刃一閃!悲鳴と共に血潮の中に姫は敢えなく倒れたのである。
それから後、結婚相手の若者は一日も欠かさずに巌頭に姿をあらわし、美音もって悲嘆の唄を歌い続けた。やがて春となると、フミキ姫が最後を遂げた跡に不思議な草が生えた。土人たちはそれをフミキ草と称えた。ある夕べ、若者がいつものように巌頭に来て佇むと、草の中に一枚美しいのがあったのを取り上げて吹いたところ、何とも言えぬ微妙な音がする。これは姫の魂が、いまなお空に彷徨うて浪の音となって巌下に砕けるので、それが若者の追想の曲と合致するので、かくは幽美な曲となって聞かれるのだと思われた。これ、実に哀謡松前追分の濫觴である。

ーーーーーーーーーー

 後半、義経伝説の部分は創作的色彩の濃いものとなっています。 

 

  

 大正五年、木村恒が様々な恋の伝説を集めた『恋の伝説』という本を出した。

その中の「松前乙女」(函館)を要約すると、

 松前の乙女が、恋しい人がいる忍路に行きたいと船頭に頼み、船頭が神威岬を越えて女人を連れて行くことはできない、とあくまでも断ると、それではせめて歌棄か磯谷まで連れて行ってください、と涙ながらに頼むのを船頭が可哀そうに思って、とうとうそこまでなら連れて行ってあげましょうと言う。

 船頭たちは皆この哀れな情の濃い乙女の胸の内を哀れみ、誰の口からともなく、

   忍路高島及びもないが せめて歌棄磯谷まで

と唄い出した。今も彼地の船頭はその唄をよく唄っている。

 という内容です。

 

 

大正9年『蝦夷民謡 松前追分』古舘鼠之助編 🐭
ーーーーーーーーーー
 『忍路高島』の由来については従来種々の説が伝わっているが、一説には越後の漁師が新潟の女郎に迷い、妻の有る身も忘れてセッセと通い詰めた揚句が、お定まりの借金で首が廻らず、ついにその女郎を連れ出して一夜北海道へ逃げて来た。その事が漁師の妻に知れると、可哀想に朝顔日記のように、夫を尋ねようと女の一人身で旅から旅へと渡り歩いた。そしてやっと江差へ着いて見ると、恋しい夫の姿はここにも見えず、漁師仲間の話には、その人ならとっくに中場所へ行ったという事なので、またも江差を後にしようとしたが、そこには哀れにも積丹半島の西北端に、女人を入れない神威岬の障害物が横たわっていた。
 この岬から北へは、昔から婦人の入るのを厳しく禁じられ、この禁を犯す時は鮭や鱒が絶対に獲れなくなるばかりで無く、大荒れのために近郊近村は非常な神の怒りをこうむるというアイヌの迷信から、安政三年頃まではともかくも神秘な岬とされていたのである。
 この岬が有るために、漁師の妻は恋慕う夫の後を追う事が出来なかった。それで日毎夫恋しさの情が募り、江差の浜へ出ては朝夕中場所の空を眺めて悲嘆の涙に暮れ、やる瀬無い自分の情緒を謡ったのが、今の忍路高島であるとの説である。けれどもこれを江差の古老から聞くと、全く否認されている。この歌の出所は矢張り積丹郡神威岬が発端ではあるが、当時江差松前あたりで漁師や移住者の内地人等が、女房や情人といつも辛い別れをして行かねばならなかったので、その惜別の情を前の幇間佐の一に作らせたのがこの唄の起因であると言っている。『蝦夷草紙』から見ても後者の説が正しいらしい。
ーーーーーーーーーー

 

 

 大正11年『正調江差松前追分』 越中谷四三郎他 🐎

ーーーーーーーーーー

 忍路高島の歌の起源は

 約百三四十年前、奥場所(神威岬から奥)が開拓されて、上場所の番人が、奥場所へ移った。メノコはついて行きたいが神威岬があるので、ついて行かれないのを非常に悲しんだ。その時番人が歌を残して、船を浮かべて行ってしまった。残されたメノコは慕わしさのあまり、大胆にも道のない浜辺伝いを追って目的地の手前まで艱難辛苦して岩を伝って辿り着いたが、おりからの大吹雪に遇って遂に行き倒れて死んで仕舞った。雪が消えてから岩と岩との間に死骸が横たわっていた。この哀れな話が江差、福山あたりへ伝わって来た時に、琵琶弾き座頭で、佐の市という者が聞いて、可哀想と同情の余り作って唄ったのがこの文句の始まりであるとも伝えられている。

ーーーーーーーーーー 

 

  

 昭和11年『懐古情緒 哀艶切々追分節の変遷』石島鷗雅 🐤

ーーーーーーーーーー

 越後のある船頭が、新潟の歌妓と深い恋仲になって、やがて型通り仲睦まじい家庭に、三味線持つ手には水桶さげて、水も漏らさぬ楽しい数年を過ごしたのでありますが、夫は船乗りの身、一度家を出て波の上に浮べば、浮草のような身の生業であります。
ある年の一月、夫は恋女房を置いて遥に松前の地に渡った。残された女房は一人わびしく空閨を守って、待てども待てども夫からは何の音信もない。遂に待ちあぐねて、可弱い女の身を一人はるばる夫の後を慕って松前に渡り、いろいろ心当たりを探し廻ったが、探せど尋ねど影さえ見えず、なおも一心に気も狂わんばかりに夜毎々々に江差の浜辺をさまよって、よき音信もやと、あちらこちらと夫の行方を捜したところ、ある奥地通いの漁夫の話によって、尋ねる夫は遠く奥地に出稼ぎしているということが判明した。しかし奥場所への海路途上にある御神威岬より北へは婦人の入ることは禁制となっているため、尋ねて行くことも出来ず、妻は初恋の昔をしのびながら、独り煩悶は募り、自ら、
  忍路高島及びもないが せめて歌棄磯谷まで
 と夫を慕う真情を吐露した歌を作って、追分節の調律に合せ、やるせない胸の苦悩を癒やそうと、朝な夕な、何百辺となく繰り返し繰り返し悲痛の声を絞って唄って歩いた。この哀れな女の胸中を知るも知らぬも、皆そのぞっとするほど艶めかしい唄い振りに断腸の涙を絞ったということであります。これが江差松前追分節の起源であると伝えられております。 

ーーーーーーーーーー 

 

 昭和26年『追分節談義』岡田健蔵(岡田弘子編)

 本稿は「大正2年5月22日日以降、函館毎日新聞所載」の稿本をその後訂正補修したものの由

ーーーーーーーーーー

 ある新聞で伝えられた起源説によると、昔、越後の船頭が女房を故郷に置いたまま松前へ渡り、一年が二年、二年が三年と歳月が経っても、帰国するどころか音も便りもしなかったので、女房は思い余って亭主の後を追い、遠い松前まで来るには来たが、広い松前のこととあって捜す亭主は何処にいるやら見当も付かず、今日は西翌日は東とさまよう内に持金を使い果し、遂に乞食の様に成り下がってしまった。もともと新潟で歌女か何かしたものらしく、毎日越後追分を流して歩き、わずかに糊口を凌いでいたが、それは随分声も調子も好かったと言う。その後亭主が遠い蝦夷地の奥にいるということを風の便りに聞いたものゝ、そこは女人禁制の御神威岬より北で、女は行かれない。焦燥落胆の余りとうとう気が狂ってしまった。それから後は彼女の唄って歩く唄も調子も変って来た。
     忍 路 高 島 及 び も な い が
         せ め て 歌 棄 磯 谷 ま で
 何時唄っても何度唄ってもこの唄ばかりであったが、歌詞の切々なのに加えて唄の調子が悲痛限りない哀調を帯びているので、聞く者もまた自ら涙を模様さずにはいられなかった。
 これが松前追分の原歌原曲となったのであると言う。けだし松前追分の特徴がこの時に具現されたと言うべきであろうか。

 

ーーーーーーーーーー

 

 明治40年『風俗画報(第374号)』の山下重民の追分記事以降、多くの人が同様の言い伝えを引用しているのがわかります。

  

 とまあ、ここまではレジェンダリーでロマンティックな由来を中心にいくつか紹介しましたが、次回は少しばかり生臭い由来にあたってみたいと思います。

 

 

hana-henro.com