歌詞考4(大島小島の~)
「大島小島のあい通る船は 江差通いかなつかしや」
この歌詞は今では、
「大島小島のあい通る船はヤンサノエー 江差通いかなつかしや 北山おろしで行く先ゃ曇るネー 面舵頼むよ船頭さん」
というふうに専ら『前唄』として唄われています。だが、古く前唄以前の古調の時代にあっては『本唄』としてのみ唄われていたのであって、わしの知る限りではこの歌詞は江差追分の中でも古い方に属すると思われる。
類似の歌詞に「大島小島は夫婦の島よ なぜに奥尻離れ島」
「大島小島の 鮑でさえも 蝦夷地離れぬ 心意気」
などというのがある。
「大島」は、渡島大島(おしまおおしま)、松前大島(まつまえおおしま)とも呼ばれ、松前町西方沖50kmの沖合いにある無人島。
「小島」は。渡島小島(おしまこじま)、松前小島(まつまえこじま)とも呼ばれ、松前町の西方沖約24km付近にある無人島。
天保14年(1844年)に島根県下で、船頭の山本嘉右衛門が、当時日本海沿いの
各地で唄われていた民謡の文句を書き留めたものの中に、『松前節』として、
「お志ま小島の間のる船は えさしのぼりかなつかしや」
を載せている。この歌詞の最古のものであろう。(参考文献:館 和夫『江差追分物語』p.137)
この歌詞が、愛媛県下の「舟追分」にも、
♪アー大島エ小島のヨー 間通るエー船はヨー 江差上りかヨー コラなつかしや
という風に残されているのをみると、船頭衆によって広く流布された歌詞であったのが
わかる。
明治19年発行の夜短坊大/選『粋の種本』の中に「おいわけ」として、
「大しま小しまをあやどるふねは餌さしがよいへなつかしや」
が見られるが、これも文献に現れた中では古いものの一つであろう。
明治25年発行の丸山亥子吉著、戯笑散人編『粋の自慢:博識天狗』の中に「追分節」として、
「大島小島をあやどる船は、江さし通いへなつかしや」とある。
明治26年発行の樋口正三郎編『粋の選挙、第2編』の中に「追分ぶし」として、
「大島小しまをあやどる舟は、餌さしがよいへなつかしや」とある。
明治26年発行の西村寅二郎著『音曲全書粋な浮世』の中に「追分唄 二上り」として、
「大島小島のあいとおる船は、ソイソイ江差がよいかなつかしやソイソイ」とある。
明治42年大阪で、越中の床松という人が『当世流行歌』なるものを著しているが、「お座敷小唄」の項目の中に、「追分節」として「お女郎高島及びはないが、せめて歌棄磯谷まで」と並んで、「大島小島のあやどる舟は、餌差通いやなつかしや、スイスイ 来たか長さん待ってたほい、、お前ひとりがカワイホイ」を載せている。
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「大島小島の あい取る船は 江差通いか なつかしや」
津軽の人間が唄ったものである。遥に白帆が見える―ーいっぱい風を孕んで威勢よく波を切って進んでゆくのだ。はて何処をさして行く船かと瞳を定めると、大島と小島との間をめがけてずんずん進む。あゝ、江差へ行くのだなと思う。と、追想は飛んで、去年稼ぎに渡航した時、浜小屋の夕暮れに買った、あの眼のくりくりと愛らしい、背も低いし髪もちぢれていたけれども、口元に何とも言えない愛嬌のあったあの女・・・来年も来て頂戴、て何遍も何遍も別れる時繰り返したっけ、あゝ今年もまだあの女はいるだろうか、それとも国へもう帰ったかしら、思えば江差の空が懐かしい、江差を指してゆくのかと思えばあの白帆の影がなつかしい。
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大正4年発行の稲葉一水編『尺八独習案内』の中に「追分節」として、
「大島小島のあい通る船は 江刺がよいかなづかしや」
大正4年発行の高野辰之『里謡集拾遺』の中に、
「大島小島のあい行く舟は 江差通いか懐かしや」とある。
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「大島小島の 合い通る船は 江差通いか なづしや」
沖ゆく白帆はどこへ行くのかと見ていたら、大島と小島の間(江差前面の島)を縫って進んで行った。疑いもなく江差通いの船だ、思えば去年江差へ出稼ぎに行った時、浜小屋で馴染みを重ねたあの女はまだいるであろうか、船の姿を見るにつけ江差が懐かしい。
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「なづしや」は上の例からすると単に「か」が抜けてしまったものであろう。
大正7年発行の分新栄家房子編『お稽古文庫第二編 新版お座敷唄』の中に「追分節」として、
「大島小島をあやどる舟は、餌差通いかなつかしや」とある。
大正8年発行の松乃家美登利編「大流行歌曲獨稽古」の中に「追分節」として、
「大島小島の間なる舟は 江差通いか懐しや」とある。
大正8年発行の河内春月・松尾乳秋共編『粋な小唄』の中に「追分節」として、
「アア大島小島をあやどるふねは江差通いか懐しや ホイ来たか長さん待ってたか、お前ばかりが可愛うてホイ朝起きなるかいナ」とある。
大正8年発行の横山雪堂『追分節物語』
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「大島小島の間通る船は 江差うけかよなつかしや」、福山を西に海上七里、日高の三峰をあらわして小島あり。北西十里、江良町の真西十三俚の波上、楕円形の死火山大島を見る。
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大正9年発行の村田弥六『純粋の江差追分節』
「大島小島の 間通る船は 江差うけかよ なつかしや」
大正9年発行の藤澤衛彦『小唄伝説集』
「大島小島のあい行く船は 江差通いか なつかしや」
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『大島小島の間通る船は…』福山港弁天島の西十三哩、二つとも小さな島で出稼ぎ漁夫が渡航するほかは今でも無人島のようなものだ。その大島と小島の間を、時折追分を流して漁船が通るが、じっと見ているとそれはいつも中場所から下場所行きの船で、江差へ指して下って行く。おゝ思い出すのはあの津花の浜小屋。俺の馴染んだ女は今頃どうして居るだろう、この鰊場の切り上げ時が来たなら一日も早くあやこと逢いたい、かの船を見るにつけても親切なあの妓が思い出されるという、漁師が江差の情人へ思いを走らした歌である。
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「大じま小じまの あいとるふねは 江さしうけかよ なつかしや」
昭和2年日本音曲全集刊行会発行の『俗曲全集』の中に「江差追分節」として
「大島小島の 間通る船は 江差通いか なつかしや」があり、
また前唄として「大島小島の間通る船は、ヤアサホノエー。江差通いよ なつかしやアー・・・」がある。
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「大島小島のあい通る船は 江差受けかよ なつかしや」
大島小島というのは江差から福山に行く海上にある離れ島だが、その間を縫って行く白帆は江差を出て南へ帰る船だろう、思えばこの春江差に来た時馴れ染めた船人は、今あの船で故郷へ帰るのか、ままになるなら逢って見たい、ああ懐かしい、という述懐である。
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昭和11年発行の石島鷗雅『哀艶切々追分節の変遷』『追分節の今昔』
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順風に帆を孕ました大小の貨物船はひきもきらず、あたかも七福神の宝船が続いたように、大島、小島の間の航路を通う情景には、海岸に立った可憐な乙女等がそぞろ待つ人恋しいままにほろりとして、
大島小島のあひ通る船は 江差通ひか懐かしや
と歌った程であります。
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昭和14年発行の三木如峰著『正調追分節』
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「大島小島の間通る船は 江差うけかよ なつかしや」
福山沖にある大島・小島の間を通うあの船はまさしく、江差港うけの船であろうが、懐かしいと、懐旧の情を表した意。
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昭和14年発行の高橋鞠太郎『追分の研究』
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「大島小島の間とる船は 江差通いかなつかしや」
大島小島は、福山港弁天島の沖合にあるもので、歌の文句を読んだだけでは、すぐ磯近いところに並んでいるようにも思えるが、まことは福山から十三哩もあり、島と島との間もかなり離れている。この「大島小島」の文句中、「間(あい)とる」というのが「間通る」と書かれ、唄い方も近頃はわざわざ「あいとおる」と五音にうたうようにしたり、五音では唄いにくいところから「あい行く」が正しかろうなどと、勝手に直して唄ったりする人がいるが、これはやはり「間(あい)とる」の四音で唄うことが本当であろう。
「とる」というのは船頭言葉にある。帆船が風の加減で直線コースを行けないで大きくカーブして行く、そういう場合に使われるもので、西をとろうとか、東をとろうとか、または江差をとろうとか、佐渡をとろうとか言う。「何々を目標にとる」というようなことから来たのであろうか、決して「通る」の略語ではないのである。
大島小島の「間とる」の場合は、大島と小島の間を目標にとって行くのであるから、「通る」ことに相違ないが、上のような訳で「通る」と言わずに「とる」と言った方が正しいと思う。唄の気持ちをよく味わってみるならば、、いっそうそれがハッキリと判る。つまり「間を通る船がなつかしい」というには、大島小島があまりに陸から遠く離れている。「間とる船」ならば、「間に向かって行く船」ともなるから、文句が自然で、すぐ沖合を行く船の白帆が眼にうかぶのである。「江差かよいか」を「江差うけかよ」と唄う人もいる。
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因みに平成11年江差追分会発行の『 風濤成歌』は「間通る船は」と「間とる船は」の両方を詞華集に載せている。
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「追分節」は別れの唄だという。男女の別離を唄った歌詞が多い。
「都々逸」もまた26文字で別離の情を唄うが、「追分節」と「都々逸」の違いがどこにあるかといえば、「都々逸」は多分に遊蕩的で脂粉の匂いがするが、「追分節」は野人的であり恋愛を歌っても必ず自然を背景としているのである。この「大島小島~」の唄からして、自然な情景の中に別れの哀情が感ぜられるではないか。それこそが「追分節」の神髄ではなかろうか。
「大島小島~」の歌詞のうち主だったものを列挙してみましたが、調べてみるまではこんなに様々な表現があるとは知りませんでした。それでも、ある程度カテゴリーに分類できそうです。
まず歌詞の前半部だが、明治の19年以降「あやどる船は」、が多くみられる。多分に引用の故か。「あやどる」とは一般的には「巧みにあやつる」というような意味だが、この場合は大島小島の間を船を巧みに操って進むという意か。
その後は「間通る」「間とる」が主流となる。「間通る」「間とる」については、高橋鞠太郎『追分の研究』が傾聴に値する。異色なところでは、高野辰之が『里謡集拾遺』で、また藤澤衛彦が『小唄伝説集』で、「あい行く舟は」をとりあげている。
後半部は、「江差通いかなつかしや」が主流だが、大正期から昭和の初めにかけて「江差受けかよなつかしや」も見られる。「江差うけ」とは江差をめざして船を走らすという意である。村田弥六、越中谷四三郎という大物がこの文句をとりあげている。