江差三下り

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(歌川国丸)

 

 30数年前江差追分に出会って間もない頃、もう一つの唄に出会いました。

江差三下り」です。

 レコードだかテープだかは忘れましたが、唄:土門譲 三味線:浜谷ヨシエのコンビで録音されたものを、江差追分同様それこそ擦り切れるまで聴いて覚えました。従って、私の江差三下りは土門譲直伝と言ってもよいでしょう。

 ただし、めったに人前で歌う機会はなく、追分セミナーの最終日に催される追分酒場の余興で唄ったことがあるくらいなものです。 江差追分とはまた一味違う、しっとりとした、艶っぽい唄いくちがなんとも好ましいです。

 この「江差三下り」、江差追分節の元唄と伝えられています。 即ち、この三下りを 母とし、けんりょう節を父として生まれたのが江差追分というわけです。

 

  ここに偶々目についたレコードがありますので紹介します。

https://www.youtube.com/watch?v=BbO1uf7gonw

 この平野源三郎氏の「追分(馬方節)」・・・碓井峠の権現様は わしが為には守り神・・・は、大正年間の録音のようですが、江差三下りそのものですな。

因みに、昭和八年吹き込みの阿部笑山氏の唄も「碓井峠の権現様は・・・・」となっています。また大正十四年の福田幸彦(号蘭童)・坂本一雄共著の『追分の研究』の中に「追分三下り唄」として

 ♪ 碓井峠の権現様は わしのためには守り神

が載っています。

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碓井峠の権現様)

 この歌詞は古くは文政五年(1822年)の『浮れ草』に、追分節として七首載せているうちの一首に、 ♪ うすひ峠の権現様よわしが為には守り神

としてあらわれています。

 また、上の浮世絵は歌川国丸(寛政五年1793~文政12年1829)が描いたものと思われるが、 ♪うすゐとうげの ごんげんさまは~ わしがためには のふまもりがみ~ しいしぼう〴

という歌詞が見える。すなはち、文政年間には追分節の元唄的な唄として広く唄われていたことが窺われます。

 

 出自は碓井峠から信濃追分宿近辺で唄われていた馬子唄で、その馬子唄に三味線をつけて艶のある粋な座敷唄にしたものが馬方三下りですが、今では馬方を外して、江差三下りとか松前三下りと称します。ただ南部馬方三下りのように、律義な南部人らしく今でも馬方をつけているところもあります。

 この馬方三下りが漂泊の座頭という人達によって信濃や越後から、さらに陸路奥羽を経て蝦夷地に運びこまれ、松前江差の三下りとなり、踊りも振り付けられて盛んに唄われ、伝承されてきたものとされています。

 しかしながら、二上りの追分節が盛んに唄われるようになると徐々にその地位を奪われるようになったわけですが、明治末、小樽の芸者熊野リツ女が現れたことで、再びこの唄が注目を集めるようになりました。

 

その辺のところは竹内勉氏の『追分節』(昭和55年)から引用させてもらいます。

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 『江差追分』ゆかりの町、北海道檜山郡江差町には、「追分節」と呼ばれる『江差追分』のほかに、もう一つ『江差三下り』という唄がある。地元では土門譲(明治42年生まれ)が中心になって伝承している。(中略)

 土門譲の話によると、この唄は江差でも浜小屋の花柳界では唄わず、新地の高級花柳界で、芸者衆がうたっていたという。そのためか、御本人が唄う時は、浜谷ヨシエという、江差は新地出身らしい芸者あがりの老婆に三味線を弾かせている。ところで、一番の元唄的な歌詞、これは江差の沖合いに浮かぶ鷗島に鎮座する弁天様のことで、北前船の船頭たちはこの前で出航のための風を祈り、出航日を決めたという。それだけに一見もっともらしいが、私などがかつて聞いた『江差三下り』の歌詞は、

 ♪ 碓氷峠の 権現様は わしがためには 守り神

であった。この辺の事情について、昭和四十五年六月二十二日、土門譲に函館で会った折尋ねてみた。土門譲の場合、『江差三下り』は、江差の『鰊場音頭』の名音頭取り近谷林太郎(この時七十六歳)から習ったもので、近谷林太郎は小樽の芸者熊野リツから教えられたものという。年代的には江差が寂れ、小樽が栄える頃である。その時は「碓井峠の権現様は・・・・・」で習った。ところが昭和三十二年になって、周囲の人たちが江差で「碓井峠」という歌詞はおかしいからと言い始めたので、上の句を「江差港の弁天様は」と変えたのだという。ということは、この時まで、中山道群馬県から長野県へ入る碓井峠の歌詞を唄っていたことになる。

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 これとは別に越中谷四三郎氏によれば、「松前三下り節」というのがあって、歌詞は「碓井峠の権現様は わしの為には守り神」であるが、三味線が非常に賑やかで、太鼓も加わる結果、追分の如く悲哀の情調はなく、極めて陽気な唄である、という。     してみると、しっとりと粋で艶のある「江差三下り」とはだいぶ趣がかわっているようだ。

 現在でも「江差三下り」「松前三下り」はそれぞれあるが、やはり「松前三下り」の方が陽気な唄になっているように感じます。 

 

  因みに踊りは明治初年に江差に来演した歌舞伎役者によって手直しされ、江差商人と芸妓に見立てた道行姿の踊りとなって伝わっており、 踊りの扮装も、男は町人髷に立縞の着流し・角帯、女は潰島田に荒縞のお召、黒繻子帯に浅黄の湯文字、手拭を被って道行姿で登場するのが本式だそうだ。

 

江差三下り」の代表的歌詞:

 (♪ 碓井峠の権現様は わしが為には守り神)

 ♪ 江差港の弁天様は わしが為には守り神

 ♪ 心細さよ身は浮舟の 誰も舵とる人もない

 ♪ 文の上書き薄墨なれど 中にこい字が書いてある

 ♪ ふとしたことからついこうなって 今じゃ他人と思われぬ

 ♪ 沖は寒かろ着て行かしゃんせ 情けあつしの蝦夷