小室節2

 「小室節」には歴史的文献があるわけですので、それらを見ていきましょう。

 

 「小室節」の名称が出てくる最も古い文献といえば、『吉原はやり小唄総まくり』です。これは寛文二年(1662)版の草紙で、<万治二年(1659) 所々より吉原迄の駄賃付けの事>として、
 一、日本橋より大門まで並み駄賃弐百文馬奴二人小室節うたふ かざり白馬駄賃
   三百四十八文
 一、飯田橋より大門まで並み駄賃弐百文まご二人小室節うたふ かざり白馬駄賃
   三百四十八文
 一、浅草見附より大門まで並み駄賃百三十二文馬子二人小室節うたふ かざり白馬
   駄賃二百四十八文
と記されている。つまり、江戸時代初期には小室節は唄われていたということです。 
 また、延宝六年(1678)刊の菱川師宣『吉原恋の道引』(吉原通いの道筋から途中の舟賃や馬の駄賃、遊女の種類まで、事細かに記した延宝時代の吉原の案内書)にも、
   「日本橋より大門まで並み駄賃弐百文、馬奴、こむろぶし歌ふ」
とあります。
 この頃は、吉原通いの客が馬に乗って、馬子に唄をうたわせながら通うのが伊逹者の資格の一つになっていて、その馬子唄を「小室節」と言ったのだが、この馬子が小室節を唄う事は、駄賃を多くする有力な条件でもありました。

好色一代男』天和二年(1682)井原西鶴

 中の巻五(願いのかき餅)

 《世之介も今は堪忍ならず、表に出れば、京より結構なるいせ参りがあるはと、門立さはぎ、練物をみる如くぞかし、大阪の黒舟といふ乗懸馬、伏見の漣浪、淀のはんくはい、かれ是三足揃えて、七つ蒲団を白縮緬にしめかけ、馬の沓にも唐糸をはかせ、何れも十二三なる娘の子、四つ替の大ふり袖、菅笠に紅裏うって、ないまぜの紐を付、其時は小室ぶしの最中、宿入りにうたひて、馬子も両口をとるぞかし》

 

『人倫訓蒙図彙』(じんりんきんもうずい)

 《馬方節とて一ふしあり、船頭に舟歌あるが如し・・・当世は辰巳あがりのこゑして    小室節なり、聲高にして何事にも先片肌ぬぐはかれらが風俗也》 ※「辰巳あがりの声」とは甲高い声の事。

 元禄三年(1690)上方で出版された風俗の百科事典的絵本。あらゆる身分、職業の解説と図解でなっており、著者は不明だが、絵師のほうは、蒔絵師源三郎の署名あり。

 

新竹斎物語』元禄期の仮名草紙。

 《桂川にて、東奴と物いひかわす條に云、

   お江戸を出て百三十里の道すがら、比丘尼がうき世ぶし、馬子が小むろのひなめきたるならで、歌といふ物きゝ侍らずと云々》

 

『御前義経記
浮世草子。西沢一風作。元禄13年(1700)刊。8巻8冊。義経伝説を下敷きに、主人公が諸国の遊里を遍歴しながら色道の研鑽(けんさん)を積んでいくさまを描く。
《「されば、まづ桑名といへる所へ三里半もあるべし。宮への渡は七里の海上、それ過ぎて三州迄は七里半なり。くたびれ給うはば馬に乗りたまへ」と宿はづれより、「から尻馬、桑名まで五十八文。乗ったり乗ったり安いもの」と、小室節うたはせて云々》
 桑名=伊勢国桑名郡桑名町
 宮=尾張国愛知郡
 から尻馬=一駄四十貫を積載する馬を本馬といい、積載量五貫目までの駄馬を空尻馬(軽尻馬)という。    

 

丹波与作待夜の小室節』宝永五年(1708)近松門左衛門

 中の巻

《あれ々々あそこへ歌うて来る本小室のひん抜きは、与作々々と小手招き、(歌)さても見事なソンレハおつづら馬や、七つ蒲団にソンレハ曲彔据えて、我もむかしは、

(フシ)乗りし身を~~》

 本小室のひん抜き⇒本家本物の小室節

 

松の落葉』江戸時代中期(宝永七年1710)の歌謡集

その中の半太夫節(江戸浄瑠璃の一流派)の十七番 桜姫碁盤人形に、

 《かかる目出たき折なれば、勇みゆゆしき御馬の初、五十三次に隠れない男、よよを籠めたる

竹馬を、さてさて見事に飾り立て、手綱掻い繰り、しつしつどうどうどどんとどっこ

い、どっこいせ、朝の出がけに小室そんれは、出がけにゃ朝の、朝の出がけにゃ小室

んれは、一声二節三蔵やい、二人づんづん連れ立ち、さあさあ行くべい行くべい、轡

の鈴がりんりんからから、りんりんからから、りんがらがらりんりんからから、りんか

らからはいどうどう、はいはいはいはいはいどうどう、あっぱれ御馬か、上手と上手

が、乗ったか乗ったぞ、さてさて見事え、三味に引かるる駒の勇みや》とある。

 

『乗掛妹背小室節』(のりかけいもせのこむろぶし)
 これは宝暦元年(1751)秋、中村座興行の「戀女房染分手綱」の八段目の演目で、長唄作曲は佐野川千蔵(後の富士田吉治)。
《道はか行かぬ女旅(小室節)坂は照る照る鈴鹿は曇る。鈴鹿も我も曇る身を。拂ふ誓は観世音。山より山に行く道は 上り下りに手を引合うて えいさっさ。馬も顔振る 痴話の鞭 夫は丹波の刀差名は伊逹人の與作とて。人に知られし戀男・・・》(高野辰之編『日本歌謡集成』より)

 

『小諸節原歌』(享和三年(1803)

 小諸藩松井の住人で松濤迂人という人が描いたという絵図。これは祇園社の祭礼におこなわれた小室節の神賑わしで、服装や行列の様子がわかる貴重な資料です。さらに「小諸節原歌」として小室節の原唄がいくつか載っています。そのうちの三つ程挙げると、 

♪ なれそなれそに 小室衆にやなれそ きみのおそばに イヨ ついなれそ
♪ さても見事や お葛籠馬よ 馬子の小唄に イヨ 小室ぶし
♪ 祝い目出度の 若松さまよ 枝も栄へる イヨ 葉も志げる 

というように、中々洒落た歌詞がある。

 

東海道中膝栗毛』は、1802年(享和2年)から1814年(文化11年)にかけて初刷りされた十返舎一九滑稽本であるが、その第三編上に、

《【岡部より藤枝へ一里二十六町】名にしおふ遠江灘浪たいらかに、街道の並松えだをならさず、往来の旅人互に道を譲合、泰平をうたふ葛籠馬の小室節ゆたかに、宿場人足其町場を争はず、雲助駄賃をゆすらずして、盲人おのづから独行し、女同士の道連ぬけ参りの童まで盗賊かどはかしの愁いにあはず、・・・・》とある。

 これの詳しい内容については、このブログの「小室節1」の三田村鳶魚民俗学者山中共古との対談本東海道中膝栗毛輪講(上)』に引用しました

 

『方言修行金草鞋』第十三編 文政三年(1820)十返舎一九
 《小諸ここも繁盛の御城下なり。「お大名の通りけるを見て、

  宿の名の小諸ぶしにてつづら馬ひきもきらざる町のにぎわひ》

 ※この時代、善光寺に参拝し、上田、田中を経て小諸から追分、さらに草津に出た旅は小諸を繁盛させたのである。

 

 

浮れ草』 文政五年(1822)松井譲屋編
その序文に、

寛永の往古、小唄八兵衛がうたひし小室節~云々》

とある。松井譲屋については「京阪のいわゆる粋人である」以外のことは詳しくはわかっていない。小唄八兵衛は、江戸時代前期に歌舞伎唄方で活躍し、江戸小唄の名手で、三味線も巧みであった由。

 

『聲曲類纂』巻の五 小唄の部「小室節」 弘化四年(1847)斉藤月岑著
 《其始并に名義ともに知るべからず。今も諸侯御入府の節は、御馬前に立てうたふとかや。其曲節を伝ふる家、今も武州豊島郡三河島に残りてあり。三河島に残る事は、三河より来る人の子孫とかや、其伝来故ありて略す。むかし吉原通ひせるわこうどら、白馬にのりて通ひし頃、馬奴二人こむろぶしをうたひしことは末に記せる大尽舞のくだりに載たり。》

「今も諸侯御入府の節は、御馬前に立てうたふ」ということは、「小室節」が単なる馬子唄ではなく、格調の高い祝い唄であったことがうかがえます。
三河島は吉原のすぐ北隣にある。
大尽舞とは江戸中期頃から吉原遊郭太鼓持ちによって歌われた囃子はやし舞。紀伊国屋文左衛門の大尽ぶりなどを歌舞にしたもの。

 

『紀国文左大尽舞』
右田寅彦(みぎたのぶひこ明治-大正時代の劇作家)1866-1920
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(トぢっと思入、是にて馬士唄聞える。)
 小室節 ♪さても見事な、そんれはおつづら馬や。
おゝあの唄は小室節、さては世にある大尽が是見よがしの白馬にて日本堤を通ふと見えた、今度こそは甚兵衛が馬を追うて来るかも知れぬ、よく気をつけて、ムゝ。
(ト立上ってこなたを窺ふ。)
 小室節 ♪七ツ蒲団に、そんれは曲彔すゑて。

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清元 『旅奴』
 《旅は道づれ、夜はふざけ、とんだ月夜と小室ぶし、上り下りのおつづら馬よ、さても見事な手綱染かいナアエ、馬子衆の癖か高聲で、鈴をたよりに小室ぶし、吉田通れば二階からナ・・・・》

 

端唄 『上り下り』
 《上り下りのおつづら馬よ、さても見事な手綱ぞめかいな、馬士衆のくせか高声で、
  鈴をたよりに小室節、坂はてるてる鈴鹿はくもる、あひの土山雨が降る 吉田通ればなア二階から招く、しかも鹿の子の振袖が》

https://www.youtube.com/watch?v=PZNONGCKCsU


  ※かつて大名が江戸へ上り下りの際、荷物を運ぶ様を唄ったもの。一般的に「鈴鹿馬子唄」の歌詞とされている唄を「小室節」としているところから、両者の間に深い関連性が見られて興味深い。

 

端唄 『時鳥暁傘』(ほとゝぎすあかつきがさ)

 《ほとゝぎす、あかつき傘は月が召し、土手の草葉におくつゆの、編笠深きものゝふの、裾もみじかき伊達模様、奴が腕振る尻をふる、空尻馬に小室節、鞍にゆられて眠たげに、聞こゆる鐘は、浅草寺

 

うた澤『色気ないとて』
  《色気ないとて苦にせまいもの、賤が伏家に月がさす見やれ茨にも花が咲く、田植えもどりに袖つまひかれ、今宵逢ふとの目づかひに、招く合図の小室ぶし、すすきにのこる露の玉かしくと読んだが無理かいな》 

 

 

俳句・狂言の中にも小室節を謡ったものがいくつかあります。

 

芭蕉選集『続猿蓑』元禄十一年(1698)

   春の日や 茶ノ木の中の 小室節 (正秀)

 幸田露伴は評釈芭蕉七部集 [第7] (評釈続猿蓑)の中で《小室節は馬子唄なり。武州北安

達郡小室村より起こるといい、あるいは信州小諸の宿より起こるといえど、両説ともに

確微するところ無し。この句は東海道の風情と聞ゆ、一九が膝栗毛にも小室節の歌はる

ること出でたり。別に小室節に茶の木の文句などあるにはあらじ。春の昼下がりに茶畑

続きの街道を行く、鄙びたる馬子唄のさまと心得てよし。句に拘はりては茶摘歌の中に

聞ゆるように解答しもすべけれど、さのみ執せんは趣に疎かるべし》と述べている。

 

川柳『万句合』宝暦七年(1757)

   馬かたの声には惜しき小室節

 唄はいいけど声がいまいちだな~ってことかな。

 
『俳懺悔』寛文二年(1790)

   霧雨に 小室うたふは たれが馬 (大江丸)

 『俳懺悔』は江戸中期の俳人大江丸の俳諧集 。

 

 

 

 

引退

 このところ2年間、新型コロナのせいで江差追分全国大会が中止になっている。


その中止になる前の最後の予選会に出場した時には、幸い通過したので全国大会にも出

るつもりでいたところ、体調をくずして棄権せざるをえなくなってしまった。


 今思えば、その予選会の時の唄もなんか弱弱しくて、いかにも病人が唄っているよう

であった。その辺から体に異常があったのであろう。最近とみに息が続かなくなったの

で、呼吸器検査を受けたところ、「肺疾患」の疑いがあって、現在70代前半なのに9

2才の肺だという。こりゃいかんということで、精密検査を受けたんじゃが、結果は異

状なしだという。なんか釈然としないが、実際のところ息が続かないわけで、どうした

らいいか医者に相談したら、肺の筋肉を鍛えなさい、という単純でありがたい教えを受

けたので、今は毎日「ピロピロ」という道具をささやかに使ってる。どうも4年程前に

肺炎を患ったことがなんらかの後遺症を引き起こしたんじゃないかと思っている。


 いずれにせよ、まともに唄える状態ではないので、先日支部を退会しました。やっと

唄い方がわかってきたところなのに、実に残念であるww。

歌詞考5(碓氷峠の権現様は~)

 

碓氷峠の権現様は わしが為には守り神

 

 「追分節」の最も古い文献とされているのは、松井譲屋編『浮れ草』<国々田舎唄の

部>文政五年(1822)で、追分節として載せられている次の七首です。


こゝろよくもておひわけ女郎衆、あさま山からおにがでる

♪一夜五両でもつまもちゃいやよ、つまのおもひがおそろしや

♪さらし手ぬぐひちょいとかたへかけ、あくしょがよひのいきなもの

♪あのやおひわけぬまやら田やら、ゆくもゆかれず一トあしも

♪うすいたうげのごんげんさまよ、わしがためにはまもり神

♪あさま山ではわしゃなけれども、むねにけむりがたえやせぬ

♪おくりましょかよおくられましょかよ、せめてたうげの茶屋までも

 

 この碓氷峠というのは群馬県と長野県の県境にあって、県境をまたいだ権現様の境内

には、現在は長野県側の熊野皇大神社群馬県側の熊野神社が鎮座しており、神主も二

人いるという。

 日本武尊が、東征の帰路、亡き妃を慕って「あゝわが妻よ!」と三度嘆いたというこ

碓氷峠を、かつて鈴を鳴らしてさわやかに朝な夕な通り過ぎる馬方が、心までなりき

って唄ったのが、碓氷峠の権現様は、わしが為には守り神」であり、また「碓氷峠

あの風車、たれを待つやらくるくると」なのだろう。一方は信仰の唄であり、一方は恋

の唄である。柳田国男によれば、信仰の唄と恋の唄との分かれ目が定かでないというの

は、奇妙に感じられるが、これは神に仕えた者が上臈であり、同時に万人に愛される女

性であったことを考えれば、あながち有り得ないこととは言えないとのこと。

 人が馬方風情と言って、さも賤しいもののように言い出したのは、膝栗毛時代からの

変化と言ってよいと思うが、以前は遠くまで七日十日の出稼ぎをし、大いに儲けて帰っ

てくる者が馬方であった。空想と英気に富む若者のみが、好んで馬方の生活を営んだの

である。

 また、ある追分研究家によれば、追分節の地理的な、あるいは精神的な意味での源流

は、追分節の元唄ともいうべき、碓氷峠の権現様は、わしが為には守り神」という歌

詞にちなんで上州と信州にまたがる碓氷峠のあたりだと考えているそうだ。

 このように、碓氷峠の権現様は~」は、元は碓井峠から信濃追分宿近辺で唄われて

いた馬子唄なのだが、その馬子唄に三下りの三味線をつけて艶のある粋な座敷唄にした

ものが馬方三下りです。この馬方三下りが漂泊の座頭という人達によって信濃や越後か

ら、さらに陸路奥羽を経て蝦夷地に運びこまれ、松前江差の三下りとなり、踊りも振り

付けられて盛んに唄われ、伝承されていったのである。その辺のことは、このブログの

江差三下り」を参照願います。 

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 上の浮世絵版画は歌川国丸(寛政五年1793~文政12年1829)が描いたもの

(版元、版行年月ともに不詳)だが、上部に

 ♪うすゐとうげの ごんげんさまはアゝ わしがためには のふまもりがみいゝ

 ♪おくのかいとうに もとみやならばアゝ なにをたよりに のふおくまいりいゝ

 ♪おくりたいぞやおくられたいぞウゝ せめてますがたの のふちゃ屋までもウゝ

という歌詞があり、下に酔客二人と芸妓か遊女らしき女性が描かれている。

 すなわち、文政年間には追分節の元唄的な唄として広く唄われていたことが窺われ

る。

 この唄はまた、

碓氷峠の権現様は、わしの為には守り神

碓氷峠の権現様は、わしの為なら守り神

碓氷峠の権現様は、ぬしが為には守り神

碓氷峠の権現様は、ぬしの為には守り神

とも唄われる。

 さらに、唄の後には必ず「スイスイ 来たか長さん待ってたホイ、お前独りがカワイホイ」というようなお囃子がついたものである。


 参考文献:小野恭靖『江戸期流行歌謡資料』
      柳田国男『民謡覚書(廣遠野譚)』昭和15年

     館和夫『江差追分物語』

     

 

歌詞考4(大島小島の~)

「大島小島のあい通る船は 江差通いかなつかしや」

 

 

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 この歌詞は今では、

大島小島のあい通る船はヤンサノエー 江差通いかなつかしや 北山おろしで行く先ゃ曇るネー 面舵頼むよ船頭さん」

というふうに専ら『前唄』として唄われています。だが、古く前唄以前の古調の時代にあっては『本唄』としてのみ唄われていたのであって、わしの知る限りではこの歌詞は江差追分の中でも古い方に属すると思われる。

 類似の歌詞に「大島小島は夫婦の島よ なぜに奥尻離れ島」

       「大島小島の 鮑でさえも 蝦夷地離れぬ 心意気」

などというのがある。

「大島」は、渡島大島(おしまおおしま)松前大島(まつまえおおしま)とも呼ばれ、松前町西方沖50kmの沖合いにある無人島。

「小島」は。渡島小島(おしまこじま)松前小島(まつまえこじま)とも呼ばれ、松前町の西方沖約24km付近にある無人島。

 

 天保14年(1844年)に島根県下で、船頭の山本嘉右衛門が、当時日本海沿いの

各地で唄われていた民謡の文句を書き留めたものの中に、『松前節』として、

「お志ま小島の間のる船は えさしのぼりかなつかしや」

を載せている。この歌詞の最古のものであろう。(参考文献:館 和夫『江差追分物語』p.137)

 この歌詞が、愛媛県下の「舟追分」にも、

アー大島エ小島のヨー 間通るエー船はヨー 江差上りかヨー コラなつかしや

という風に残されているのをみると、船頭衆によって広く流布された歌詞であったのが

わかる。

 

 明治19年発行の夜短坊大/選『粋の種本』の中に「おいわけ」として、

 「大しま小しまをあやどるふねは餌さしがよいへなつかしや」

が見られるが、これも文献に現れた中では古いものの一つであろう。 

 

 明治25年発行の丸山亥子吉著、戯笑散人編『粋の自慢:博識天狗』の中に「追分節」として、

 「大島小島をあやどる船は、江さし通いへなつかしや」とある。

 

明治26年発行の樋口正三郎編『粋の選挙、第2編』の中に「追分ぶし」として、

 「大島小しまをあやどる舟は、餌さしがよいへなつかしや」とある。

 

 明治26年発行の西村寅二郎著『音曲全書粋な浮世』の中に「追分唄 二上り」として、

 「大島小島のあいとおる船は、ソイソイ江差がよいかなつかしやソイソイとある。

 

 明治42年大阪で、越中の床松という人が『当世流行歌』なるものを著しているが、「お座敷小唄」の項目の中に、「追分節」として「お女郎高島及びはないが、せめて歌棄磯谷まで」と並んで、「大島小島のあやどる舟は、餌差通いやなつかしや、スイスイ 来たか長さん待ってたほい、、お前ひとりがカワイホイ」を載せている。

 

 明治43年発行の森野小桃(庄吉)江差松前追分』

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「大島小島の あい取る船は 江差通いか なつかしや」

 津軽の人間が唄ったものである。遥に白帆が見える―ーいっぱい風を孕んで威勢よく波を切って進んでゆくのだ。はて何処をさして行く船かと瞳を定めると、大島と小島との間をめがけてずんずん進む。あゝ、江差へ行くのだなと思う。と、追想は飛んで、去年稼ぎに渡航した時、浜小屋の夕暮れに買った、あの眼のくりくりと愛らしい、背も低いし髪もちぢれていたけれども、口元に何とも言えない愛嬌のあったあの女・・・来年も来て頂戴、て何遍も何遍も別れる時繰り返したっけ、あゝ今年もまだあの女はいるだろうか、それとも国へもう帰ったかしら、思えば江差の空が懐かしい、江差を指してゆくのかと思えばあの白帆の影がなつかしい。

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 大正4年発行の稲葉一水編『尺八独習案内』の中に「追分節」として、

 「大島小島のあい通る船は 江刺がよいかなづかしや」

 

 大正4年発行の高野辰之『里謡集拾遺』の中に、

 「大島小島のあい行く舟は 江差通いか懐かしや」とある。

 

 大正6年発行の河合裸石江差松前追分節

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 「大島小島の 合い通る船は 江差通いか なづしや」

 沖ゆく白帆はどこへ行くのかと見ていたら、大島と小島の間(江差前面の島)を縫って進んで行った。疑いもなく江差通いの船だ、思えば去年江差へ出稼ぎに行った時、浜小屋で馴染みを重ねたあの女はまだいるであろうか、船の姿を見るにつけ江差が懐かしい。

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 「なづしや」は上の例からすると単に「か」が抜けてしまったものであろう。

 

 大正7年発行の分新栄家房子編『お稽古文庫第二編 新版お座敷唄』の中に「追分節」として、

 「大島小島をあやどる舟は、餌差通いかなつかしや」とある。

 

 大正8年発行の松乃家美登利編「大流行歌曲獨稽古」の中に「追分節」として、

 「大島小島の間なる舟は 江差通いか懐しや」とある。

 

大正8年発行の河内春月・松尾乳秋共編『粋な小唄』の中に「追分節」として、

 アア大島小島をあやどるふねは江差通いか懐しや ホイ来たか長さん待ってたか、お前ばかりが可愛うてホイ朝起きなるかいナとある。

 

 大正8年発行の横山雪堂追分節物語』

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「大島小島の間通る船は 江差うけかよなつかしや」、福山を西に海上七里、日高の三峰をあらわして小島あり。北西十里、江良町の真西十三俚の波上、楕円形の死火山大島を見る。

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 大正9年発行の村田弥六『純粋の江差追分節』

「大島小島の 間通る船は 江差うけかよ なつかしや」

 

 大正9年発行の藤澤衛彦『小唄伝説集』

「大島小島のあい行く船は 江差通いか なつかしや」

 

 大正9年の古舘鼠之助編『蝦夷民謡 松前追分

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『大島小島の間通る船は…』福山港弁天島の西十三哩、二つとも小さな島で出稼ぎ漁夫が渡航するほかは今でも無人島のようなものだ。その大島と小島の間を、時折追分を流して漁船が通るが、じっと見ているとそれはいつも中場所から下場所行きの船で、江差へ指して下って行く。おゝ思い出すのはあの津花の浜小屋。俺の馴染んだ女は今頃どうして居るだろう、この鰊場の切り上げ時が来たなら一日も早くあやこと逢いたい、かの船を見るにつけても親切なあの妓が思い出されるという、漁師が江差の情人へ思いを走らした歌である。

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 大正11年発行の越中谷四三郎他『正調江差松前追分

「大じま小じまの あいとるふねは 江さしうけかよ なつかしや」

 

 昭和2年日本音曲全集刊行会発行の『俗曲全集』の中に「江差追分節」として

「大島小島の 間通る船は 江差通いか なつかしや」があり、

また前唄として「大島小島の間通る船は、ヤアサホノエー。江差通いよ なつかしやアー・・・」がある。 

 

 昭和5年東京日日新聞経済部発行の『経済風土記

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「大島小島のあい通る船は 江差受けかよ なつかしや」

 大島小島というのは江差から福山に行く海上にある離れ島だが、その間を縫って行く白帆は江差を出て南へ帰る船だろう、思えばこの春江差に来た時馴れ染めた船人は、今あの船で故郷へ帰るのか、ままになるなら逢って見たい、ああ懐かしい、という述懐である。

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 昭和11年発行の石島鷗雅『哀艶切々追分節の変遷』『追分節の今昔』

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 順風に帆を孕ました大小の貨物船はひきもきらず、あたかも七福神の宝船が続いたように、大島、小島の間の航路を通う情景には、海岸に立った可憐な乙女等がそぞろ待つ人恋しいままにほろりとして、

 大島小島のあひ通る船は 江差通ひか懐かしや

と歌った程であります。

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 昭和14年発行の三木如峰著『正調追分節

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「大島小島の間通る船は 江差うけかよ なつかしや」

 福山沖にある大島・小島の間を通うあの船はまさしく、江差港うけの船であろうが、懐かしいと、懐旧の情を表した意。

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 昭和14年発行の高橋鞠太郎『追分の研究

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「大島小島の間とる船は 江差通いかなつかしや」

 大島小島は、福山港弁天島の沖合にあるもので、歌の文句を読んだだけでは、すぐ磯近いところに並んでいるようにも思えるが、まことは福山から十三哩もあり、島と島との間もかなり離れている。この「大島小島」の文句中、「間(あい)とる」というのが「間通る」と書かれ、唄い方も近頃はわざわざ「あいとおる」と五音にうたうようにしたり、五音では唄いにくいところから「あい行く」が正しかろうなどと、勝手に直して唄ったりする人がいるが、これはやはり「間(あい)とる」の四音で唄うことが本当であろう。

 「とる」というのは船頭言葉にある。帆船が風の加減で直線コースを行けないで大きくカーブして行く、そういう場合に使われるもので、西をとろうとか、東をとろうとか、または江差をとろうとか、佐渡をとろうとか言う。「何々を目標にとる」というようなことから来たのであろうか、決して「通る」の略語ではないのである。

 大島小島の「間とる」の場合は、大島と小島の間を目標にとって行くのであるから、「通る」ことに相違ないが、上のような訳で「通る」と言わずに「とる」と言った方が正しいと思う。唄の気持ちをよく味わってみるならば、、いっそうそれがハッキリと判る。つまり「間を通る船がなつかしい」というには、大島小島があまりに陸から遠く離れている。「間とる船」ならば、「間に向かって行く船」ともなるから、文句が自然で、すぐ沖合を行く船の白帆が眼にうかぶのである。「江差かよいか」を「江差うけかよ」と唄う人もいる。

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 因みに平成11年江差追分会発行の『 風濤成歌』は「間通る船は」と「間とる船は」の両方を詞華集に載せている。

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 「追分節」は別れの唄だという。男女の別離を唄った歌詞が多い。

「都々逸」もまた26文字で別離の情を唄うが、「追分節」と「都々逸」の違いがどこにあるかといえば、「都々逸」は多分に遊蕩的で脂粉の匂いがするが、「追分節」は野人的であり恋愛を歌っても必ず自然を背景としているのである。この「大島小島~」の唄からして、自然な情景の中に別れの哀情が感ぜられるではないか。それこそが「追分節」の神髄ではなかろうか。

 「大島小島~」の歌詞のうち主だったものを列挙してみましたが、調べてみるまではこんなに様々な表現があるとは知りませんでした。それでも、ある程度カテゴリーに分類できそうです。

 まず歌詞の前半部だが、明治の19年以降「あやどる船は」、が多くみられる。多分に引用の故か。「あやどる」とは一般的には「巧みにあやつる」というような意味だが、この場合は大島小島の間を船を巧みに操って進むという意か。

その後は「間通る」「間とる」が主流となる。「間通る」「間とる」については、高橋鞠太郎『追分の研究』が傾聴に値する。異色なところでは、高野辰之が『里謡集拾遺』で、また藤澤衛彦が『小唄伝説集』で、「あい行く舟は」をとりあげている。

 後半部は、江差通いかなつかしや」が主流だが、大正期から昭和の初めにかけて江差受けかよなつかしや」も見られる。「江差うけ」とは江差をめざして船を走らすという意である。村田弥六、越中谷四三郎という大物がこの文句をとりあげている。

 

 

 

 

 

わが世相観

 島国のゆえに、鎌倉時代中期の「元寇」以外はほとんど外敵に侵されることもなく、ひたすら内争に明け暮れて来た日本は、鎖国ゆえに外国がどのような発展を遂げていたかを知らず、徳川三百年の太平の世を謳歌してきたわけですが、黒船の到来により如何に外に備えてこなかったかを思い知ったのである。と同時に薩長を中心に尊王攘夷の動きが現れ、まさに内憂外患の状態に立ち至ったのであります。
 しかしながら、逆に言えばこの時代、鎖国してても皆が暮らしていけたということですね。昨今の様に外国から輸入しなければ暮らしていけない、一朝事ある時に輸入がストップしてしまうとにっちもさっちもいかなくなってしまうなんて事はなかったわけだ。
 明治維新により徳川幕藩体制が崩壊し、薩長を中心とした明治政府が出来上がると、国を守るためには富国強兵が必要であると悟った中央政府は積極的に海外に人を派遣し、国を守るために必要な知識を学ばせたのである。
 勤勉を絵にかいたような日本人は、軍艦を造り、軍隊を組織し、あっと言う間に列強に負けないだけの力をつけたのです。当時、日本の安全を脅かす存在は清とロシアであった。その安全保障を堅持するためには是非とも朝鮮半島を抑えておく必要があったのだが、幸いにして両戦役とも勝利し目的は達せられたのである。ただしこれをもって朝鮮半島を日本が植民地化したというのは間違っている。あくまでも併合の目的はロシアの南下政策に対抗するためのものであって、欧米のように植民地化したわけではなかったのである。その証拠に欧米の植民地化が単なる「搾取」を目的としていたのに対し、日本のは同化政策であって、日本と同様な近代化を推し進めることにより国防に資することを目的としていたからである。その結果、搾取どころかむしろ持ち出しが多かったのであります。


 だが、それもこれも大東亜戦争ヒトラーナチスと手を組んだことで、すべてが瓦解してしまいました。国際社会に於ける名誉ある地位も吹き飛んでしまったのです。
 戦後まもなく生まれたわしは、むろん戦争は経験していないが書籍や映像記録で戦争の悲惨さやどのような戦いが行われたかは承知しているし、ほとんどがコミンテルンによって仕組まれたものであることも承知している。日本人の怖さ強さを知った連合軍が、戦後行ったことは、押しつけ憲法に代表されるように日本人の牙を徹底的に抜いて腑抜けにすることでした。
 戦後75年を過ぎた令和の時代にあっても、日本の国土にはまだ多くの米軍基地があって、日本を他国の侵略から守るという名目のもとににらみをきかせています。それは残念ながら、核兵器を持ち虎視眈々と世界制覇をもくろむ一党独裁中国共産党や同じく核ミサイルで恫喝外交を展開する北朝鮮が隣にあるのに、対抗手段を持たない我が国が米国の核の傘を必要としているからであります。また、米国からすれば共産圏に好き勝手はさせんぞというための最前線に日本は最適な地政学的位置にあるからして日本とは同盟関係を築けるのであります。万が一日本が共産圏に取り込まれるようなことになれば、米国のプレゼンスは大幅に後退することになるわけで、従って日本との同盟関係は米国にとっても死活的に重要なのであります。
 かつての日本には少なくとも戦前までは「思いやり」だとか「奥床しさ」なんてものがありました。例えば、人ごみの中で足を踏まれたとする。よその国では「なんだこの野郎」と言って何らかの仕返しがくるわけだが、日本人の多くは「踏まれるようなところに足を出していた私も悪うございました」と答えるのです。こんな国が他にあるだろうか。日本人がお人よしと呼ばれる所以です。だが、わしはそんな日本人が大好きです。
 戦後の平和ボケの中で危機意識の欠如した島国日本はどうなってしまうのだろうか。国が亡びる時は内側から亡びると言われます。百田尚樹氏の『カエルの楽園』となってしまうのであろうか。わしはもう古稀を過ぎているので、そう長くは生きられないであろうが、いまの政治屋の現状を見ると暗澹たる気持ちになります。中共国のハニートラップにかかった政治屋が少なからずいる今の日本の政治状況では、押しつけ憲法の改正すらままならないのです。

 今日、憂国の士の筆頭には桜井よしこ女史がいるが、かつては三島由紀夫がいた。残念ながら、昭和45年に自衛隊員の前で演説をしたあとに割腹自殺してしまった。自らの美学に負けてしまったのであろうが、ほしいことをした。ペンは剣より強し、まだまだその文筆の才で世論を喚起することができたであろうに。
 人間が人間である以上、争いのない平和な時代はたとえ一時はあったとしても、長くは続くことはないし、核兵器と言う地球を滅ぼす兵器がある以上、スターウォーズスタートレックの時代がくるのか、それともターミネーターの時代がくるのか、いずれにしろそう遠くない時代にはそういうSFの世界になるのだろう。
 誰が言ったのかは忘れました。どっかの政治家だと思うが「国が何をしてくれるかではなく、自分が国のために何ができるのかを考えよう」と言った人がいる。なるほどそうかもしれん。そこでわしに出来ることを三日三晩考えた結果達した結論は、「鎮魂歌」たる江差追分を謳い上げることだと悟った。

 

趣味・趣向

 芸術とは何ぞやを知りたい向きには漱石草枕を読むことをお薦めする。特に、政治的プロパガンダを芸術だと称するやからには是非とも読んでもらいたいものだ。 
 《智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。 住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。》

《我らが能から享けるありがた味は下界の人情をよくそのままに写す手際から出てくるのではない。そのままの上へ芸術という着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき悠長な振舞をするからである。》


 《折りから、竈のうちが、ぱちぱちと鳴って、赤い火が颯と風を起して一尺あまり吹き出す。
軒端を見ると青い煙りが、突き当って崩れながらに、微かな痕をまだ板庇にからんでいる。》
一瞬のうちに、幼い頃の風景がまのあたりによみがえってくる。これが文学と言う芸術なのである。


 文学は大きく分けると、「純文学」と「大衆文学」にわけられる。
「純文学」とは一般に、読者の娯楽的興味に媚びるのではなく,作者の純粋な芸術意識によって書かれた文学というほどの意味であり、また学問のための文章でなく美的形成に重点を置いた文学作品とも定義される。表現の精緻さ美しさが求められるのが純文学です。
 それに対し、「大衆文学」は娯楽性が主な目的となります。推理小説、発想が大事なSFなどはほとんどが大衆文学に属します。
 ところがここにどちらにも属さない文学が存在します。すなわち、表現の精緻さ美しさがあり、なおかつ娯楽性がある文学です。それを人は「国民文学」と呼びます。その第一人者は吉川英治であります。氏の題材は江戸時代以前が多く、それなりに娯楽性も高いが、森鴎外にしろ芥川龍之介にしろ、近世以前を題材にした純文学者もいるわけで、時代物だから大衆文学だという決めつけは出来ないのであります。その時代その時代に生きた人間の生きざま、その本質を捉えているか、表現が活きているかどうかだと思うわけです。


 音楽については別にその芸術性について語るつもりはありません。そのような知識も見識も持ち合わせていないからであります。ただ、この世界にも純文学的な音楽と大衆文学的な音楽があるのもまた確かな事であります。純文学的な音楽とはいわゆるクラシック音楽で、大衆文学的な音楽とはジャズや民謡や歌謡曲などが当てはまりましょう。
 クラシックで言えば、わしも若い頃はご多聞に漏れずベートーベンやブラームスといったシリアスな曲が好みであったが、年とともにモーツアルトショパンに移ってきました。ある人が「死」とはなんぞやと問われて「モーツアルトが聴けなくなることだ」と答えたというが、同感である。この人がもっと長生きしたら、どれほどの名曲が生まれていたことかと考えると若くして亡くなったことは残念なことである。ショパンは、切れ味鋭くそれまでのピアノの音自体を譜面上で画期的に変えた人です。ピアノという楽器の性能が上がるにつれますます音に輝きが増してくる、そういう音を作り出した人でもあります。その「夜想曲集」は眠れない夜の必需品となっています。
 そういう耳からすると、いわゆる現代クラシックなるものは雑音にしかきこえない。テーマが見えないのです。まったく気持ちよくならないのであります。
 歌謡曲界の天才と言えば、美空ひばりです。音声が残されている明治大正時代以降これ以上の歌い手がいなかったところをみると、少なくとも100年に一人の天才であることは間違いない。いまだその七色の声を出せる歌い手は現れていません。もう一人わしの好きな歌手は大月みやこです。しっとりとした情感あふれる歌をなんともいえない間の取り方で歌い、わしを魅了します。

 多感な青年時代から、いわゆるなつかしのメロディが好きで、レコードを聴いたり口ずさんだりしました。歌手もそれぞれ個性があり、音楽学校出身者も多いせいか声の出し方も基礎が出来ている人がほとんどでした。ところが最近の歌い手ときたら、一部の演歌歌手などを除けばいやはや・・・・・・・・・・・これ以上は言えない


 絵画にしても同様に、わしが理解でき、芸術性を感じられるのは、写実派や自然派の絵画で、抽象画や現代アートなるものはほとんど理解する、あるいはいいなと感じられる頭脳は持ち合わせていない。そういう頭脳を持っている人からすれば、わしなどは侮蔑の対象となるやも知れぬが、何に価値を見出すかは人それぞれであろう。わからないものをやたらに有難がる風潮はいつの世にもあるものです。
 《住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも璆鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺縑なきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、──千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。》

初めての白内障手術

 わしは元々、いわゆる、ど近眼なのだが、それでもどうも最近急に右目の視力が落ちて来て、字が見づらくなったなと感じたので、医者に行って眼底検査をしたら、『網膜前膜』という病の症状だという。目の奥の網膜に前膜と言う膜があって、それは年とともに自然にはがれて行くんだが、なんかの拍子に残ってしまう人がいるという事だ。その膜が剥がれきれないで網膜を引っ張ってしまう症状の事らしい。
 これは手術でしか直しようがないということで、大きな病院を紹介してもらって手術をすることになったわけです。そこの医師に相談したところ、白内障が進んでいるのでまずはそちらをやってどの程度視力が回復するかを見て、そのうえで考えましょうというので、まずはリスクの少ない白内障の手術をすることにしました。両目を連続して行うということで、4日間入院することになった。一日おきに左右を行うので4日間必要なのである。
 手術は特段の障碍もなく15分程で終わった。翌日には眼帯がはずれたので、眼鏡をかけて見たら、なんとぼやけて全然見えないのである。もともとが、ど近眼だから眼鏡なしでいける程ではないが、かなり視力が回復したのは間違いない。こりゃ眼鏡を作り直さねばならんようだ。
 病室はできれば個室をと希望したがあいにく空きがなくて4人部屋である。いやな予感がしたが、案の定、隣人のいびきで眠れない。まいったなと思っていたら、タイミングよく病院側の都合で部屋替えがあって、別の四人部屋に移ることになったんだ。ところがラッキーと思ったのもつかの間、今度のジジイ達ときたら、馬並の屁の合唱はするは、いびきの合唱はするは、やたらにタンが喉につまってゲロゲロするはで、まさに地獄のような拷問の日々を過ごすことになってしまった。
 そうしたなかでも一つだけよかったと思えるのは、追分のイメージトレーニングが出来たことかな。人の唄を聴いているような感覚で自分の唄を分析できたのである。何年か前に追分セミナーで指導を受けたことを録音してあったのだが、それを聞きなおして軌道修正できたのである。でももう入院はこりごりだ。