箱根馬子唄

箱根馬子唄 箱根八里は~ 箱根名所巡り - YouTube

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 東海道を江戸日本橋から西へ11番目の宿・箱根は、東海道随一の難所で、峠を越す旅人は、馬や駕篭を利用しなければならなかった。箱根山を中心として上り下りの旅客や荷物を馬の背につけて運んだ駄賃付けの馬方に唄われたもので、街道筋の馬子唄としては伊勢の鈴鹿峠信濃碓氷峠の馬子唄と共にその代表的なものである。曲節は、箱根に限ったものではなかったが、箱根で馬子や雲助をしていた杉崎長太郎、亀次郎兄弟が唄う馬子唄が有名で、両人の節回しをまねて箱根馬子唄の形が出来上がった。昭和17年6月にNHKが杉崎亀次郎演唱の唄を録音している。
 この兄弟は最後の雲助というか、実際には雲助という職業はなくて「駕籠かき人足」と言われていたようだ。録音を聞いてみたいが、ちょっと手に入らんのが残念だ。

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 十返舎一九『浮世道中膝栗毛後編』(享和三年刊行)には箱根の驛の馬子唄として


 《富士のあたまがつんもえるなじょに煙がつんもえる、三島女郎衆にがらら打こ 

  み、こがれおじゃったらつんもえたア、しょんがえ、ドウ々々》


と記してあるが、箱根以外のどこにもこんなながい詞型の馬子唄は存在していないので、どうも一九の創作らしい。

 

 この「箱根馬子唄」も含め、関東地方から中部地方の主要街道の「駄賃付け馬子唄」
は、東北南部地方の「夜曳き唄」を真似たものだという説をとなえる民謡研究家もいるが、わしがしっくりこないのは、「南部馬方節」にしろ「秋田馬子唄」にしろ、いわゆる「夜曳き唄」は大体が出だしが長い♪ハア~で始まる唄が多いが、関東以西の唄はこの「箱根馬子唄」のような出だしが多いように思う。もし「駄賃付け馬子唄」が「夜曳き唄」を真似たものだとしたら、なぜ♪ハア~が消えてしまったのかという点に疑問点がある。

 

 この唄の聞かせどころは、まずは二節の・・♪八里~・・の高いところをいかに美しく聞かせるかにあるが、何と言っても一番の聞かせどころは三節の・・♪馬でも~・・の落としである。ここを粋に落とせなければ箱根馬子唄ではなくなってしまうのである。


 
♪ 箱根エーエエ エエエ八里イイはアア
  馬でエもオオーオオエ アアアア越すウウが(ハイ ハイト)
  越すウにイイ 越さアれエエエぬウウウウ
  エエー大井川(ハイ ハイト)

 

♪ 箱根御番所に 矢倉沢なけりゃ 連れて逃げましょ お江戸まで

 

♪ 箱根御番所と 荒井がなけりゃ 連れて逃げましょ 上方へ


    ※江戸時代、「出女」は厳しく制限されていた

 

♪ 関所通れば また関所 せめて関所の 茶屋までも

 

♪ 三島照る照る 小田原曇る 間の関所は 雨が降る

 

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「箱根八里」とは、旧東海道で小田原宿から箱根宿までの四里と箱根宿から三島宿までの四里をあわせた約八里の道のりのこと。一里は約四㎞。当時は峠を越えるための馬子や駕篭が活躍し、「馬子唄」や「駕籠かき唄」が唄われた。
二番の歌詞の「矢倉沢(やぐらざわ)」とは関所の名前。箱根御番所は箱根の関所。三番の歌詞の「間の関所」も箱根の関所を指している。
 江戸時代には箱根の関所を基準にして、東を関東、西を関西と称したもので、明治二十二年に東海道線が開通するまでは事実上、この箱根八里が関東、関西を結ぶ交通の要路であったわけです。
 
 大井川はかつて徳川家康が隠居していた駿府城の西の守りとして機能しており、橋を架けることはもちろん渡し船も禁止されていた。
その代わりに、人の肩車や輿に乗せて渡河させる川越制度が設けられ、川会所で川越銭を払い、大井川を渡った。
 川会所は島田と金谷に設置され、それぞれ大井川を渡河する拠点の宿場町となった。
洪水の際には川留め(通行禁止)となったため、島田宿と金谷宿、その周辺の宿は大変賑わったという。
 この川越制度については、江戸や駿府城防衛という理由の他に、こうした川越銭や宿賃などの莫大な利益が目的の一つだったとも考えられている。