追分セミナーに参加

 追分セミナーには4回参加しました。

舞台であがる質なので度胸をつけるためと、江差の風に当たり、江差の匂いを嗅ぎ、江差の海を見たかったからです。鴎島から見る日本海は正に江差追分の海でした。

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 (江差町郷土資料館より)鴎島

 

  遠くから行くとなると4泊5日で、まあそれなりに費用はかかりますが、内容は十分お釣りが来ます。とにかく3日間朝から晩まで追分づけです。

同じ教室の中に10傑の常連の人とか熟年名人とかが入る時もありました。そんな時はまるで宝クジに当たったような気分になります。NHKの取材が入った時もあります。

最終日に格付審査と追分酒場があるのも魅力です。

特訓のお陰でありがたいことに4回のうち2回昇級させてもらいました。勝率五割です。再び追分を始める30年前に4級秀をいただいてますので、3級秀になりました。

とにかく、この追分セミナーというのは参加して初めて知りましたが素晴らしい企画ですな。なにしろ超一流の先生方が追分の極意を惜しげもなく教えてくれるわけですから。損得勘定抜きに正調江差追分そのものの発展のためにその神髄を薀蓄を傾けて伝えようという熱意が伝わってきます。

 

 指導者は大体が自分の教えた唄が崩されるのが嫌で、他の指導者に教わることを嫌うものですが、セミナーの講師が苦労するのもそこにあるようです。

”そうおっしゃいますけど、うちの先生はこう言ってますけどどうなんでしょう”という生徒が必ずといっていいほど1~2人はいます。また、自分の支部に戻って、”セミナーではそこの所はこう唄いなさいと言われたんですが”と言って困らせる人がいるように聞いています。

 そもそもはそういう問を発することが間違ってますな。

昔と違って今は新地派とか詰木石派とかに分かれてそれぞれが自分たちの唄い方が正しいんだと言っているような時代ではなく、正調江差追分として統一されているわけですから、各指導者も「基本譜」に基づいて指導しているわけで、多少の表現の違いは人間に個性がある以上止むをえないんじゃないでしょうか。

 要は、表現の違いをいかに自分の中に取り入れるか、消化するかということでしょう。表現の違いのどちらを取ったらいいのかというような場合には自分がどちらが唄いやすいか、合っているかで判断すればよいことです。指導者にしても、どちらにしたらよいでしょうか、と聞かれても私のいうように唄えば間違いないと言うしかないじゃないですかね^^。自分の中で消化できる人はできるだけ多くの指導者に指導を仰ぐべきだと思います。昔で言えば武者修行ってやつですな。ただし、基礎のできていない初心の人はあまりいろいろな人に指導を仰ぐのはやめたほうがよいでしょう。

わしなどはセミナーの講師が変わるたびに目から鱗を体験しました。

 ぜひ自分が自分の唄に感動する唄い方を会得して、江差追分を楽しんでください。 

 もしまだ参加されたことがないというのであれば、一度参加してみることをお薦めします。20回参加すると、表彰してくれます。

 

 

 

 

追分再始動

 追分会を脱会して30年、定年後に再び入会して思ったことは、なんとしても続けておけばよかったな~という後悔の念であります。いくらでも出た声はすっかりしゃがれ、息もたえだえの唄になっているのに愕然としました。なんせ3年じゃなく30年のブランクだからね~、こりゃサビ落としから始めねばならないなと覚悟を決めました。

 それから5年、喉を鍛えると同時に体力も鍛えなおそうと努めて、幸いにして2年目から3年連続して関東の予選に通過し、全国大会に出ることが出来ました。

 わしは所属しているのは江差追分会のみで、日本民謡や郷土民謡等のいわゆる一般民謡の団体には入っていません。30有余年前は3年ほど一般民謡の団体に所属していましたが、それでも唄は江差追分一本でした。その頃は若くもありコンクールで良い成績をあげることが目標のようになっていて、時間で5節で止められても別に気にもしなかったですが、いまでは江差追分という唄そのものに惚れているので、途中で歌を切られるのは我慢がならなくなりました。

 自分が感動し、聴く人にも感動してもらえる、そんな追分を目指して今後も精進していきたい。

 

基本譜

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 現在用いられている「基本譜」(波状譜)は、江差追分会師匠会の承認を経て、昭和49年(1974)に制定されました。

 わしは「波状譜」の歴史は大きく3つに分けられると思っている。

最初は下の図に見られるような明治から大正にかけてのものである。

 

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 これは、明治二十年代までの古調追分を脱し、その後の明治四十年代の正調追分節と言われた時代に使われた譜面であり、いわゆる八つの節が決められる以前の図譜であります。

 これについて石島鷗雅は追分節の今昔』の中で次のように述べています。
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 この波状音譜はドレミハ又は『オタマジャクシ』の西洋音譜に比較すれば真に幼稚な図示式のものであるが、これは江差町の人で四十物久次郎及び阿部鷗江(当時余市町に居住)の二氏等多年の苦心の結果の創始によるものであり、その後一般に流行するようになってからは、この音譜を模倣してそれぞれの先輩等が各自の創意を加え、多少の差異あるものを作って習得者の便に供したものである。 

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 平野源三郎派家元の三木如峰によれば「明治44年、追分師匠平野源三郎が正調江差追分の標準音譜を編み出した」となっておりますが、現在残されている古いものは上の大正9年村田弥六氏の「村田式図式音譜」等であります。三木如峰作譜の譜面が平野源三郎の編み出した標準音譜を模したものかは不明です。

では、このような波状譜がどこから来たかについて、北海道教育大学の野村公氏が昭和42年8月『江差追分の楽譜についての考察』の中で、 

江差追分も、口承という方式によって伝承されてきたのであるが、それを担った人たちは、やはり江差追分を譜面に書きとどめようと努力したのである。その現われが今日に残された図譜である。図譜は中世歌謡の神楽歌・催馬楽等の記譜法をとったものと考えられる。》

という仮説を立てているのは中々に興味深い。

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催馬楽「席田」の初節) 

 

 二つ目は、戦後の全国大会優勝者などがそれぞれに開いた追分道場などで使用された「波状譜」です。これは「基本譜」に近いものの、細かいところで道場主の個性が現れたものでありました。

 三つ目が冒頭に挙げた今日使われている「基本譜」です。

 

  基本譜のことを兎角に言う人がいるようですが、わしは波を表現した素晴らしい芸術品だと思っている。

特に「のし」の表現などは見事です。「せつど」と「せつど」の間にある「のし」は「押すのし」であり、「すくり」の後に来る「のし」は「引くのし」であるというようなことは、一体五線譜(楽譜)で表現できるものでしょうか。

 江差追分は楽譜(五線譜)には表しようのない唄の一つだと思います。楽譜では江差追分のイメージがそもそも湧いてきません。基本譜には単なる音の連続以上の、連綿と続いてきた江差人の魂が込められているような一種ロマンが感じられます。

 確かに楽譜は多少の解釈の違いはあっても、誰でもがその通りに演奏すれば曲になり、歌になります。江差追分も一応採譜して楽譜にすることはできますが、江差追分の奥深さはとても表現できません。

 基本譜はそのままでは唄えず、口移しの助けがなければ演唱できませんが、教える方も教わる方も江差追分のイメージがほうふつとしてくる譜面だと思いませんか。

 

 上でこの基本譜を兎角に言う人がいると言いましたが、その言わんとするところは基本譜そのものよりもむしろ、保存を重視するあまり画一的で、規則でがんじがらめにしているということを言いたいのでしょう。でもそれは「保存」の宿命とも言えるかもしれないのです。

 

 古来、芸事に限らず「型より入りて型より出づる」と言われてきました。

これについては狂言師野村万作氏の『太郎冠者を生きる』が面白い。

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 謡にしても、狂言のことばにしても、口うつしで一句一句教えられる。もちろん正座で一対一で先生と向かい合い、先生が子供と同じような高い、大きな声で発声すると、それを口真似してゆく。こうして弟子は、正しい姿勢での正座、大きな明晰な発声、正確な息つぎを強調されて少しずつ覚えてゆくのである。
 子供の時から教わってきた芸は型通りの枠にはめこまれたものだったが、その師が舞台で演じる芸はそれとは違うもので、「教える芸」と「演じる芸」との差違が感じられたのである。
 私は、父に教わったとおりのつもりで、右手をさした。ところが本番を見ると、父はその場面で左手をさしているではないか。手をさすなどは些細な、それほど大事なことではないかもしれないが、私が父から教わったことを正しいと思って踏襲しても、かんじんの師が違う演技をする。父は非常に自由なところがあり、晩年になればなるほど、われわれに教えたことと違うことをやり出した。
 そんな姿を見ていると、年齢によって狂言の演じ方はずいぶん動くものだということを見せられた気がする。カチッとしたことをやる時期もあるだろうし、だんだんそういうものから解きほぐされて、自由に、思うようにやる時代もあるのだろう。
「型より入りて型より出づる」ということ。これは伝統的で非常に合理的な方法である。初心者のときは、師匠に教えられるまま型に入っていけば、大きな失敗はしない。そうして経験を積み、芸の全体になじんできたとき、自分の持ち味を盛り込んで、決められた型から抜け出していく。
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 正調江差追分の場合は基本譜が制定された時から、自由度というものは極めて限定的になって型から抜け出すわけにはいかなくなりました。
それでも、全国大会でも最初のころの名人の唄をテープで聴くと、けっこう自由に唄っていたように思います。また審査員の方にもそれを許容するものがあったんでしょうな。例えば、「止め」にしても6個7個で止めても名人になれたし、ブッツリ止めといって2つくらいで止めても名人になれました。つまり全体の流れがよければ、細部にはこだわらないという風潮があったわけですが、今ではどうでしょうか。私の見るところ随分と厳格になってきているように感じます。何か個性というものが薄れて、画一的な追分になってきているなと感じるのは私だけでしょうか。
聴衆が求めているのは魂が湧き立つゾクゾクとくる追分です。型の中にあっても個性で聴衆を感動させるような唄い方が今後は求められていくことでしょう。
 
 後藤桃水はすでに昭和29年の時点で述べています。
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 現今優秀な唄い手が極めて少なくなったということは、先輩達のような真剣な研究を欠き、いわゆる教科書用の追分型に頼りすぎるからである。型もむろん必要です。しかし、型のみ唄っていたのでは終に追分のロボットが出来上るだけです。型をはなれて型を唄い、個性を芸術的に打ち込んでその唄に生命を与えるというところまで唄わなければならないのです。
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江差追分事始め

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 わしが最初に江差追分を耳にしたのは(その時はその唄が江差追分であることすら知らなかったわけだが)20代後半で、一時的に埼玉に住んでいた時です。

大学が埼玉にあって、卒業後もなすことなくアルバイトをしていた時期です。

 そのアルバイト先の近くに料理屋があって、初めて入った時に民謡が流れていたんですが、その中にズンと心に響く唄があって、料理屋の主人に聞いたら江差追分だという。それが私と江差追分の出会いです。

 その後もその唄を聴きたくてそこに通って、主人とは大分なじみになり、そのうちテープを買って聴くようになりました。

それで料理屋で聴いたのが初代浜田喜一氏だと分かった次第です。その当時は浜田喜一と佐々木基晴のテープが一般的に流布されていました。テープがそれこそ擦りきれるくらいに聴いたですね。真似て唄ったりもしましたが音程が狂ったりで散々でした。

 話の中でその主人はかつて函館に住んでいたんですが、家の前で作業をしながらいつも追分の同じ個所を何度も何度も繰り返し唄っている人がいて、それが佐々木基晴さんでしたと語ってくれました。

 そうこうするうちにアルバイト先で民謡を習っている人が先生を紹介してあげようかというので、近くの民謡の先生を紹介してもらうことにしました。

 その先生は女性でしたが、テレビに出演したりするようなかなり民謡界では有名な先生でしたが、当時はわしも怖いもの知らずというか、いきなり”江差追分を教えてくれませんか”とやっちゃったんですな。そうしたら、一瞬あきれたような顔をした先生は諭すようにこうおっしゃったんです。”あなたね~、最初から追分をやると肺を壊すからやめなさい”と言われて、なるほどそれもそうかなと思って、ソーラン節から始めることにしました。一年の間にソーラン節と酒屋唄と網のし唄を習いましたね。

 丁度一年がたった頃に、民謡のせいなのかは分かりませんが肺を壊しまして実家に帰ることを余儀なくされました。 

 実家に帰って病が癒えた後、いわゆる就活で追分からは暫く遠ざかっていたんですが、ようやく仕事も決まり生活の基盤が出来上がりました。

 当時は民謡ブームの真っ最中で、あちこちに民謡酒場があって、よく仕事がえりに行ったものです。ある時、民謡酒場で知人と飲んでいた時に、プロ歌手の芳村君男氏も来ていて、話をしていく中で追分を得意にしていると聞いたので、ずうずうしくも掛け合いを所望しまして、それでも嫌な顔一つしないで応じてくれました。さすがに上手いなと思いましたね。芳村氏の唄い方はいわゆる正調の唄い方ではなかったのですが、その頃は江差追分に正調があることは知らなかったので、とにかく教室に通わせてもらうことになりました。

 芳村先生の歌は正調ではないので、当然江差追分会には加入していませんで、郷土民謡に所属しておりました。私もその郷土民謡の大会に何度か出させてもらってトロフィーもいくつか貰う事が出来ました。唄は当然追分です。年は三十位でしたので、今と違ってとにかく声は気持ちよいくらいによくでました。

 芳村先生のところには三年ほどお世話になりましたが、嬉しいことと残念なことが一つづつありました。嬉しいことは、武道館での郷土民謡関東大会の年令別で優勝したことです。昭和56年5月のことです。その時の優勝トロフィーは娘が出来た時にオモチャにされ、土台しか残っておりませんww。残念なことは、県大会で予選、準々決勝、準決勝を通過し決勝20名の中に残ったのはいいが、仕事の都合でどうしても出場できなかったことです。出場できなかったことよりも先生を失望させたことが心残りでした。 

 芳村先生は初代浜田喜一の名取でもありましたが、民謡研究家の竹内勉のところにも通っていて、どうもそこで「せつど」のない追分を薦められたようで、その唄い方を得意にしておられました。

 そのことは、竹内氏は著書『民謡地図』③167頁でこう言っています。

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 それともう一つ、昭和五十年代はじめ、我が家に初代浜田喜一の弟子で、「江差追分」を唄う男などが集まって、「江差追分」の勉強会を開いている折り、菊地淡水も尺八を持って加わってくれたことがある。その時の言葉は、

 「ここは型にとらわれないからいい。それで唄い込めば充分」

と、江差で愛用している「『江差追分』波状曲譜」を否定して帰っていった。私はこれで賛成者が二人になったと喜んだことを覚えている。

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 つまり、竹内氏は「基本譜」否定論者の一人でもあったわけだが、竹内氏のいう江差追分の姿というものは一体どんなもんだったんだろうか。

 

 わしも一度何かの機会に芳村先生に紹介されてお会いしたことがあります。”竹内先生の『追分節』という本読ませていただきました”と言ったところ、”あんなものはゴミ箱にでも捨てておいてください”なんて言うものだからちょっとシニカルな人だな~という印象をもちましたね。さらに芳村先生が”この人はなかなか追分がうまいので今度機会があったら聞いてみてください”と言ってくれたんですが、”あ、そ”で終わってしまいガクっときましたね。

 

 ある日わしが生意気にも、『先生の唄は「せつど」がありませんね』といったら、芳村先生非難されたと思ったのか、『僕ぁ、この間本場の江差の舞台で唄ってきたが、大いに好評を博したぜ』とおっしゃるものだから、そいつはどうも恐れ入りました、と答えたのを覚えています。私が三十代初めころの話です。

 芳村先生はプロ歌手なわけなので、竹内氏の影響もあり「正調江差追分」の唄い方に満足がいかなかったものと思います。とはいえ普通なら生徒に、自分と同じように唄いなさい、というのが当たり前なところを、「せつど」を入れて唄ってもとがめだてをしない懐の広い先生でした。 

 そうこうするうちに、全国大会に出たいという欲が出まして、わしの家から一番近い支部を事務局に確認したところ品川に支部(今は無くなっています)が一つありますとのことなので早速入会しました。本格的に追分を始めて四年目のことです。

 当時は地方予選のない時代でしたので、支部推薦で全国大会に出場できたんですが、どういうわけかいきなり出場させてもらえました。昭和58年の第21回大会です。

 

いまはまるでコンサート会場のように皆さん上品に聴いていますけど、そのころの会場の印象はとにかく騒がしかったですね。唄ってる間もガサガサ袋を開けて煎餅はかじるは、隣の人と唄の批評はするはで、とにかく騒々しかった。でもそれがまた関東から来たわしなどから見てもごく自然な感じで、江差追分とはこういう中で唄うもんなんだと思いましたね。

ところが、これはうまいという歌い手が出ると会場が水を打ったようにし~んとなるから面白い。まさに歌い手と聞き手が一体となっている感じがしたね。

そうこうするうち、いよいよわしの唄う番がまわってきたんだが、関東の見たこともないやつが出たなぐらいに思われたか残念ながら、し~ん、とはならなかったようだ。ところが、一節を無事唄い終わりやれやれと思って、二節を唄い終わったところで前列の方から、なんと うまい!、という声がかかったんだ。これですっかり舞い上がってしまったのか、見事に五節でこけてしまいました。

でもまあ初出場にしては上々の出来じゃなかったかな。

 

本番前には格付審査も初めて受けまして、4級秀をいただきました。

翌年の第22回大会にも出場させてもらいましたが、この時も五節でこけました。

 

その後、所帯を持ったり、仕事が忙しくなったりで追分に対する情熱が急速に冷めてしまい、追分会を脱会してしまいました。再び追分にとりつかれたのは三十年経った定年退職後のことです。それからの経緯はまたの機会に。

 

                                 

 

正調江差追分の唄い方2

 ここでは江差追分会師匠会の「江差追分のうたい方」を参考に、八つの基本の節についておさらいしておきましょう。これらの節は「七節七声」とともに正調江差追分のまさに正調の正調たる所以であります。

 なお、基本譜等の図は、リンクをはっておきます。

  http://esashi-oiwake.com/utaikata

       http://esashi-oiwake.com/1_7setu

 

                          ※は追分会の注釈

       *はわしの注釈

「出だし」

 七節までの声の高さや調子をきめるたいせつな基礎をなす節である。

ソイの調子に合わせて「カモー」と下からうえに向かって素早く入り、ほんの少し「間」をおいて「メ」にはいる。

 *「出止め」というように古来より「出だし」と「止め」が大切だと言われており、この「出だし」でほぼ唄全体の出来が決まるといっても過言ではない。また聴く人がゾクゾクッとくるような出だしでなければいけません。名人という名の付く人は皆この出だしが美しいです。この「出だし」の肝は下からうえに向かってというところで、

上っ調子に出てはいけないという事です。丁度、腸を絞るように声を飲んで、哀情をもって 唄い出すところに無限の味わいがあります。

 

「せつど」 

 追分の「節目」をなす重要なものであり唄全体の流れをひきしめるとともに「止め」まで息を続かせる役目を果たす節である。

  

 *「せつど」が「止め」まで息を続かせる役目を果たすというのは注釈が必要かもしれない。

すなはち「せつど」で息を整えるという意味なのかどうかである。現に「せつど」で息を吸っていますと主張する人もいるので、一概に否定できるものではないが、わし自身は「せつど」で息が吸えているという感覚はないし、名人といわれる人でも年を取って息が続かなくなっている人が多いという現状を見ると、「せつど」で息が吸えてるわけでもなさそうである。

もっとも、「七節七声」の大原則からすれば、途中で息を吸うのは正調江差追分ではなくなるわけで、単なる江差追分になってしまうのである。

たとえ審査員の耳をすり抜ける程に巧みであっても、邪道の誹りはまぬかれまい。

 三浦為七郎のように、また最近では芳村君男のように「せつど」のない唄い方でも立派に「止め」まで息は続いているわけで、「せつど」が「止め」まで息を続かせる役目を果たすという意味がどのへんにあるのか、わしには不明であります。

この「せつど」は極端な言い方をすれば、いくら強くてもよい、ここが弱いと、ああこの人は「せつど」が弱いね、と評価されコンクールの点数に大きく響くと言う審査員もいるくらいである。

因みに、アフリカのさる部族では息を吸いながら話ができるそうだ。ちと真似はできそうもないがね。

 

「二声あげ(のし)」

 追分の情緒を出すための重要な節である。

「メ」から即「エッ」と節度をはね、腹に力をいれて声を前に出す。(波のうねりの如くのす)そして、寄せ来る波が引く感じを出しながら節度に入る。

 ※のす(押すように声を出す)

 *「七節七声、二声あげ」と古来より言われているように、追分のツボであり、深みのある情緒を出すために核となる節である。押し気味に、すくい上げるように唄うものである。

 

「もみ」 

 全体の声調を保ち、唄の「優しさ」を表す節である。

「引き声」で入り、のどの力を緩めながら「エェ」「エェ」「エェ」と三つもんで、四つ目の音を(すくりに入る前のエー)を引き声を使って引き上げながら、間をもって「すくり」に入る。

 *いわゆる「突きもみ」にならないように気を付ける。ギターのトレモロと同様少しく修練を要する。

 

「本すくり」

 唄全体の要である。

「間」をもって引き上げられてきた「エー」をそのまま上に向けて「エェッ」と反転させ「のし」ながら引き声に入る。

 *中には数年でマスターできる人もいるが、多くの人が20年30年苦労に苦労を重ねてもマスターできずにいる人がいるのが現状で、それほどに難解な節である。

教える方も、ハエたたきの要領だとか、トンカチでくぎを打つ要領だとか、その他様々

な表現で、教えるのに苦労しているようである。師匠から口移しで教えてもらうか、

CDとかで色々な名人の唄を何百何千回とひたすら聞いて会得する他ない。

「間」をもって引き上げられてきた・・・という部分はちと分かりにくいかもしれないが、わしは要は「もみ」から「すくり」に移るときに、「引き声」を入れなさいという意味だと解釈している(尤もその「引き声」自体が「すくり」の一部を形成しているわけだが)。「引き声」を使わないといわゆる「ねじり」という現象が出て、ああ、この人は「すくり」をねじってるねと言われることになるわけです。

 

 

「すくい」

 「節度」と同様に追分の節目をなす重要な節である。

引き上げられた「エェッ」を瞬時に弾ませながら「二声上げ」に入る。

 *波が岩に当たって返るイメージ、下からすくい上げる感じで唄うとよいでしょう。

 

「半すくり」 

 「本すくり」に似ているが、低い方へ導くための節である。

「間」をもって引き上げられてきた「オー」を「オォッ」と声を下げ、反転させ「のし」ながら引き声に入る。

 *「本すくり」と「半すくり」の区別は基本譜を見れば一目瞭然だが、意識せずとも唄い分けられるようにならねばならない。「本すくり」が陽とすれば、この「半すくり」は陰といえるが、個性が出やすい節である。

 

「止め」

 出だしと同様大事な節で、唄全体を引き締める。

「止め」に入る前の「二声」の二つ目の「もみ」を心持もち上げてから「止め」に入る。「止め」は残された息を腹に力を入れて「オォ」「オォ」「オォ」「オォ」と四つではっきり止める。

 *各節の最後の踏ん張りどころである。どうしても息が苦しくなるので尻切れたり、流れたりしがちになるが、ここを力強く止められるかが追分の出来を左右するのである。二つ目の「もみ」を心持もち上げてからというところが肝である。

 

 

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江差昔の街並み)


以上を踏まえて、さらなる情緒情感はいったいどのようにすれば出せるのであろうか。

 ここから先は、初級、中級を脱した人向けの内容となろうか。
初級、中級を脱した人とは、基本となる八つの節・・・出だし、せつど、二声上げ(のし)、もみ、本すくり、すくい、半すくり、止め、をマスターした人のことですが、この基本をマスターすること自体並大抵ではないのは周知のことであります。
 江差追分でいうところの情緒を出すには、ひたすら練習稽古するしかないと言う人もいるようだが、それでは答えになっていない。
なるほど基本をマスターした後はひたすら唄い込んで、自然と情緒が感じられるような追分にするというのが理想だが、問題はどう練習稽古したらいいのかということだろう。
 情緒を出すためには何と言っても押し引き、緩急、メリハリが大切であります。

まず押し引きだが、
 「のし」には押すのし引くのしの二種類があって、押すのしの方は「二声上げ」と
いって、各句の後半の節々にあたる母音をのばす部分を押しぎみに、あるいはすくい上げるように唄う節のことであります。
 ある師匠の少し前の譜面などを見ると、ここは「二声おし」となっていて、押すのしであることを強調しておりますが、今は「二声上げ」が統一した言い方になっております。
 この「二声上げ」は基本譜では太い波形で描かれているところですが、実に巧妙に描かれているなと感じ入りました。しかも、この押し引きには一種の法則があります。
押すのし(二声上げ)は「せつど」と「せつど」の間にあり、また、引くのしは「すくり」の後にきます。
 このことはいままでこれについて書かれたものを見たり聞きしたことはないので、あまり意識されていないのかもしれない。
波は押したら、引くのが自然の理でしょう。

次に緩急とは、
読んで字のごとく遅かったり速かったりということだが、例えば、波のうねりを表すノシはゆったりと、「もみ」は速く唄うというようなことであります。ノシをゆったり、「もみ」もゆったりでは歌がだれてしまって情緒が出ません。

最後にメリハリとは
尺八用語のメリ、カリからきているように高低強弱をつけて緩めたり、張り上げたりすることであります。例えば、三節六節は海底に引き込まれる感じで唄い、五節は熱情ほとばしって血を吐く思いで唄うというようなところに何とも言えない情緒が表れるわけです。
 要はこういうことが無意識のうちにできるように修練を積みましょう。

 最後に、「声の質」について話してみましょう。

 基本通りに唄っていて、唄い慣れてはいるが、どうも聞いてて面白くない、味がないという人がいます。反対に、経験は浅いようだが何となく唄に味があるという人もいます。この「声の質」は持って生まれたものであり、上記三つと違って努力でなんとかなるものではありませんが、唄の優劣を決める際には決定的な要素になりえます。

 

                                 

 

 

 

正調江差追分の唄い方1

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江差屏風)

 

 土地の古老によれば追分は「人柄を聴くもの、一生が修行」だと言う。では人柄を聴くとはいかなることか。

人にはもってうまれた能力なり性格というものがある。身体の丈夫な人、虚弱な人、声の大きい人、小さい人、舞台であがる人、あがらない人、気の強い人、弱い人、まさに十人十色、千差万別である。もちろん努力によって差を縮めることは可能だが程度問題である。能力は能力で大事だが、その人に備わっている、自然に感じ取られる性格や品格に比べれば大した問題ではないのではなかろうか。

人柄という言葉は悪い意味では使わない、「人柄がいい」とか「立派な人柄だ」という風に使う。つまり、人柄が表れるような追分を唄いなさい、それにはもうこれでいいという終点はないんだよといっているのであろう。

かつて追分セミナーに参加した時、小笠原次郎上席師匠の教室で指導を受けたことがあるが、そこで氏がいうには、どんな名人でもこの人は言うことがないという人は一人もいない。自分もいまもって納得のいく追分が唄えていない、ということを聞いて、これほどの人でもそうなのかと驚いたことがあった。かほどに奥が深い唄なんだな~とあらためて感じ入ったしだいである。 

 

 江差追分は古来実にさまざまに表現をされている。そのいくつかを挙げるならば 

《鎮魂歌》

 

《心沸き立つ魂の唄》(江差追分会)

 

《悲痛人のはらわたを断つその曲調》(河合裸石)

 

《北海の荒波に調和する激越悲壮な曲》(々) 

 

《哀婉凄愴な調べの下に、人をして袖を絞らしめなければ止まぬ曲節》(高野辰之)

 

 《曲の凄艶、調の哀傷は言わずもあれ、幽婉なる節廻し、纏綿の情緒、聴く者誰か、紛糾極まりなき憂世の煩患をも忘れて、断腸の泪に咽ばずには居られようか》(森野小桃)

 

《想うに此の一篇は純呼たる哀謡である。調の悲痛、曲の哀憐、纏綿の想――、縷々悉きざる万斛の涙が、其の背面に横溢して居る》(々)

 

《其の詞、簡なりといえども、出妙深意、其の一端を引起せば、以て無窮の情あるを思わしむるに非ずや。而して況んや之に和するに三絃を以てす。唄高ければ則ち絃随て高く、歌低ければ則ち絃随て低し。宛転たる曲節、切々そうそう、恨むが如く訴うるが如し。真情の誠実なる所、感動誰かしょうしょう(=落涙)せざる者有らんや。》『空語集』(松本十郎

 

 《江差松前追分節は、その微妙な抑揚に、韻々たる余韻に、哀艶極まりなき歌の調律の、その底に深く流れる一種の蝦夷趣味が味われ、且又言語に言い尽せぬ懐古的情緒に浸り、遠き昔の深刻な劇的場面を髣髴たらしめるものがあります。

 蓋し凄愴哀艶限りなき江差松前追分節の音調は、人界を離れた北海の昔、衰運をかこつ敗民族と、愛欲を阻まれた若き血潮に燃ゆる人々との、天に地に慨き訴うる絶えざる忍び音であって、荒涼たる荒磯に囁く感傷的な波動から生まれたものであります。》(石島鷗雅) 

 

《 明日の命もはかられない船子どもが、一夜の情に酔いしれて、想憐の女が唄う哀愁の籠った

  忍路高島およびもないがせめて歌棄磯谷まで

 

の唄に後朝(きぬぎぬ)の別離を惜しんだものであった。

 漂泊の子は心なき身にも哀愁を覚える黄昏頃、その悔恨の情は涙となって==沖をながめてほろりと涙==の唄のような悲痛な旋律、感傷的な気分は、深刻に心の底に食い入って、幽遠な情調に、心ゆくまで泣かされるのであった。

 秋の空のような澄み切った声で、この哀愁のこもる追分を歌うのを耳にしたならば、どんな歓楽の巷も一変して、䔥條たる晩秋の野を思わせる様な気分が占有してしまうほどに、追分は、情に育まれる人々を虜にしてしまうほど不思議な、謎のような、ある力をもっているこれが追分の生命と言っても好かろうと思う。》(越中谷四三郎他)

 

 

 《今の世に歌詞と声容と共に相たぐいて一喉鬼神を泣かしめ、二謡断腸の想あらしむるの歌は吾が江差追分をさしおきて他に求むるを得べきか、夕陽の奥尻島に没して水とりねぐらをいそぎ、帰帆鷗島にさしかかるころ切れんとして切れず、止まらんとして止まらず、静かに平鏡の海を渡り来る追分の声きけば、実に身も魂も恍惚として天外にあるが如き心地す。》(藤枝夷山)

 

 

《私は、唄を唄う人は、母音の「ア」の音色が美しく作れる人は「名人」。「ア」と「オ」の双方が作れる人は「天才」と思っている。しかも「江差追分」は、酒・鷗・船乗り・男女の別れがそろった、演歌の要素をすべて揃えた、我が国最高の演歌とも言える。加えて、唄の節というものは、落としてくる個所で「哀れさ」「せつなさ」を「表現する。》(竹内勉)

 

 

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(明治中期から後期の鴎島ー関川家写真)

 ではその江差追分はどのように表現し、どのように唄ったらよいのでしょうか。
まずは、昔の人々の声に耳を傾けてみましょう。

追分節は遣る瀬なき断腸の想いを泣きて唄い、涙の声なれば、きわめて悲哀に、かつ滑らかにして、而してその調子の高低と旋律の多寡に意を用い、静かに唄うべし。》(石沢涛舟)



江差追分を唄うときは、まず姿勢を正し、くちを大きく開いて発音に注意しながら唄うことが大切です。高いところほどやわらかく、つぎの音に移るまでは先の語尾の母音をはっきりうたわなければなりません。頑張るとあごに力が入って文句がわからなくなり、またゴロをつけすぎると下品になります。なお、七節ある追分の各節の前段は早めに、後段はおそく唄うこともこの唄の秘訣のひとつです。》   (初代近江八声)



追分節は七節七声に歌うべきが、正調であり、二分二十秒から二分三十秒で歌うのが正調追分として最も完全なるもの、正しき哀調として何人にも良く聞こえるものである。又各自声量の関係から、自然二三秒の差はあるものの、其の長短は耳障りとはならぬものである。
 追分の最も生命とする感情を七節に分け波の意味を以て現わすと、
第一節は大波の上より次第に海底に沈む思いを含み、第二節は沈んだ思いから次第に浮き上がる感じを持ち、第三節はその浮き上がった思いより逆に海底に引き込まれるが如き感じをもち、第四節は三節より悲哀の調子に至り、第五節は本曲の最も骨子となるべきところで熱情迸り真に血を吐く思いという感じを出し、第六節は三節の海底へ引き込まるる心地と同じく、第七節は四節の悲哀の情調をもって歌い終わるのである。》(石崎濤舟)



《波のうねりから生まれた江差追分
波返し・・・蓬莱波と呼ばれる大波が岩に当たって返るところを表現した節。
磯波・・・・江差追分の真の面目ともいうべき、荒波の大波小波によそえた節。
・・・・・浦のように凪いだ海の面を船が滑っていくように穏やかに唄う節。》

(村田弥六)



《「忍路高島」の唄を七節に切って歌う場合、一首のうちの生命ともいうべき所は、第三節の落としオヨビモと六節の落としウタスツの二個所であるという。多くの人がオショロの唄い出しを困難に思っているのは、正調節が不自然なる節をつけているのと、やたらに声を延ばしすぎている故である。第五節のセメテのところを一般には難渋とされているけれど、自分自分の持っているだけの声でセの所から、漸次にメへ自然に上げる心で唄えばよいので、別に難しいはずはない。
 追分節の妙味も困難も、声を張り上げたり、喉をころばしたりするところに有るのではなく、落としと切と止めとにある。第二節タカシマのマの止めは「振り切り」という。第三節のオヨビモの落としは「下止め」という。第五節セメテのテは中音の「振り切り」だ。
 僅かに二十六文字の短い唄ではあるけれど、その節なり、声なり、唄う気持ちに、強いところ、かなしいところ、笑いたいような気持、そういった気分が現わしたいという。第四節のナイガは陽で止め、第七節イソヤマデは陰で止めるのだという。その陰といい、陽といい、文字や言葉ではあらわしかねる。実地に聞いて悟の外はない。陰陽の呼吸は唄の文句によりて一定はできぬけれど、唄い出しにも唄い止めにも陰陽のあることを知っておかねばならぬ筈だと磯女はいう。》
(湯朝竹山人の『歌謡集稿』中の『安田磯女の談話筆記』)

 この談話筆記は、大正15年に竹山人が東京本郷森川町で松前節の師匠をしていた安田磯を訪ねて話を聞いたものであるが、追分界にとって貴重な記録であります。磯女は明治7年、松前福山で生まれた純粋の松前生まれで、その松前追分節天保の調べを伝え、最も古い松前節を伝承している一人であるという。

 

 

 《「をしょ」の発声はなるべく中声、仮に声量十あるならば、中声の五くらいより出して行くものである。初めより「をしょ」と高声に唄い出す時は「ろ」は力が抜けるため、俗に一本調子に聞こえて聞き苦しい。また「をーしょ」と発音の「を」を少しのばして唄うもよし、とにかく「をしょ」を中声に出して追い追い高めて行き「ろ」の前後ともあるいは揺り、あるいは引き、「をーをーをー」というようにして唄って止める。
「高しま」は「高ァーしーーい」揺りつつ引き「ま」に至って一層力を入れて語尾をはね上げる心持にする。「及びも」は「およーびー」と静かに柔らかに声を出し、「も」と移る時、力を加えて張りあげ「をーーー」と唄を引く。もし息が足らずに一声に引く事が出来ぬ時は「もーをー」にて息をつぎ「をーーー」と揺りを入れて唄う。この句と「歌棄」は全章の中最もながく引いて唄う。「ないが」は「ないーーー」と最も静かに低音に出で、哀を含み、あるいは声を揺り、または引き、「が」に至って少し力ある音声にて「がァーー」とのばして唄う。
「せめて」は全句中最も声を張り上げて唄わなければならない一節である。だから「せめーー」より「て」に移るところ一層力をこめて張り上げて「てーーー」と揺り止める。声にも力を入れ少しく尾を跳ね上げる心持で唄う。要するにこの一節は前句「ないが」の哀調を含んだ低音をうけて後段の唄にうつる順序として前の唄で充分声をおち付かせ「せめて」と声を張って抑揚をなすものである。
「歌棄」の調格は大体前の句「及び」同節に似ているもので、その心得で唄うべきである。前にも述べた如く全体の文句の中最も長く引き揺りなどして唄うものは本句と「及び」の二句であるから声の接続等は音譜によって研究するとよい。「磯谷まで」は前の句の「ないが」の節調と格別異う事がなければ参照するとよい。但し追分節として断腸的哀情をしのばせるのは「ないが」と「磯谷まで」の声調によって発揮されるものだから最も節調に注意を要するものである。》
(高橋掬太郎氏の『追分の研究』の中に、江差振興會から出ている「江差よいとこ」というパンフレットから引用されているもの。)

 

 

 《総て唄には気分がある。特に追分節はこの気分が唄の生命である。追分節を唄う時は無論調子を整へる事も大事であるが一通りその節回しを覚えたならば、先ず何を措いても気分というものを考え、唄う度に調子や節回しがピッタリと合っていて、真の気分が出ているかどうかに気を付けなければならない。
  櫓も櫂も 浪にとられて 身は捨小舟
         何處に とりつく島もない。
 寂しいような、悲しいようなヒシヒシと迫り来る哀々悲痛な気分である。浪の間に間に絶え絶えに聞えて来るその声、高く低く寄せては返す大波小波のそのさま、これがすなわち追分節の気分である。
 こうした気分を心得ていて十分にこの気持を表して唄うことが肝要である。
 ここで注意すべきことは余りに気分にこだわって、勝手に技巧を加えて声をすかしたり小揺りを入れて、ことさらに抑揚を付けない事である。声自慢のために自由奔放に唄って、ただダラダラと引伸して聞く人に卑しく雑然とした感じを与えないよう、あくまでも高尚な芸術味を保つべきである。
 ついでながら声自慢は絶対に真正の追分節を唄う事が出来ないものであるという苦言を呈して置く。》(三木如峰)




《明治四十二年末の師匠会議以降、地元の追分界で唄い方の基本とされるようになった言葉に、「二声上げの七ツ節」、あるいは「七節七声、二子上げ」という一句がある。これらは、いずれの場合も江差追分の本唄部分の七句、「かもめェの、なくねェに、ふとめェを、さまァし、あれェが、えぞちィの、やまかいィな」の各句を一息に切らずに唄うこと、および各句の後半の節々にあたる母音をのばす部分を押しぎみに、あるいはすくい上げるように、強調して唄うべきことを述べた歌唱上の注意点を要約した言葉である。
 二子上げという言葉は、地元では沖揚音頭が最高潮に達したところで、船頭が「二子上げだどッ」と叫ぶ、というようなかたちで用いられており、その場合は網をたぐるためにくり返す掛声の、その後半部にとくに力をこめることを指しているようである。
 ちなみに追分の音譜として昔から伝えられる各師匠の波状曲譜を見ても、各句が
二山形をしているものが多く、息つぎに余裕をもたせる上から前半を短く、後半を長く、押しぎみに唄うようにという各師匠の注意点もまた、昔から共通しているようである。》(風濤成歌)
 

 以上の中には今日ではちょっと首をかしげるようなものもありますが、今日においても大いに参考になるものも含まれております。なによりも江差追分とはどういう風に唄うべきかという心持というか熱情が伝わってきます。名調子な文は原文のままに掲載しました。

 

                              

 

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追分フリーク

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 古稀を記念してブログをはじめました。

早いもので江差追分を本格的に始めて通算10年になります。江差追分会に入ってからは7年になります。通算というのは間に30年のブランクがあるからです。その辺のことは追々語りたいと思います。

主に江差追分に関する事柄を綴っていきます。

才能と努力と多少の運があれば誰でも名人になれます・・・多分^^。とても名人にはなれないがそれでも江差追分は極めたいという人は江差追分の背景を知るべし。

 このブログを見て少しでも正調江差追分の上達に貢献するところがあれば幸いです。

文中、失礼を承知で敬称を略す場合があります。また、引用文の多くは旧仮名遣いなので、名調子の文以外はできるだけ新仮名遣いにあらためました。