小室節1

 「小室(諸)節」が江差追分の源流であるとする説を唱える人達の先駆的存在が、昭和51年に追分節の源流、正調小室(諸)節集成』を著わした長尾真道であります。 
 氏は若い時から尺八を習っていて、追分節の譜を買い求めた時に、その説明書の中に小室節が追分節の源流と思われるとの記事に心打たれて、以来小室節の研究に四十余年の歳月をささげたという人です。


 氏は「小室節」の発生について以下の様に述べています。
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 奈良朝末期の頃、朝廷は政治、軍事、産業に欠くことが出来ないものとして馬を重視した。この馬の増殖をはかるために全国に三十二の勅使牧をつくった。その半分の十六牧は信濃の国であった。またその信濃の国のなかで最大であり、当然全国の代表的存在であったのが現在小諸市にはいっている御牧ケ原である。つまり望月の牧である。
 昔は、馬の輸入とともに、その飼育、増殖さらには牧場経営の技術者として多くの人が渡来し、帰化した。こうした帰化人のほとんどは、騎馬遊牧民族として名高い蒙古人である。彼らが、故国にいにしえより伝わる「駿馬の曲」をもたらした。この曲は横笛の曲であって、小室節のメロディーときわめてよく似かよっており、驚嘆するほどである。
 思うに、彼ら帰化人にとって、佐久の高原にひろがる牧は、はるけくも遠い異境の地。しかし高原の風土はなにがしか故国モンゴルをしのばせずにはおかない。かたわらに朝夕いつくしみ育てた馬もともにある。いくばくか望郷の思いもこもって口ずさむ「駿馬の曲」。
 佐久の高原に流れる馬飼いたちのメロディーは、このために完全にその地にとけこんでいったに違いない。国境を越え、人種の差を超越して、良いものは良い。自然の形で小室(諸)の里人の心の琴線にふれたであろう。
 そしていつとはなく浅間神社の神事における祭礼の唄とあわさって定着して、ここに小室節の成立をみたのである。この時期は室町末期のころと思う。さらに朝廷へ馬を年貢として献上する貢馬(くめ)の、はなばなしくも大変な行事を通じて、道中唄となったのも自然の事である。
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以下の図は村杉弘氏が『江差追分源流考』の中で、長尾氏の説を関係図にしたものである。

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 この中で長尾氏は「昔は、馬の輸入とともに、その飼育、増殖さらには牧場経営の技術者として多くの人が渡来し、帰化した。こうした帰化人のほとんどは、騎馬遊牧民族として名高い蒙古人である」と述べている。

 近年盛んな遺伝子の研究からは、アルタイ系騎馬民族に高頻度にみられるY染色体が東日本ではゼロであるが、九州と徳島でそれぞれ3.8%、1.4%確認されており、騎馬民族の小規模な流入があったことを支持する結果となっている。さらに遺伝学的解析によれば、日本在来馬の起源は、古墳時代に家畜馬として、モンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された体高(地面からき甲までの高さ)130cm程の蒙古系馬にあるという。
 とはいえ、大昔に蒙古より帰化した技術者が、望郷の念にかられて唄った曲が「小室節」につながっていったというのは、可能性としてはありうるし、ロマンもあるが、やはり無理があるようにも思います。それぞれの伝統の中で育まれながら、結果的に似たものが出来上がったと解するのが妥当ではないでしょうか。

 また、「いつとはなく浅間神社の神事における祭礼の唄とあわさって」という部分だが、小宮山利三が『軽井沢三宿の生んだ追分節考』の中で、

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 研究者や小諸の地元民たちのなかには、祝詞形式の「小室節」と、労働歌的「小諸馬子唄」と同じに考えているが、東洋音楽選書の『日本の民謡と民俗芸能』第二部(追分節編)に次の記述がある。

   【祭礼馬子唄が労働馬方節と過去においてまったく関係ないとは言い切れないだ

   ろうが、祭礼の儀式にうたわれる『馬子唄』というのは、馬を献上するときに

   これを祝って『駒索唄』という古風な祝い唄を謹詠して送ったのだが、これは

   労働とは直接関係のないものである。この種のものは各地に存在している。】

 この貢馬行事にうたわれているような神聖な「駒索唄」的な「小室節」を、中馬の馬子たちが自分たちの仕事唄としてうたうことはまずあるまいと考える。

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と述べていることも紹介しておきます。この中で「この種のものは各地に存在している」という中には、「南部馬方節」の項でも取り上げた例も含まれるわけです。 
 
 
 なお、小室と名の付く場所は次の四か所があります。
・ 滋賀県東浅井郡今田根村大字小室(近江の国、琵琶湖の北東)
・ 長野県小諸市信濃の国佐久郡浅間山麓の地にあり、小室宿と称した)
・ 埼玉県北足立郡小室村武蔵国の小室宿とも称す)
・ 千葉県千葉郡豊富村大字小室下総国橋本の東南半里)

 

 三田村鳶魚民俗学者山中共古との対談本東海道中膝栗毛輪講(上)』の中で鳶魚は次のように述べている。
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(意訳)

 つづら馬の小室節は正徳四年版の近代長者鑑に「上方へのぼるべしとて、乗物七丁、のりかけ十五、緞子びろうど唐織にくれないのいろをまじへ蒲団張りにはなをさかせて、春の日の長たび、小諸ぶしも耳にきゝなれてはおもしろからず」とあるのは松の葉の「さても見事なおつづら馬よ、下にやせんしき唐縞の蒲団、ふとんばりして小姓衆をのせて」という唄の注釈にもなるでしょう。
 近松門左衛門丹波与作』に《アレアレあそこへ歌ふて来る、本小室のひんぬきは與作々々と手招き、さても美事なおつづら馬や七蒲団にソンレハ曲彔添えて》とある。それを饗庭篁村さんの近松の評釈によると、その本小室というのが小室節の事である、信州の小諸宿からうたい出したものを追分節という。そのうたい方は越後の米山節、佐渡の岩室節と同じであるという。
 小室節の本文は松の落葉に出ている。信州の小諸宿からうたい出したものなので、この道中に行われていたことは、一九時代の流行ではなく、近松の時代に行われていたようだ。丹波与作の文がその証拠です。それを近松丹波与作という名にしたのは、正徳二年三月の二度目の興行からで、宝永六年六月の初興行の時には丹波与作関の小万、待宵小室節』という外題でした。そうすると元禄よりもっと前から行われていて、馬子たちがよく唄ったようだ。そう考えると、この膝栗毛でも前の方に木曾の追分から、飯盛が三島へ来ている事が書いてある。この木曾の追分というのは、小諸にくっ付いた宿だから、小諸の辺からも以前は東海道の方へよく往来していたのでしょう。昔からの往来を見ても、よくこの分布が知れて来るだろう。だがここで単に小室節と言っているのは馬子唄と見たらよいと思う。
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本小室といふのは今でいう「正調小室節」の事。


 それに対し、共古は次の様に反論している。
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(意訳)
 小室節は私の考えは違ってます。信州の小諸からという説はそれはそうかもしれないが、聲曲類纂を調べた時に、小室節の起こりも名もはっきりしない、ただ江戸の三河島の者が伝え謡っていると斎藤月岑は言っている。小室は地名で三河島に縁故があるのだろう。それは武蔵の北足立郡に小室村という村があって、この小室村というのは八ケ村の一番の本村となっていて、昔は市も盛んであった。その村近辺の者がこの歌をうたい出したので、三河島とは近辺の隣同士だから、その辺の者が覚えて来て、三河島に伝えたんじゃないかと思う。それに信州という説もあるが信州のは小室じゃなくて小諸と書く。いま一つ縁があるかと思うのは、近江の浅井郡に小室があって、その村も盛んであったが、確か三河島の者は三河から来たので、それらに縁故があるかと思って調べたが、私はおもに北足立郡の小室村の者が、それを伝えた ものじゃないかと思う。
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《信州という説もあるが信州のは小室じゃなくて小諸と書く》⇒小室と小諸は同じで、小諸の字を使い出したのは徳川中頃からといわれている。
 
 その小室節を唄う馬子はどこから出て来たのだろうか。明和四年(1767)に吉原で俄狂言を始める時も、昔の白馬を思い出したのか、三河島から小室節を唄う者を頼んできたそうだ。
 その共古とほぼ同様な説をとなえているのが町田佳聲で、《信州小諸も元は小室と呼んだので小室節の名はそこから出たと信じられているがそうではなく、馬子が浅草村に近い武蔵国(埼玉県)北足立郡小室村の出身だったので「小室節」と称したわけで、江戸の浅草までわざわざ信州の馬子が駄賃稼ぎに来たとは常識的に考えられない》と述べている。

 


三河島郷土史 入本英太郎 編 三河島郷土史刊行会, 1932(昭和7年
 《江戸声曲の上に顕著であり、また三河島民謡の一つたる有名な小室節は遠く元禄時代の昔から伝わり、弘化四年刊行の「声曲類纂」に、
小室節、その始め並びに名義とも知るべからず、今も諸侯入府の節は、御馬前に立って歌うとかや、その曲節を伝える家、今も武州豊島郡三河島村に残りてあり、三河島に残るとは三河より来る子孫とかや、その伝来故あって略す」
とあり、当時はなを盛んであったらしい。一説に有名な寛永寺の餅つき歌がこの小室節の変体だというが、追分節のごとく長く延ばす所を見ると、あるいはそうかも知れぬ。いずれにしてもその伝来の程は明らかでないが、初めは近江浅井郡の小室から起こり、転じて武州北足立郡小室村に伝えられ、同村では毎年祭礼にこの小室節を歌ったのである。何故か後に三河島村の若者間に伝わるようになった。(一説に小室節は信州小諸より伝来せしと言う)明和四年九月、吉原で俄かに始めるについて、昔の白馬を思い出したのか三河島村へ小室節を歌う者を頼みに来た事が記録に残っている。元禄三年の「人倫訓蒙圖彙」にも、この小室節を「馬方節とて一ふしあり、当世は辰巳あかりの声高にして何事にもまず片肌ぬぐは彼らが風俗なり」とあり、いずれにしても威勢のいい歌であったらしい。小唄流行の盛んな当時、山雀節が葛西に伝わったり、また小室節三河島村に伝わったという事は、芝居や遊郭から発生せず、真の野から声を高めただけに面白い。しかし惜しいかなこの小室節は明治初年ついに絶え、その後しばらく先代尾上菊五郎だけがこの曲節を伝えていたと言うが、現在では全く絶えてしまったらしい。
 祭礼のダシ巡行の折には必ずこの小室節をもって引出したのであるが、現在ではその変わりとして神輿渡御の際には木遣唄をもって昔の名残りを止めている》。

 

 

 湯朝竹山人は『歌謡集稿』昭和六年の中で「小諸の古調」と題して、次のように語っている。
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♪ 小諸出てみりゃ浅間の山に 今朝も煙が三筋立つ
♪ 小諸出てみりゃ浅間の煙は 今日も東へ吹いて出る
♪ 小諸出ぬけて松原行けば いつも三筋の煙立つ
 小諸、今日ではコモロといふ、古は「小室」といったさうだ。今もコムロといふ人もあるのは昔の名称が伝っているのかも知れぬ。「小諸出て見よ」の句は古く且つ広く伝唱された文句と見える。就中幕末の頃は江戸では歌に唱はれ歌澤に唱はれ今日に伝わっている。現在小唄節でも盛んに唱はれている。歌詞は次の如く出ている。
♪ 小諸出てみよ浅間の山に 今朝もけむりが三筋立つ 天へのぼりて雲となる(端唄稽古本)
♪ 小諸出てみよ浅間の山で 今朝もけむりが三筋立つ ヤレよいやナよいやサ(流行小唄節)  
 江戸で唱はれた馬子唄の小室節が、若しこの信州小室から起原するものであったら、文献的に貴重なる文句といはねばならぬ。
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 昭和45年には地元小諸で小室節保存会なるものが発足し、同53年9月の第16回正調江差追分全国大会にゲスト出演、同54年には第一回の「正調小室節全国大会」が開かれております。        
 唄われているのは次のような歌詞である。

♪ (ハイハイ)小諸でてみりゃヨ 浅間のエー山にヨ(ハイハイハイ)
  今朝も三筋のヨ エー煙立つヨ(ハイハイハイ)

♪ 小諸出抜けて 唐松行けば 松の露やら 涙やら

 

 つまるところ、小室節から追分節へと変化したかどうかはいまいち決め手になるはっきりとしたものはないわけだが、ただ言えることは、小室節が江戸時代にあっては馬子唄の代名詞的な存在であったことは間違いのないところである。

 聞くところによれば、小諸市に住んでいた高野金吾なる人物が、十七歳当時の明治四十三年ころに、元馬方をしていた老人から習ったという追分節は、小諸節と節回しが大して変わらないものであったと言う。

 因みに、「追分節」で最も古い文献とされているのは、松井譲屋編『浮れ草』<国々田舎唄の部>文政五年(1822)の追分節の項に記されている次の七首です。

 ♪ こゝろよくもておひわけ女郎衆、あさま山からおにがでる
 ♪ 一夜五両でもつまもちゃいやよ、つまのおもひがおそろしや
 ♪ さらし手ぬぐひちょいとかたへかけ、あくしょがよひのいきなもの
 ♪ あのやおひわけぬまやら田やら、ゆくもゆかれず一トあしも
 ♪ うすいたうげのごんげんさまよ、わしがためにはまもり神
 ♪ あさま山ではわしゃなけれども、むねにけむりがたえやせぬ
 ♪ おくりましょかよおくられましょかよ、せめてたうげの茶屋までも

 それに対し、「小室節」の名称が出てくる最も古い文献といえば、『吉原はやり小唄総まくり』です。これは寛文二年(1662)版の草紙で、

<万治二年(1659) 所々より吉原迄の駄賃付けの事>として、
一、日本橋より大門まで並み駄賃弐百文馬奴二人小室節うたふ かざり白馬駄賃
   三百四十八文
などと記されているので、およそ160年の開きがあるところから、「追分節」に関し、さらに古い文献が出てこない限りは、小諸宿と追分宿の距離の近さから考えても「小室(諸)節」が「追分節」に影響を与えたと考えるのが自然でありましょう。

 こうした一方、馬子唄の源流は東北、南部地方であるとし、蒙古遊牧民⇒小室節⇒追分節江差追分という説をとなえる者は、売名のため、奇をてらう説を出したがる人であると非難する、著名な民謡研究家(故人)がいたのも事実です。

 わしとしては、一方的な非難ではなくプロの民謡研究家として、「小室節」を、馬方節との関連、追分節との関連で研究していただけたら、解明された事柄もあったかもしれんと考えると、今となっては残念です。