趣味・趣向

 芸術とは何ぞやを知りたい向きには漱石草枕を読むことをお薦めする。特に、政治的プロパガンダを芸術だと称するやからには是非とも読んでもらいたいものだ。 
 《智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。 住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。》

《我らが能から享けるありがた味は下界の人情をよくそのままに写す手際から出てくるのではない。そのままの上へ芸術という着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき悠長な振舞をするからである。》


 《折りから、竈のうちが、ぱちぱちと鳴って、赤い火が颯と風を起して一尺あまり吹き出す。
軒端を見ると青い煙りが、突き当って崩れながらに、微かな痕をまだ板庇にからんでいる。》
一瞬のうちに、幼い頃の風景がまのあたりによみがえってくる。これが文学と言う芸術なのである。


 文学は大きく分けると、「純文学」と「大衆文学」にわけられる。
「純文学」とは一般に、読者の娯楽的興味に媚びるのではなく,作者の純粋な芸術意識によって書かれた文学というほどの意味であり、また学問のための文章でなく美的形成に重点を置いた文学作品とも定義される。表現の精緻さ美しさが求められるのが純文学です。
 それに対し、「大衆文学」は娯楽性が主な目的となります。推理小説、発想が大事なSFなどはほとんどが大衆文学に属します。
 ところがここにどちらにも属さない文学が存在します。すなわち、表現の精緻さ美しさがあり、なおかつ娯楽性がある文学です。それを人は「国民文学」と呼びます。その第一人者は吉川英治であります。氏の題材は江戸時代以前が多く、それなりに娯楽性も高いが、森鴎外にしろ芥川龍之介にしろ、近世以前を題材にした純文学者もいるわけで、時代物だから大衆文学だという決めつけは出来ないのであります。その時代その時代に生きた人間の生きざま、その本質を捉えているか、表現が活きているかどうかだと思うわけです。


 音楽については別にその芸術性について語るつもりはありません。そのような知識も見識も持ち合わせていないからであります。ただ、この世界にも純文学的な音楽と大衆文学的な音楽があるのもまた確かな事であります。純文学的な音楽とはいわゆるクラシック音楽で、大衆文学的な音楽とはジャズや民謡や歌謡曲などが当てはまりましょう。
 クラシックで言えば、わしも若い頃はご多聞に漏れずベートーベンやブラームスといったシリアスな曲が好みであったが、年とともにモーツアルトショパンに移ってきました。ある人が「死」とはなんぞやと問われて「モーツアルトが聴けなくなることだ」と答えたというが、同感である。この人がもっと長生きしたら、どれほどの名曲が生まれていたことかと考えると若くして亡くなったことは残念なことである。ショパンは、切れ味鋭くそれまでのピアノの音自体を譜面上で画期的に変えた人です。ピアノという楽器の性能が上がるにつれますます音に輝きが増してくる、そういう音を作り出した人でもあります。その「夜想曲集」は眠れない夜の必需品となっています。
 そういう耳からすると、いわゆる現代クラシックなるものは雑音にしかきこえない。テーマが見えないのです。まったく気持ちよくならないのであります。
 歌謡曲界の天才と言えば、美空ひばりです。音声が残されている明治大正時代以降これ以上の歌い手がいなかったところをみると、少なくとも100年に一人の天才であることは間違いない。いまだその七色の声を出せる歌い手は現れていません。もう一人わしの好きな歌手は大月みやこです。しっとりとした情感あふれる歌をなんともいえない間の取り方で歌い、わしを魅了します。

 多感な青年時代から、いわゆるなつかしのメロディが好きで、レコードを聴いたり口ずさんだりしました。歌手もそれぞれ個性があり、音楽学校出身者も多いせいか声の出し方も基礎が出来ている人がほとんどでした。ところが最近の歌い手ときたら、一部の演歌歌手などを除けばいやはや・・・・・・・・・・・これ以上は言えない


 絵画にしても同様に、わしが理解でき、芸術性を感じられるのは、写実派や自然派の絵画で、抽象画や現代アートなるものはほとんど理解する、あるいはいいなと感じられる頭脳は持ち合わせていない。そういう頭脳を持っている人からすれば、わしなどは侮蔑の対象となるやも知れぬが、何に価値を見出すかは人それぞれであろう。わからないものをやたらに有難がる風潮はいつの世にもあるものです。
 《住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも璆鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺縑なきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、──千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。》