平野源三郎

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 平野源三郎のことを何故にこのブログで取り上げようと思ったかといいますと、もちろん江差追分の普及に類まれなる功績を残した人物ということもありますが、なんといってもその名前の響きが気に入ったからです。端正な顔立ちと蒲柳の質の若旦那然とした容姿もまた、その生きざまと共に心惹かれるものがあります。そこで、どういう人で、どんな活躍をした人なのかを知りたくなったのであります。同時にまた、平野源三郎を知ることはすなわち当時の追分界を知る事でもありましょう。

 

 正鴎軒平野源三郎は明治2年10月25日、木古内町下町に平野源七の8人兄弟の5男として生まれました。その2年前には江差町中歌町で、後に「唄は平野、竹は小路」と称えられることになる小路豊太郎が生まれています。
 明治18年9月、江差の親戚筋にあたる呉服商平野家の養子となり、私立鷗島学校を優秀な成績で卒業後は、養父の家業である呉服類の行商に従事し、遠く寿都方面まで足をのばした。呉服の他に野菜などの種物も少しは商ったようです。しかし、根が商売向きでないためか、掛売りが多く、営業成績は上がらなかったらしい。
 結婚は2度しています。熊石から迎えた最初の妻とは新婚早々に死別し、2年後、新たに近在から娶った妻とはなんらかの理由で間もなく離別を余儀なくされるなど、たて続けに不幸に見舞われた結果、以後、源三郎は生涯独身を通すことになるのです。しかし、一度だけロマンスの話が残されています。
 高橋タネという明治二十八年江差生まれの老女の談によれば、その頃、三十代の半ば位だった「平野の兄さん」は、いつも質素な筒袖の着物姿で、兵児帯に両手を突っ込みながら、見るともなしに自宅の近所の娘の家の方を見やっていたという。しかし、本人同士が想い合ったその恋も、婿取りが定められた菓子屋の一人娘ということで、結局は実らなかったようであります。

 

  その平野源三郎はいつどのように追分と関わるようになったのだろうか。
 それは偶然から始まりました。
 養母のリカ女が、元々江差新地の蔦屋の芸妓であって、追分をはじめとする諸芸に通じていた人であったのです。
 美声でならしたリカ女は十代の半ばで養子にきた源三郎が声が良く唄好きなことを知ると、当時、新地の取締まりとして町の顔役であった小桝清兵衛の母イク女(小桝の婆さん)に源三郎を紹介して追分を習わせました。
 佐ノ市以来の伝説的な追分名人と言われる山岸栄八の時代が過ぎた明治20年代初期のことで、この頃から市中の心ある人々の間では、第一級の郷土芸能である地元の追分節を、本格的に伝承しようとする気運が芽生えてきたようである。
 小桝屋で稽古に励んだ源三郎は、たちまちのうちにまわりが目をみはるような上達をとげ、当時、柳崎の少し上流に住んでいた饅頭屋の爺さんと呼ばれる人に尺八も習って、その道においても名手と呼ばれるほどになった。 源三郎が尺八の研究に没頭していた当時、商売に行く時にさえ竹管を携帯して歩くこともあったという。そして、ときに興が乗ると他家の仏壇の前で追分を一曲吹いて回向する、といったぐあいであったため、いよいよ腹に据えかねた養父は、後年に、改めて源三郎の養子という形をとって、親戚筋から別の養子を迎えたという。 

 明治20年代の後半から檜山管内はしだいに凶漁となり、とくに33年以降は鰊がほとんど獲れなくなって江差の市中は急激に衰微していった。平野家の家業も巨額の貸し倒れを生じて破綻し、明治42年11月には養父も死亡して、家督をついだ源三郎の肩に家計の重圧が直接のしかかることになった。
 明治40年頃、愛宕町在住の赤石市太郎主催で、豊部内橋畔の高田屋において行われた江差追分競演会が催された。その競演会には、町内外から多く出演者があってノドを競い合ったがその時の唄は各人、各様の唄で種々様々であったといわれている。各派にはそれぞれ師匠が居り細かな節回しや、止めに特徴があり、その伝統をかたくななまでに守り通していたのである。

 一方、幕末以来、知名人の来訪も多くなり、追分の情緒が愛され、道内はもとより東京方面でも名声が高まりつつあった時だけに、江差追分の将来を憂慮する人々から《現在のように追分節が幾通りもあったのでは、後に混迷をまねく結果となる》ことを心配する意見が高まってきた。そこで、当時の桧山支庁長の中村雄蔵氏、神官の藤枝貞麿氏らの有識者が中心となって江差追分の曲調の統一をはかることになった。 
 明治42年11月、町内の追分関係者が参集して、正調江差追分確立のための会合が開かれた。その日、豊部内橋畔の宿屋久保田リセ方(現ふじや旅館付近)の二階に集まった面々は15名程で、神官の藤枝貞麿氏を初め、平野源三郎、村田弥六、四十物久次郎、越中谷四三郎、高野小次郎、船木賢治、若狭豊作、浅木福蔵、小林賢治、桜井タケ、鍵谷トミ、松井トシらの各師匠であった。以後、会合は同じ場所で何度か繰り返して開かれ、その結果、今日の標準的な江差追分の基本をなす「七節七声、二声あげ」という曲節の骨格が、全員異存なく決定された。

 また、この年の前後には平野源三郎が中心となって四十物久次郎、池野信一郎、今泉勝太郎、桜谷松蔵ら各師匠に江差追分の統一を働きかけ、「正調江差追分節研究会」が発足した。この研究会の中で、


「本唄を生命とする」


「詰木石節を骨子とする」


「調子をニコ上げ(二上がり)とする」


「囃子をソイーソイとする」


「七節を七声で途中切らずに唄うものとする」


ことが決定され、正調江差追分として統合の基礎ができ、以後、江差追分については有志一丸となった本格的な研究活動が展開されることになったのである。
 次いで明治44年9月、江差の古老たちが古来わが土地の名謡と誇った追分節の衰頽を嘆いて、北海道各地から追分節の名手と称する者数十人を招き、江差でその競演会を催して追分節復活の機運を促した。その時各名手の唄い振りを玩味の結果、最もその節調の正確優秀と認められたのは平野源三郎のものであったと言う。第一人者としての貫禄を見せつけたのである。

 その後、平野源三郎を中心に標準の曲譜を作るために努力が続けられ、明治44年、現在の7線による独自の曲譜ができあがり、それを東京で正調江差追分節発表会を開いた際、公表して定型化に成功したのです。当時の地元追分会の動きを端的に記した明治45年5月12日付け「江差日々新聞」の記事によると、

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 その昔名物の一とうたわれた江差追分節も、土地の衰微に伴い節調子が大いに乱れ、自分勝手の我流に唄うもの多く、このまま放っておけば、真の追分節を唄える人がいなくなると歎き、当地各同好の者が協議して、さきに追分節研究会を組織し、以来熱心に研究中であるが、この際完全な楽譜を作り、江差追分を永久後世に残そうと計画し、前年当町において追分節大会を開催し、当町は勿論各村落よりもっとも熱心な秀でた者数十名を集め、それぞれうたわせたところ、当町平野源三郎の節廻しがもっとも完全なのを認め、同研究会においては同氏の節調子により専門家に托して完全な楽譜を作らせて、同好にこれを配り、追分節の隆盛を図ろうと既に相談成立し、平野氏は近日上京するとのこと。

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 明治45年6月28日、東京神田のキリスト教青年会館で『追分節演奏大会」が行われたが、そのきっかけは北海道選出の代議士、浅羽靖が東京の音楽学者田中正平に段取りを依頼したことに始まる。田中正平が同好の士五十余名を集めて、その前で江差追分を唄わせたのである。 そのいきさつについて、昭和9年頃の『江差日々新聞』に『江差追分節と来歴』という題で山田伝蔵という人が連載していて、その第二十一回に興味ある記事を書いている。

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 平野氏は養父の没後家計の失敗から落ぶれたので、当時巡査部長をやめて遊んでいた池野という男と語らい、平素唄い馴れた江差追分節を唯一の心頼みとして上京したのである。それも当初の計画では北海道産の煎豌豆に追分豆と命名し、雨にふせ露に宿りながら浅草の四辻に立って、追分節の一つも添い景品として豆売りをしようとしたのであった。ところが偶然の機会から池野の尽力で故人浅羽靖氏に知られ、其そ斡旋で四辻の豆売りに唄う筈だった江差追分節が、神田の青年会館において優幽の哀曲が立錐の余地のないほどの中で唄われたのである。

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 出演した平野源三郎は、持前の幽婉、高尚な声調をいかんなく発揮し、並居る聴衆に深い感銘を与えたのである。ついで、7月13日に同所で行われた公開大演奏会・・・この中で会主の浅羽代議士は平野源三郎のことを江差追分の第一人者と紹介している・・・も好評を博し、以後、平野源三郎追分節の声価は不動のものになった。 その、7月13日神田のキリスト教青年会館で行われた公開演奏大会の模様の当時の都新聞の記事からの抜粋。

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 十三日、青年会館で平野源三郎という江差の人の追分節を聴く。江差節や在郷節などと分類してあるが、前者では、「帯も十勝」、後者では「忍路高島」が数番中の秀逸で、世間で聴き馴れたむやみに甲を高めるのと違って、比較的に低い調子の、底から雪のような潮の花が湧いてザザザザザッと磯をかむかと思われ、肉が締まって波に揺られる感じがする。20番も唄った後でなければ、思う調子が出ないと語ったが、低い調子がかえって余韻深く、やっぱり追分は潮風の吹き荒むなか寂のある声で唄うものだろう。

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 つまり、平野源三郎の唄は、当時在京していた他の寄席芸人のなどとは異なり、比較的低音でありながら、充分に本場の情緒をそなえた唄として大方の好評を博したわけである。
 同じ年の11月1日と2日の両日には、「日本追分節名人大会」が開かれた。出演者は、平野源三郎のほか、名人を自称する越後生まれの柄沢秀逸、九州の森峯吉、坂部登良など多数であった。ところが多くの人達は、美声は美声であったが、徒に技巧を弄したケレン沢山な芸人的なもので追分節本来の情緒をさえ忘れてしまったかのようなものであった。
 その中にあって、平野源三郎の唄は流石に古朴幽婉、かみしめればかみしめる程味のあるものであったが、耳の肥えない者が聴くと余りに平淡なようで、情味に乏しく、左程に前受はしなかったようである。また、ある人は平野氏は年齢のせいか、かつての美声がなくなったのは誠に惜しいものだと言っていた。しかしながら、羽織袴に威儀を正し、直立したまま尺八伴奏で唄ったため、大変に評判がよく、これがきっかけで東京の江差追分平野源三郎の節まわしが中心になって広まり始めた。

 次の、民謡研究家竹内勉の見解などはなるほどと思わせるものがある。

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 この三回にわたる東京での江差追分鑑賞会で多くの人を集めることができたのは、東京には越後の米搗き・風呂屋に代表されるように、大勢の越後の人達が集まっており、北海道の追分節には、それも浜小屋節的唄い方には、ヤン衆その他で北海道と交流があるだけに、耳なじみであった。しかも江差追分の前身である松前節は越後生まれだから、越後の人たちにとっては故郷の唄という感じが強かったのだろう。

 次に、平野源三郎の唄が好評を博した理由は、東京は江戸時代に武家文化の花が開いたところだけに、折り目正しい品位と格調のあるものを好んできた。しかも儒教の影響でか、ひたすら耐える殉教者的な人に共感を覚え、更に加えて判官びいきという日本人の心情がある。そこへ松前江差からはるばるやってきた平野源三郎という男が、紋付き袴に威儀を正し、朗々と唄うことで、まず印象をよくしたようである。そこへもってきて「江差追分」という唄が、寂れゆく江差の人たちの、かつての栄華をしのばせる心のよりどころの唄として復活してきただけに、判官びいきの心情を揺すった。しかも、尺八という、かつては普化宗の虚無僧の吹いた宗教楽器が加われば、それは一種の無常感を感じさせる宗教音楽でもあった。それらすべてがうまく融合して観客の共感を呼んだのだろう。これに反して評判の悪かった他の人たちの唄は、多分、生臭さ、アクの強さ、そして地方の花柳界の唄らしい野暮ったさがあり、それが徳川のかつての城下町東京では受け入れられなかったのではないかと思われる。

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 その後、平野源三郎はすぐ北海道へ帰らず、ひきつづき1年程在京し、その間、後藤桃水(後年、東北民謡の育ての親と言われる)の尺八伴奏で各種の演奏会に出演したり、吉原、芳町辺の芸妓にも教授し、「櫓声会」という会を設けて一般の同好者に追分節を教えたり、瀬棚の芸妓駒助の伴奏でニッポノホン社のレコードに吹き込むなど、縦横の活躍を続けた。 

  

https://www.youtube.com/watch?v=5fBPAdn-Wec

https://www.youtube.com/watch?v=aQWrsTYppLk

https://www.youtube.com/watch?v=qEcqk9nlr0c

https://www.youtube.com/watch?v=BbO1uf7gonw

 

 今日に残された源三郎のレコードは、いづれも荘重な中に一抹の哀感をたたえ、その頃、秋風落莫の感深かった郷里江差のために、万丈の気を吐いている。ところが、間もなく病にかかりやむなく一年余で帰郷することになったのであるが、その頃、養家はすでに家業不振のため没落しており、義父との折り合いも悪いことなどから安住の地もなく、自ら詰木石地区に組織した江差追分節研究会もすでに分裂していた。
 大正3年8月、失意のうちに札幌に出て、「正調江差追分節教授所」を開き、旗亭「いくよ」やススキノの芸妓などに教え始めるが、ふたたび病状悪化し江差に戻って療養に努めた。
 大正4年2月5日の『北海タイムス』紙に連載の「追分節名人鑑」に、平野源三郎について次のように掲載された。紹介者は江差町 江差追分節研究会である
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 江差追分の名手は平野源三郎氏と村田弥六氏を東西の大関とするべきであり、そして平野氏は純江差産であって年四十六才。幼い頃より歌が好きで、その生母もまた追分節の名手として名声高く、その遺伝ともいえる。元来氏の声調は謡曲における宝生流の格調を帯び、優婉にして撥音強く厳しい所、しかも一糸乱れず聴く者を知らず知らずのうちに断腸の妙味に引き込む。明治四十五年中故浅羽翁の紹介で上京中、知名人の勧誘を断りきれず、神田美土代館にて大演奏会を開催し絶大の喝采をあび、都中の同行者を熱狂させ、各新聞紙上に賞賛されるこことなった。特に高官の招待を数十回も受け、又美音会あるいは演奏会に出演し、毎会非常の好評を博した。次いで日本蓄音機商会の頼みで蓄音機に吹き込む等その音譜を求めるもの頻出し、ついに東京に滞在せざるをえなくなった。東京に追分節教授所を開いたところ実に多くの同好者を得た。また氏は追分尺八の名手としても知られ、氏は追分節を馬子唄と在郷節正調の三種に分け、以下に同好者の参考までにその文句を掲げると、
 (三下がり馬子唄)
 ♪ 思ひ捨てるは叶わぬとても縁と浮世は末を待て「心細さよ身は浮き舟の誰も舵取る人も無い「文の表書薄墨なれど中に恋路が書いてある
 (在郷節)
 ♪ 帯も十勝に其まま根室落ちる涙は幌泉「ありゃ鳴く筈だよ野に住む蛙みずに逢わずに居られよか「大島小島の間とおる船は江差うけよか懐かしや
 (正調)
 ♪ 忍路高島及びもないがせめて歌棄磯谷まで「櫓も櫂も波に取られて身は捨小船何処に取りつく島もない「波の音聞くがいやさに山家に住めば又も聞こゆる松の声
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 大正4年の5月には再度、札幌に出て「追分教授所」を当分南5条西5丁目、岡本方で開始。暮れの12月18~19日には平野源三郎が札幌に来たのを記念して、狸小路巴館にて「平野源三郎来札記念各流追分節大演芸会」が開催され、尺八小路豊太郎、唄田沢はつ、札見民子、鶴子、筆助、東金吾、富士丸、加代、幾松、お染の出演、久しぶりに小路豊太郎と平野源三郎の尺八合奏が行われたことを北海タイムスが報じている。 
 かくて、盟友小路豊太郎との共演も実現したが病再発で帰郷。療養生活を送るようになったが、札幌での追分暮らしが忘れられず大正6年4月、病を押してふたたび出札した。同月30日の北海タイムスは「江差追分平野氏来札」の見出しで、、《江差追分節名家平野源三郎氏は長々病気にて郷里において治療中だったが、今回出札、一時、南二西七柴田如峰方に寄寓していたが、近日稽古を開始する筈》と報じ、翌5月14日の同紙には「平野氏の稽古」の見出しで《江差追分節名家平野源三郎は、今回札幌南4条五5目(旗亭福井横)へ寄寓し、いよいよ今14日から何人でも追分節の稽古をなす由、一時衰えかけた江差追分も又々勃興することになるだろう。》と報じている。
 源三郎が一時寄寓した柴田如峰(欣兵衛)は、江差新地のうなぎ屋の娘で名妓とうたわれた茂吉の夫で、新聞業をやったが、のちに札幌に出て北海タイムスの記者として活躍、大正元年退社して札幌の北3東2の「大正館」の経営に乗りだし、同年12月14日から三日間「経営披露大演芸会」を開催している。
  大正6年6月4日、北海タイムス社主催の「札幌郵便局集配人慰労演芸会」が南3条西2丁目の中央館で行われて、平野源三郎が出演するが、これが源三郎の最後の舞台となった。
 いよいよ体調が思わしくなくなった源三郎は、郷里に戻らず幌内尋常高等小学校勤務の息子下川部勝太郎(養子)が住む幌内に移転し病床に伏した。
 そして翌大正7年8月21日、同地で淋しくこの世を去った。享年四十九才であった。
 三木如峰によれば、臨終の際、枕辺に呼ばれてすべての後事を託され、正鷗軒の跡目を継ぎ平野派家元として正調追分節を後世に伝え、益々普及発達を期して貰いたいと懇々依頼された由。
 なお、没後の大正12年11月に江差において同好者による「追分界名人故平野源三郎氏追弔会」が行われている。

※参考文献
『小唄漫考』湯朝竹山人 大正15年
『正調追分節』三木如峰 昭和14年
追分節』竹内勉 昭和55年
江差追分江差追分会 昭和57年
江差追分物語』館和夫 昭和64年
『鷗嶋軒小路豊太郎と周辺の人々』井上 肇 平成7年
『 風濤成歌』江差追分会 平成11年

江差追分会HP』

 

 実はこれは意外に知られていない話なんだが、明治45年6月28日の東京神田のキリスト教青年会館で『追分節演奏大会」が行われた時に、なんとあの苦沙弥先生が聴きにきてたと言うんだ。これは美学者の迷亭の日記に書いてあることだから間違いはない。
 「いつもいつも、後架で近所迷惑な詩吟ばっかりうなってないで、ちょうど追分節の演奏会を神田でやるという話だから、気晴らしに行ってみようじゃないか」といったら、
「どうも胃の調子がよくないから気が進まないな~、そりゃ浪花節みたいなものか」
「まあ、そんなようなものだ。きれいなね~ちゃんも出るようだから騙されたと思っていこうや」
とまあ無理やり連れて行ったはいいが、後でえらい怒られたそうだ。
「なんだ見目麗しい乙女がでるっていうから行ったら、ジジイばっかじゃねーか」
                            おあとがよろしいようで