信濃追分

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信濃追分(1972) - YouTube

 

 わしは今、健康を回復したら行ってみたいところが二個所あります。一つは神威岬の神威岩であり、今一つが信濃追分宿です。この二個所にはわしの目が黒いうちになんとか行ってみたいものです。神威岩はちと難度が高いが、信濃追分駅までならその気になれば二~三時間で行けると思う。写真では味わえない生の「分か去れ」を見てみたいものだ。

 

 そもそも「信濃追分」という曲名は何処から来たのでしょうか。
もともとは、信州追分宿の「追分節」です。この「追分節」の最も古い文献とされているのは、松井譲屋編『浮れ草』<国々田舎唄の部>文政五年(1822)追分節の項に記されている次の七首です。


♪ こゝろよくもておひわけ女郎衆、あさま山からおにがでる
♪ 一夜五両でもつまもちゃいやよ、つまのおもひがおそろしや
♪ さらし手ぬぐひちょいとかたへかけ、あくしょがよひのいきなもの
♪ あのやおひわけぬまやら田やら、ゆくもゆかれず一トあしも
♪ うすいたうげのごんげんさまよ、わしがためにはまもり神
♪ あさま山ではわしゃなけれども、むねにけむりがたえやせぬ
♪ おくりましょかよおくられましょかよ、せめてたうげの茶屋までも

 

 因みに、「小室節」の名称が出てくる最も古い文献といえば、『吉原はやり小唄総まくり』です。これは寛文二年(1662)版の草紙で、<万治二年(1659) 所々より吉原迄の駄賃付けの事>として、


一、日本橋より大門まで並み駄賃弐百文馬奴二人小室節うたふ かざり白馬駄賃
   三百四十八文


などと記されているので、およそ160年の開きがあるところから、「追分節」から「小室節」へと広まっていったというのは無理があろう。

 

 『小唄伝説集』藤澤衛彦 大正9年(1920)
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 今の信濃国北佐久郡長倉村大字追分は、昔、沓掛、軽井沢と並んで、浅間三宿と言われた追分宿で、中山道と北国街道との追分であったところ、その道を往還する人は誰でも、三宿を経ないわけにはいかなかった。俗謡追分節は、実にこの地方の民謡から起ったもので、信越線開通後は、軽井沢を除けば、ほとんど昔の面影をとどめなかったが、今も伝わる追分節の曲調は、たまたま駅路の鈴の音に、三宿の全盛時をしのぶ旅人の魂をゆさぶるものがあろう。


♪ 此処はどこだと馬子衆に問へば、こゝは信州中仙道
♪ 一に追分二に軽井沢、三に坂本まゝならぬ
♪ 碓氷峠のあの風車、誰を待つやらくるくると
♪ 小諸出て見りゃ浅間の嶽に、今朝も三筋のけむり立つ
♪ 小諸出抜けて松原行けば、いつも三筋の糸が立つ
等々
 これらは、世にいわゆる信濃追分、あるいは小諸節といわれるもので、人は馬方節と蔑むが、実際、追分はその名実ともに、この信濃追分、小諸節が根元なのだ。信濃追分、小諸節は、単なる馬仕節として見ても、全くこの上なく純粋なもので、節の、勾配の急なところに活気のある、悠々迫らず、それでいて、引締った、今めかしい匂いの少しもない、昔風にひなびた、まことに長閑か、馬の蹄の音のパカリパカリに調子のはまった、野の男性的絶唱である。
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 ここでは信濃追分と小諸節は同じものとして扱われている。これは松本幹一(晩翠)がとはずがたり大正6年(1917)で《追分節、小諸節は、共に信州の宿駅の名であり、この辺の馬子唄なのを、直江津、新潟等の北海廻りの船頭が覚えて、松前、函館、江差等へ伝えた云々》とあるところより引用したものか。

 

 また、柳田国男『民謡覚書』『廣遠野譚』(昭和15年)の中で信濃追分について次のように述べている。
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 今でこそ追分は遥かな海の曲となって、夕の欄干にもたれる者の歎きを連想させているけれども、最初は日本武尊が亡き妃をお慕いなされたという伝説のある国境の嶺を昇り降りする馬方の歌であった。現在の地名がその事実を証明するだけでなく、幾つかの古い章句が、なを麓の村里には行われている。 

 

   ♪ 碓氷峠のあの風車  たれを待つやらくるくると

 

というような詞は、今でも降りて来て山の深秘をほのめかそうとした者の、情緒を伝えているような感がある。それから又「碓氷峠の権現様は」といい、「西は追分東は関所」というなども、元の形ではないだろうが、とにかく近頃唄い始めた詞ではあるまいと私は思う。碓氷の西麓の世に聞こえた恋の驛路を、鳴輪の音もさわかに朝夕通り過ぎる馬方が、心まで歌になりきって永くこの古調を記憶していたのも、それが又旅人の情を動かして、千里の海の果てまでこの歌を携え還らせたのも、私には到底偶然な文化伝播とは考えることが出来ない。
 その道の人たちは何と説いているか知らぬが、江差松前へは交易の伸張に伴なって、徐々に南方から運ばれて行ったものと想像している。そうして広く果てしない海波に養われて次第にあの溜息のような長い節まはしが成長したのであろうが、もとはやはり馬の足音と鳴輪の響きとを合の手にした、もっと簡潔な進行曲であったろうかと思う。
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 その信州追分宿も、明治16年(1883)の新国道の開通、明治26年(1893)の信越線碓氷トンネルの開通の結果、すっかり寂れてしまって、多くの飯盛り女や馬子たちもちりぢりになっていったわけだが、それ以前に遊郭は明治22年(1889)に岩村田へ移転せざるをえなくなった。しかしその岩村田遊郭もうまくゆかず、大正13年(1924)には公娼制度廃止令が出されたこともあって、遊郭を閉鎖することになった。
 そこで、大正の末ごろに岩村田の矢ケ崎七之助らが「追分節」を復興しようと考え、旧南大井村御影新田(現小諸市御影)から、追分宿の永楽屋の「おさの」から唄を教わった博労の渡辺善吾を招いて「追分節」を習った。その復興時の様子は『正調信濃追分大正14年という小冊子が残されており、理念・経過が語られている。
 その冊子は手元にないが、幸い竹内勉の『追分節』に引用されているので、転載させてもらいます。
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 煙を噴く浅間ケ嶽をバックに毛槍立てた諸侯の上り下り、桝形の茶屋に遊女と名残りを惜しむ若い旅人、さては追分節のどかに駄馬曳く馬子の往来、さうしたシインは街道名所図絵の幾ページかを活躍させている。私はこれ等の古錦絵を見る度に追分駅栄華の跡をしのんで沁みじみとなつかしくなるのである。
 追分の駅は上信の国境に接する一小駅に過ぎないとはいえ、江戸から下る旅人に取っては碓氷の険峻を越へた無事を祝して杯を挙げる好適の宿となり、関西方面より上るものに取ってはあすの難関を控へてゆっくりと休んで英気を養う要衝となっていたのである。
 時には妓楼軒を並べて浅間の雪解を化粧水に玉の肌をみがく遊女が旅情を慰めて呉れた。そして嬉しいロマンスや悲しいロマンスの種を蒔いたのである。それにも増した名物には追分節の哀調に遊子の腸を断つ事であった。街道上下に威儀をつくろった大名行列さへもこの名吟には流石に歩みをとめる程であったという事だ。
 こんな風に維新後まで追分の宿は賑わいを極め追分節は珍重されたが、その後遊郭岩村田移転、鉄道の開通などゝ世はあはただしく変転して、さしもに栄華を極めた追分駅は全く衰微にし自然追分節も乱調となり漸く世に忘れられるに至った。今にしてこの正調の保存を図らなかったなら、あたら信濃の一名物も全滅の運命は免れないのである。
 ところがこの正調を真に伝るものは殆どなくなって仕舞った。ただわずかに渡辺善吾翁が80あまりの高齢をながら生存しているのは我々に取って不幸中の幸といわねばならない。翁はまだ青春の血の湧いている頃、当時の名妓として聞へた永楽屋のおさのから直伝を受けたこの道の達人で年令こそ高いが健康は若いものを凌ぎ、声音又若々しくその正調をしのぶに充分である。
 すなわち翁に頼んで岩村田の芸妓連へ伝習し、さらに藤間師に振付を頼み、追分ぶりをも完成させることができた。なを、今後益々信濃名物として遠く近くに普及をはかり郷土芸術の誇りとしたいと望んでやみません。この一小冊子を公にするのもその運動の一端に外なりません。
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 そして岩村田に移った芸妓の「すずめ」のちの簾田じょうが昭和28年(1953)の「NHKのど自慢」長野大会に出て優勝して以来、追分宿の「永楽屋系追分節」は簾田の唄で信濃追分として生き続けることになったのであります。 今日広く唄われている節まわしは、簾田じょうのものです。
 大正14年(1925)には、唄清香、三味線百合子・すずめで鷲印レコードに吹き込まれたが、「信濃追分」という曲名は、これまでのように単に「追分」ではどこの唄かわからんということで、「信濃」の地名が加えられたようである。
 この「おさの」は少女の頃より、追分宿の永楽屋に抱えられ、その系統が今日の信濃追分として残った。一方、油屋の「おのぶ」からは油屋の主人小川誠一郎が馬子唄調の追分節を伝授され、そこから「越後追分」、さらには「江差追分」へとつながっていったと思われます。

 

信濃追分
♪ 小諸出て見りゃ エー浅間の山にヨー(アア キッタホイ ホイー)
 今朝もエエ煙が 三筋立つ (行くよで来るよで 面影さすよだオオサ ドンドン)
♪ 浅間根腰の 焼野の原で 菖蒲咲くとは しおらしい
♪ 一に追分 二に軽井沢 三に坂本 ままならぬ
♪ 浅間山さん なぜ焼けしゃんす 裾に三宿 持ちながら
♪ 碓氷峠の 権現様は 主のためには 守り神
♪ 碓氷峠の 権現様は わしがためには 守り神
♪ 西は追分 東は関所 せめて峠の 茶屋までも
♪ 碓氷峠の あの風車 誰を待つやらくる(来る)くると
♪ あのや追分 沼やら田やら 行くに行かれず 一足も
♪ 送りましょうか 送られましょうか せめて桝形の 茶屋までも
♪ さらばと言う間に はや森の陰 かすかに見ゆるは菅の笠
♪ 色の道にも 追分あらば こんな迷いは せまいもの
♪(嫌な)追分 桝形の茶屋で ホロと泣いたが 忘らりょか
♪(嫌な)追分 油屋の掛け行灯にゃ 浮気ゃ御免と 書いちゃない
♪ 追分一丁二丁 三丁四丁 五丁ある宿で 中の三丁目が ままならぬ


(長ばやし)
♪三里の先から 足音するよだ オオサ ヨイヨイ
♪来たよで戸が鳴る 出てみりゃ風だよ オオサ ドン