南部馬方節

 

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曲がり屋

 

 「南部馬方節」は、この唄が「馬子唄」ひいては「追分節」の源流であるという民謡研究家もいるくらい有名な馬子唄です。

 これとは別に西の「小室節」が、「馬子唄」ひいては「追分節」の源流であるとする説もあり、それは別の項でとりあげたい。


  以下は、民謡研究家竹内勉の説。
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 建久二年(1191)に、甲斐の国は南部の庄の地頭であった南部光行が、藤原泰衡討伐の勲功によって、源頼朝からこの地方を領地に賜ったことから、以来、ここが南部領になった。南部領とは現岩手県青森県の上北・下北・三戸三郡のことであります。南部光行は入国するとすぐ、牛馬の保護政策を取ったことから、「南部駒」の名声は一躍脚光を浴びることになった。
 徳川時代に入ると、徳川幕府は「御馬買衆」と呼ばれる役人を、春と秋の二回、買い付けのため南部へやり、百~百五十頭の「南部駒」をそれも名馬ばかりを選んで、買い集めてきた。しかし、これでは旅費と馬の移動に費用がかさみすぎるので、元禄十五年(1702)に、それまでの方法をやめ、幕府は南部藩に同じ数の馬を江戸へ運ぶように命じたのである。これを「上せ馬」と呼ぶ。
 そこで、南部藩に生まれたのが「御用博労」である。藩直轄の「御用博労」は、良馬を集めると、集まった馬の背に「本丸御用」の小田原提灯を立て、威儀を正した行列を組み散銭をしながら、盛岡の八幡馬場を出発、江戸へと向かった。その折唄ったのが、今日「南部駒曳き唄」の名で唄われている。この「南部駒曳き唄」は「木遣り唄」に似た節で、今日の「馬方節」よりは格調の高いものである。
 そこで考えられるのは、農耕馬を売買する一般の博労が、まさか「南部駒曳き唄」を唄うわけにはいかないので、その代わりになるものとして唄い出したのが「南部馬方節」ではなかったかということである。その「馬方節」が、東北地方一円に広まって各種の「馬方節」になり、さらに関東地方や中部地方の主要街道の駄賃付け「馬子唄」になり、のちには「追分節」まで生み出すのである。
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竹内勉『追分節』より


 この南部の「馬方節」が最終的には「追分節」になったという説だが、江戸時代中期には信州で「追分節」はさかんに唄われていたわけで、江戸初期の奥州街道東海道や中仙道を始め、その他の街道と比べて比較にならぬほど通行も少なかった時代的、地理的背景を考えた時、いかにも無理があるように思います。東北近辺の馬市を渡り歩く一般の博労がわざわざ江戸まで夜曳くとは考えられず、伝播には相当の日時がかかったはずである。

 昔の文化の中心は京都・大阪であり江戸であった。そこを中心にほとんどの文化が拡散していったのであり、文献類もその文化圏に多く残されているのもまた確かな事であります。信州の追分宿を中心に起こった「追分節」がその出所がどこであれ、越後に伝わり江差に伝わったわけですが、なぜ短日時に伝わったかというと、それは船を使ったからであります。途中、幾つかの港に寄港したとはいえ、やはり桁違いのスピードで伝わったことでしょう。


 話は変わるが、東北の「馬方節」には「南部馬方節」のように、ハア~と出だしを長く引くのと、「道中馬方節」のように、出だしにハアのないのとがある。「南部馬方節」の系統が「秋田馬方節」であり、「道中馬方節」の系統は関東・中部の「駄賃付け馬子唄」に多く見られる唄い方であります。なにが言いたいかというと、東北の「馬方節」が関東地方や中部地方の主要街道の駄賃付け「馬子唄」になったとするなら、「南部馬方節」系統よりもむしろ「道中馬方節」系統の方なのではかろうか。残念ながら単なる推測ですが。

 

南部藩南部光行が、牛馬を保護する政策をとったお陰で、南部駒は全国的に有名になった。それぞれの馬市には、各地から博労が馬を曵いて、主に夜間移動したが、「南部馬方節」はこの馬市往復の道中に唄われました。東北各地にいろんな馬方節があるが、もとは皆同じものであったろう。各県から馬方節のうまいが出ると、いつしかその節回しで唄われ、いつのまにかその唄い手の出身地を馬子唄の前につけるようになったのでしょう。この「夜曳き唄」は特に曲節も繊細で、朴訥、その美しい東北的な情緒は他国の人の胸にも切々と訴えるものがあります。

 

♪ ハア アーアーアー アーアーエ
  朝の出がけにイー ハアアーエ山々アーアー
  ハア見ればアーヨート(ハイーハイド) ハアアーエ霧のオエ

  エかからぬ ウーエ  ハア山もないイート(ハイーハイド)

 

♪ 南部片富士 裾野の原は 西も東も 馬ばかり

 

♪ 一夜五両でも 馬方いやだ 七日七夜の 露を踏む 


   
♪ 一夜五両でも 馬方いやだ 駒の手綱で 身をやつす 

   

♪ ひとり淋しや 馬喰の夜曳き 鳴るは轡の 音ばかり

 

♪ さても見事な 馬喰の浴衣 肩に鹿毛駒 裾栗毛

 

♪ 七つ八つ曳く 親方よりも 一つ手曳きの お前よい

 


『東北の民謡』武田忠一郎 昭和17年
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この「南部馬方節」は歌調旋法より見ても、岩手県の唄の中では割合に新しく根付いたものと思われる。従って、唄い方はいくらか技巧を要し普通人では容易に唄い得ないようである。
 本場は下閉伊の岩泉、上閉伊あたりと思う。 馬方節といっても実は色々で、駄賃渡世を生業として東海岸の海産物を夜を徹して内陸部に運んで来たり、米や雑穀その他内陸部のものを海岸地方へ運んで行ったりした明治のころまでの傳馬の往復に一手綱十頭以上を曳いて歩いた駄賃付けの馬子唄、それから夏の日未明、霧を分けて朝草刈りに遠山に行く若き男女が馬上に唄う「朝草刈り」の馬子唄、秋ともなれば各地に開かれる馬市を、それからそれへと渡る馬喰達のいわゆる「夜曳き唄」とそれぞれの趣がある。昔は狼や熊のような猛獣に備えるための示威的なものであったそうだが、ゴロンゴロンと丘の端を響いて流れる鳴鎧、谷間に反響する鈴の音、さてはザランザランの島田金の音と馬蹄の響きによる和声の上に美しい声の馬子唄の旋律の醸し出す東北的情緒は何ともいえないものがある。馬喰達の「夜曳き唄」など東北地方大抵同じであるかと思えばなかなかそうでもない。秋田のも良いが短か過ぎるし流石に南部は馬方節の本場といわねばなるまい。
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『新岩手の民謡』岩手県民謡協会 2014年
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岩手県では早くから内陸部と三陸沿岸の物資輸送は牛馬によって行われていた。起伏の多い険しい道は牛が、比較的平坦な道は速さで勝る馬が使用された。この馬の曳き手である馬方が道中唄ったのが「馬方節」である。塩、海産物、穀物薪炭、日用品や、天明(1781~1789)の中頃、沿岸地方に産した鉄も駄馬の背に積んで運ばれたといわれ、この唄の起源も相当古いものと思われる。
 現在の南部馬方節は、盛岡市長町で馬車引きの西川長八(明治34年生まれ)が唄っていたもので、弟子の二代目福田岩月がこれを習い、さらに岩月門下で戦後まもなく荷馬車で木材や米などを運搬していた馬方の畠山孝一へと歌い継がれた。
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 盛岡市街の北方約十三キロの、旧岩手郡玉山村(現盛岡市内)の博労が唄っていた節まわしを、盛岡の星川万多蔵が整え、その芸をさらに盛岡の福田岩月が受け継いで今日に伝えたものだともいわれる。