追分を唄って強盗に遭う

 まあなんだな、芸事に限らずなにごとも「キチガイ」と言われるくらいでないと上達しないもんだよ。わしなどは、追分を始めた頃のことだが、唄いながら歩いていて、よく道行く人に振りかえられたもんだ。夜中にどこかの家の軒下で唄っていて、このやろ~って追いかけられたこともあったな。
 一度などは、会社帰りに軽く一杯やって、ほろ酔い加減でうなりながら歩いていたら、後をついてくる人がいたんで、てっきりわしの追分に聞きほれてついてくるのかと思っていたんだ。ところが、街灯が途切れて暗くなったところにきたら突然目の前が真っ暗になって、気がついたら地面に倒れていて、「金を出せ」と脅されてるとこだった。

 こりゃ下手したら命がないなと思ったもんだから、とっさにバッグがそこらにあるだろうと言ったら、それを持って立ち去ったので助かった、なんてことがあって、それ以後、夜道を歩いていて後ろから人がついてきたら必ず振り返って顔を見る癖がついたよ。もちろん、夜道で唄うのもやめた。「キチガイ」と言われるのは名誉な事だが、命を取られるのはごめんだ。