お好み格言

 『格言』とは、人生の真理や万人への戒めを簡潔にまとめ、教訓とする言葉のことであり、金言、処世訓、箴言(しんげん)などともいう。俗間に広く流布し、昔から言い伝えられているものを諺(ことわざ)、俚諺(りげん)という。英語で言うとproverbが相当する。
 亡くなった親父が口癖のように言っていた言葉が二つあります。一つは『人を見たら泥棒と思え』であり、もう一つは『金のないのは首のないのと同じだ』である。事あるごとに聞かされていたので、耳にこびりついています。漠然とどういう意味なのかはわかりますが、実際どういう意味なのかをちょっと調べて見たくなった次第です。

 

『人を見たら泥棒と思え』
 他人を軽々しく信用せず、まずは相手が泥棒だと疑ってかかるくらい用心しろということ。
Man is a wolf to man.(人間は人間にとって狼)
Give not your right hand to every man.(誰彼かまわずむやみに手をゆだねるな)
Never trust a stranger.
(見知らぬ人を信じてはいけない)
Don't trust anyone.
(やたらに人を信じてはいけない)

 歌を歌いながら夜道を歩いているときに、後ろから人がついてきたからといって、自分の唄に聞きほれてついてきてるなんて決して思ってはいけない。強盗かもしれんのだから。
 昨今はやりの「おれおれ詐欺」なども、この格言を常に頭に置いておけば、ひっかかることはなかろう。
 そういえば、「渡る世間は鬼ばかり」というドラマがあったな。 まあこれは『渡る世間に鬼はなし』(世の中には鬼のように無情な人ばかりでなく、親切で人情に厚い人もいるということのたとえ)をもじったものである。
 人を軽々しく信用するな、という意味では『七人の子は生すとも女に心許すな』Do not trust a woman even if she has borne you seven children.なども同類であろう。
詩経」からの言葉だが、七人の子をもうけるほど長年連れ添った妻にも、気を許して大事な秘密を打ち明けてはいけない。女には気を許すなということ。
 わしなどは事あるごとにこの言葉を家内に聞かせるから、さぞかし家内も心の内ではこの野郎と思っていることであろう。桑原桑原。

 

『金のないのは首のないのと同じ』
 この言葉も事あるごとにわしの頭に浮かぶ言葉である。
 わしは歌舞伎は見ないからよく知らんが、歌舞伎 恋飛脚大和往来の一部、封印切 の中に出てくる台詞らしい。
 内容は遊女を身請けしようとした若旦那が、金が足りず心ならずも公金に手をつけてしまい二人で逃避行するのだが、その身請けの場面でライバルが若旦那を煽るために言う台詞である。
 本当に昔の人はうまいことを言うなあと感心するよ。金がなけりゃ食い物が手に入らんから、首を括るしか無くなるわけだ。今でも時々餓死による孤独死のニュースが流れ、手元に五円玉が一枚だけだった、なんてのを聞くと何とも言えない哀れさを感じる。
 金はいくらあっても困らんが、「杜子春」じゃないが、『金の切れ目が縁の切れ目』なんてのもある。寝るとこ住むとこがあって、三度のおまんまが食えりゃ幸せだろ。

 

『転ばぬ先の杖』
 失敗しないように、万が一に備えてあらかじめ準備しておくこと
語源・由来は、江戸時代における「伊賀越道中双六」という浄瑠璃にあるとされている。
 危機管理の要諦は「最悪の事態を想定して事前に備えよ」であり、「万が一起きてしまったら被害を最小限に抑えよ」である。
Look before you leap.
備えあれば憂いなし。 念には念を入れよ。 濡れぬ先の傘。なんてのも似たような戒めだ。
 わしの爺さんと親父は関東大震災を経験しているから、わしの子供の頃は、枕元には必ず着替えを置いて寝るように躾けられたものだ。もっとも、いまは防災袋なんていう便利なものがあるがね。
 地震とか疫病はほぼ定期的にやってくるのがわかっていても、『喉元過ぎれば熱さを忘れる』で、いつも『泥縄』対応になってしまう。『熱ものに懲りてなますを吹く』ようじゃいかんが、適度な対策は常日頃から取っておかねばいかん。『後悔先に立たず』である。『渇して井を穿つ』のでは『後の祭り』である。

 

『李下に冠を整さず』(りかにかんむりをたださず)
『瓜田に履を納れず』(かでんにくつをいれず)
 李(すもも)の木の下で手を上げて、冠が曲がっているのを正すと、さも実を盗もうとしているように見えるから、まぎらわしい行為はするなという戒めである。
瓜畑では屈むと瓜を盗むと疑われるので、履が脱げても履き直すなという戒め。
『文選』-古楽府・君子行「君子防未然、不処嫌疑間、瓜田不納履、李下不整冠」から出た語。
 たとえは古いが、現代においても十分に通じる戒めである。
 古代ローマユリウス・カエサルは自分の妻に不倫の噂が立った時にこう言って離縁した。《カエサルの妻たるものは疑われることすらあってはならない》Caesar’s wife must be above suspicion. 実際は、妻に飽きていたのかもしれないな。
 一度よからぬ噂が立てば、痛くもない腹を探られるようなことにもなりかねないのが世間というものである。この言葉は中国発の戒めだが、まだこの頃の中国はこういう慎み深い言葉で処世を戒める人がいたんだな。今ではわしの処世訓の中にしっかりと組み込まれている言葉である。

 

『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』
Asking makes one appear foolish, but not asking makes one foolish indeed.
 この言葉は祖父からよく聞かされたものである。
 知らない事を人に聞くのはその時は恥ずかしいことでも、聞かずに一生その物事を知らないまま過ごせばきっと後悔することになるということです。知ったかぶったりせず、恥ずかしい気持ちを乗り越えて、素直に聞いて学ぶべきだという教えだ

 ちょっと道行く人に道順を聞けばすぐ辿り着くのに、なまじっか沽券にかかわるなどと聞かずに行けば、いつのまにかとんでもない所に迷って、結局無駄な時間を費やしてしまうことになるんだ。
 あの時、断られる恥をおそれず、思い切って恋を打ち明けておけば、一生後悔することもなかったであろうに。

などという場合にも使われる言葉である。
「聞くは一時の恥,聞かぬは末代の恥」ともいう。
「とふは一旦のはぢ,とはぬはまつ代のはぢ」『毛吹草』が出展。
『毛吹草』(けふきぐさ)は、江戸時代の俳諧論書。1645年刊行。編者は松江重頼