歌詞考5(碓氷峠の権現様は~)

 

碓氷峠の権現様は わしが為には守り神

 

 「追分節」の最も古い文献とされているのは、松井譲屋編『浮れ草』<国々田舎唄の

部>文政五年(1822)で、追分節として載せられている次の七首です。


こゝろよくもておひわけ女郎衆、あさま山からおにがでる

♪一夜五両でもつまもちゃいやよ、つまのおもひがおそろしや

♪さらし手ぬぐひちょいとかたへかけ、あくしょがよひのいきなもの

♪あのやおひわけぬまやら田やら、ゆくもゆかれず一トあしも

♪うすいたうげのごんげんさまよ、わしがためにはまもり神

♪あさま山ではわしゃなけれども、むねにけむりがたえやせぬ

♪おくりましょかよおくられましょかよ、せめてたうげの茶屋までも

 

 この碓氷峠というのは群馬県と長野県の県境にあって、県境をまたいだ権現様の境内

には、現在は長野県側の熊野皇大神社群馬県側の熊野神社が鎮座しており、神主も二

人いるという。

 日本武尊が、東征の帰路、亡き妃を慕って「あゝわが妻よ!」と三度嘆いたというこ

碓氷峠を、かつて鈴を鳴らしてさわやかに朝な夕な通り過ぎる馬方が、心までなりき

って唄ったのが、碓氷峠の権現様は、わしが為には守り神」であり、また「碓氷峠

あの風車、たれを待つやらくるくると」なのだろう。一方は信仰の唄であり、一方は恋

の唄である。柳田国男によれば、信仰の唄と恋の唄との分かれ目が定かでないというの

は、奇妙に感じられるが、これは神に仕えた者が上臈であり、同時に万人に愛される女

性であったことを考えれば、あながち有り得ないこととは言えないとのこと。

 人が馬方風情と言って、さも賤しいもののように言い出したのは、膝栗毛時代からの

変化と言ってよいと思うが、以前は遠くまで七日十日の出稼ぎをし、大いに儲けて帰っ

てくる者が馬方であった。空想と英気に富む若者のみが、好んで馬方の生活を営んだの

である。

 また、ある追分研究家によれば、追分節の地理的な、あるいは精神的な意味での源流

は、追分節の元唄ともいうべき、碓氷峠の権現様は、わしが為には守り神」という歌

詞にちなんで上州と信州にまたがる碓氷峠のあたりだと考えているそうだ。

 このように、碓氷峠の権現様は~」は、元は碓井峠から信濃追分宿近辺で唄われて

いた馬子唄なのだが、その馬子唄に三下りの三味線をつけて艶のある粋な座敷唄にした

ものが馬方三下りです。この馬方三下りが漂泊の座頭という人達によって信濃や越後か

ら、さらに陸路奥羽を経て蝦夷地に運びこまれ、松前江差の三下りとなり、踊りも振り

付けられて盛んに唄われ、伝承されていったのである。その辺のことは、このブログの

江差三下り」を参照願います。 

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 上の浮世絵版画は歌川国丸(寛政五年1793~文政12年1829)が描いたもの

(版元、版行年月ともに不詳)だが、上部に

 ♪うすゐとうげの ごんげんさまはアゝ わしがためには のふまもりがみいゝ

 ♪おくのかいとうに もとみやならばアゝ なにをたよりに のふおくまいりいゝ

 ♪おくりたいぞやおくられたいぞウゝ せめてますがたの のふちゃ屋までもウゝ

という歌詞があり、下に酔客二人と芸妓か遊女らしき女性が描かれている。

 すなわち、文政年間には追分節の元唄的な唄として広く唄われていたことが窺われ

る。

 この唄はまた、

碓氷峠の権現様は、わしの為には守り神

碓氷峠の権現様は、わしの為なら守り神

碓氷峠の権現様は、ぬしが為には守り神

碓氷峠の権現様は、ぬしの為には守り神

とも唄われる。

 さらに、唄の後には必ず「スイスイ 来たか長さん待ってたホイ、お前独りがカワイホイ」というようなお囃子がついたものである。


 参考文献:小野恭靖『江戸期流行歌謡資料』
      柳田国男『民謡覚書(廣遠野譚)』昭和15年

     館和夫『江差追分物語』