上州馬子唄

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 三国峠越えの三国街道で、駄賃付けの馬子をしていた樺沢芳勝が唄い始めた。
このあたりの天気は越後側からくずれてくる。そうすると、三国街道を北上する馬子がこの唄を歌う時の位置は、赤城山山麓で、前橋宿から渋川宿あたりまでである。そうなると、沼田宿は四里先である。その四里更に先に水上宿があり、うまくはかどればもう一里先の湯桧曽宿まで行けるのである。
 群馬県で歌われてきた馬子唄、馬方節にはいくつかあり、高崎から越後へ向かう三国街道あたりで歌われてきた「三国馬子唄」、中山道松井田宿あたりの「碓氷馬子唄」、赤城山麓で歌われた「赤城馬子唄」などがあります。その中で、樺沢芳勝が歌い、広めた馬子唄が「上州馬子唄」です。
 勢多郡富士見村生まれで上州民謡の名手である樺沢芳勝は、若い頃に同じ群馬県勢多郡桂宣村上泉の博労・観音トクから「三国馬子唄」を覚え、「赤城馬子唄」の節を混ぜて節を整え習ったが、当時は「馬方節」と呼んでいた。昭和10年(1935)ごろ、江差追分の三浦為七郎一門の稽古場に参加し、ここで初代・浜田喜一のすすめもあって「上州馬子唄」と改名。
日本の数ある「駄賃付け馬子唄」の中でも、秀逸なものに仕上がっています。
 なお、樺沢芳勝の「上州馬子唄」を広めたのは、同じ群馬・伊勢崎出身の町田佳声であったそうです。

 

歌詞については、
♪ 可愛い男に 馬方させて 鈴の鳴る度 出てみたい

といった、一般的なものが歌われていましたが、
♪ 赤城時雨て 沼田は雨よ 明日は水上 湯檜曽まで
といった群馬らしい歌詞は、群馬の畔上三山が作ったのだそうです。
「上州馬子唄」は、日本各地に馬子唄がある中でメロディの美しさでは一二を争う名曲だと思います。
ただ、今聞かれる演唱では、節を長々と引っ張る歌い方が多いですが、樺沢が歌う初期の演唱では、馬に語り掛けるような淡々としたものでした。それは、駄賃付け馬方の経験のあった樺沢の唄の醍醐味だと思います。

 

 樺沢芳勝は、郷里で「樺沢芳月(ほうげつ)」の名で馬子唄を教えていたが、ある女性が師事していたときの思い出が手紙として残っているようなので、引用させてもらいます。なかなか興味深いものがあります。
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「その昔、私の師樺沢芳月と云う先生が大正時代~昭和初期まで馬方をしておりました。前橋~桐生~大間々~赤城山伊香保そして遠くは一日がヽりで東京方方面迄もお客を馬にのせて運ぶ仕事をしていたとの事です。
当時はのり物と云えば馬だけでしたから、町から村へそして山、坂、峠を登り下りして肩に汗ふきの手拭いをかけて、馬の手綱を引き乍ら働いたそうです。
奥山に入るとすヾを大きく振って、きつね、たぬき、いのしし、カラス、おおかみなどからお客と自分、馬の身をまもったそうです。(すヾは小7ヶ、大13ヶm赤と白のひもでまく)人家のある町の中に入るとすヾの音を小さく馬の足音に合わせて歩きます。又、馬上のお客がねむらない様に、馬子唄などを唄って聞かせたとの事です。(馬子唄の文句はその土地を唄ったもの)樺沢芳月先生は馬子唄の美声で当時、レコード会社からスカウトをされたとの事です。目的に着くとわずかなお金をもらい、いつも通う居酒屋へ足を運ぶのが何よりのたのしみです。
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♪ 赤城イ時雨てエーエーエエエーエ ハァーアアア沼田はアアヨーオオオ
  ハァーアア雨エーエエエエエよ (ハイ ハイト)
  明日ウはアア 水上イヨーオオオ ハァー湯檜曽まアアアアでヨー
  (ハイコラ ハイハイト)

 

♪ 清水峠も ハァー事無くヨー
  ハァー越えて 妻の笑顔がヨー 眼に浮かぶ

 

♪ 山で床とりゃ ハァー木の根がヨー
  ハァー枕 落ちる木の葉がヨー 夜具となる

 

♪ 北山時雨て ハァー越後はヨー
  ハァー雪よ あの雪消えねばヨー 逢われない

 

♪ 可愛い男に ハァー馬方をヨー
  ハァーさせて 鈴の鳴るたびヨー 出てみたい