我が家の小鳥たち

ピヨチャン

 最初に飼ったのは「文鳥」の雄である。わしは猫を飼いたかったが、家内が猫嫌いなものだから、小鳥で手を打った。家内が近くの小さな鳥屋から千円ほどで買ってきたようだ。35年ほど前のことである。

 この鳥は全然しゃべらない。ただ、チュンチュンとだけ鳴く。従って名前は「チュンチュン」である。ヒナの時から飼ったせいか、よく懐いた。

 二階の日当たりのよいところに置いておいたが、ひとしきり遊んで、いざその場から離れようとすると「おいなんだもういっちゃうのか」と言わんばかりに、♪チュンチュンチュンチュンチュンチュンと鳴くのが、なんともいじらしかったな。

 12~3年生きて往生した。わしは裏庭に埋めてやれ、といったのだが家内が虫が湧くからと燃えるゴミで捨てた。所謂、火葬ということだ。

 

 2匹目はその後まもなく、また家内が今度は大型店内のペットショップから買ってきた。今度は「セキセイインコ」の雄である。文鳥よりはちょっと値が張ったようだ。

 この鳥もヒナの時から飼ったが、実によくしゃべる。しゃべっていないときはピヨピヨ鳴くので、名前は「ピヨ」である。「ピヨチャン」と呼ぶときもある。

 もっぱら家内が世話をしたから、家内の言葉を特に覚えたようだ。それもソックリそのまま覚えるのである。「ピヨチャン!」とかわいい声で呼びかけると、そっくりそのまま返してくるのだ。くしゃみや、がはははという笑い声までもがそっくりなのが笑える。「雨が降ってる」といえば、そのまま覚える。覚えた言葉をその都度記録したら

2百以上あった。 毎日が賑やかで楽しかったな。ただし「餌戻し」というのをやって、あちこち汚すのが困ったが、まあ本能だからしょうがない。

 やはり12~3年で死んだ。朝おきたらエサ箱に顔をつっこんで冷たくなっていた。あわれなものだ。埋葬方式は前と同じである。

 

 3匹目は「コザクラインコ」の雄である。前と同じペットショップで買ってきた。これはちょっと値が張った。

 この鳥は薄幸というかなんというか2年であの世に旅立ってしまった。原因ははっきりしている。家内が鳥の餌のほかに自分の食べているものを与えていたからである。そのせいで虫が湧いたか消化不良を起こしたのだろう。なにも家内に悪気があったわけではないが、無知の故である。わしも大丈夫かなとは思っていたが、止めるにはいたらなかったので、半分はわしにも責任がある。かわいそうなことをした。

 というわけで印象が薄かったせいか、上の事以外では、「キー」としか鳴かないな、との思い出しかない。

 

 4匹目も「コザクラインコ」である。家内がペットショップから買ってきた。活発で元気がよく気が強そうだったからてっきり雄だと思ったらしいが、ある日の朝、鳥かごの中でうずくまっていたので、変だなと思ってどかしてみた。そしたら小さな卵がポツンと、ころがっていたので皆でビックリ仰天した。「おい、なんだよ雌じゃないか!」と、ひとしきり騒ぎになった。

 名前は「ピヨチャン」である。鳴き声は原則「キー」であるが、そのほかに大体5種類くらいの鳴き方がある。籠の中の枝から枝へ飛び移るときなどは「チチチチチ」と鳴く。インコの中では2番目と言われる声の大きさで、相当うるさい。

 「ピヨチャン」という自分の名前はたまにだが言える。傑作なのは、いわゆる「喘ぎ声」を出すことだ。雄のかわりなのだろうが、籠の中にぶらさがっているちょっと大きめの鐘を背中にしょって、尻をおったてて「ピヨチャン!」と叫んだあとに、「ゲゲゲゲゲ」と何回も喘ぐのである。これにはあきれたね。

 もう一つ特徴のある行動をする。誰にも教わらずにやるのだから、本能の一つだろうが、嘴で紙を細長く切って、シッポの辺に刺す、それもいくつもいくつもである。これは巣作りの準備なのだろう。

 それに関してまたもやかわいそうなことをしてしまった。新聞の折り込みチラシを与えてしまったのだ。ご存じのようにチラシには色々と印刷がされているわけで、その印刷が小鳥には毒になるということに気づかなかったのだ。

ある日、「ピヨチャン」の首周りの毛がごっそり抜け落ちているのに気が付き、自分たちの罪深さを悟ったのである。抜けた毛は季節が変わってもはえてこなかった。

 その「ピヨチャン」は10年過ぎて、おばあさんとなりながらも元気に生きている。

卵はもう何年も産まないし、「ゲゲゲゲゲ」もめったにやらない。

                                  おわり

馬子唄(馬方節)の源流を考えてみる


 小室節と南部馬方節はどちらも馬子唄の源流(ひいては追分節の源流)といわれているが、地理的には東と西に分かれている。一体どちらが源流なのであろうか。そもそも古い民謡というものは音源が残されていないので源をたどるのは不可能といってよいだろう。特に文化の発達していない時代の東北においては紙媒体による記録すら乏しいのである。小室節が源流であると主張する中心的人物は『追分節の源流正調小室(諸)節集成』の長尾眞道であり、南部馬方節が源流であると主張する中心的人物は『日本民謡大観』の町田嘉章・竹内勉である。

「馬子唄と馬方節」については別のところで取り上げているので、ここでは簡単に述べる。

「馬子唄」は関東以西に多く分布しており、主に峠や街道の宿場町などで、荷物や旅人を乗せて運び、これは「駄賃付け」と呼ばれた。馬子が道中で旅人の眠気覚ましや馬の元気づけに唄ったのである。わしの知る限りでは、関東以西には馬方節はないように思う。

「馬方節」(夜曳き)は、東北などの馬の生産地から馬市に馬を一度に何頭か引いて行き、売買・仲介を行う馬喰・博労が道中に唄ったものです。昼間は馬が驚いて人を傷つけたりすることもあるので、専ら夜中に移動した。道中、けものに襲われないように、また

♪ ひとり淋しや 馬喰の夜曳き 鳴るは轡の 音ばかり

♪ 一夜五両でも 馬方いやよ 七日七夜の 露を踏む

などという歌詞に見られるように、孤独や辛さをまぎらわすために唄ったのです。

 

 さて、次に「馬子唄と馬方節」どちらが古いかという問題を取り上げます。

同じ馬を引く仕事唄ですが、その歴史の始まりには次のような違いがある。

1.馬子唄・・・室町時代~

この時代から、険しい峠を越えたり人や荷物を乗せていく際の仕事唄として「馬子唄」の原型が唄われ始めた。

2.馬方節・・・江戸時代~

「馬方節」の源流は、現在の岩手県〜青森県にあたる旧南部藩の博労たちが歌っていた「夜曳き唄」だとされている。
江戸時代に入り、幕府の政策によって各地で大規模な「馬市」が開かれるようになると、馬方が多くの馬を連れて夜通し移動する文化が生まれ、そこから「馬方節」が発達して東北一円へと広がっていった。

従って、馬子唄の方が古いとされている。その根拠は以下のごとし。

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馬を専門に扱って旅人や荷物を運ぶ、いわゆる「馬子」が、室町時代(14世紀〜15世紀頃)に完全に職業化・定着したとされる根拠は、主に「商品経済の急速な発展」と「運送専門業者(馬借)の集団化・組織化を示す史料の存在」にある。
  • 「馬借(ばしゃく)」としての組織化と史料の登場
    室町時代になると、それまで農民の副業や義務(賦役)だった馬による輸送が完全に専門職化し、「馬借」と呼ばれる運送業者として各地の交通の要所に集団で定着しました。大和国八木(現在の奈良県)などに「馬借の座(同業者組合)」が結成された記録が残っていることが明確な根拠となっている。 
  • 歴史的大事件(土一揆)への主導的参加
    1428年の「正長の土一揆」など、室町時代に多発した一揆の記録において、近江(坂本・大津)や山城の馬借が主要な構成員(あるいは首謀者)として幕府に要求を突きつけたことが多くの古文書に記されている。これは、彼らが単なる個人労働者ではなく、社会や政治を動かすほどの強力な「交通労働者集団」として確立していた何よりの証拠だ。 
  • 定期市と商品流通の拡大
    室町時代には全国で「三斎市(月に3回開かれる市)」や「六斎市(月に6回)」といった定期市が激増し、貨幣経済が浸透した。これにより、遠方へ大量の物資(米、塩、特産品など)を日常的に陸送するニーズが生まれ、馬を専業とする労働者が定着せざるを得ない経済的基盤が完成した。古代(律令制)の「駅制」の時代から馬を引く労働者はいましたが、国の命令ではなく民間の市場経済の中で「独立した専門職」として社会的に確立したのが、この室町時代です。

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どちらも「馬を引く」という共通点から、今ではほぼ同じ仲間として扱われるが、歴史のスタート地点を辿ると「馬子唄」に軍配が上がる。 
『南部馬方節(夜曳き唄)』がすべての源流・元祖である、とする一部の民謡専門家の説は、「馬追唄(労働歌)としての音楽的・芸術的な洗練度」や「各地の馬子唄への影響力」という視点から見ると、非常に説得力があり、専門家の間でも根強く支持されている見解です。
一見すると、先述の「室町時代からある信州の馬子唄が先祖」という説と矛盾するように思えるが、民謡の歴史を紐解くと「どちらの側面も正しい(歴史の二面性)」であることが分かる。
専門家が「南部馬方節が源流」と主張するのには、主に以下の3つの強力な根拠がある。
1. 「馬子唄」を芸術の域に高めた南部博労の歌唱力
室町〜江戸初期の信州などの馬子唄は、現在のものほどメロディが複雑ではなく、馬の歩調に合わせた単調で素朴な「掛け声」に近いものだった。
一方で、旧南部藩(岩手・青森)は日本一の馬の産地であり、馬の売買を行う「博労」たちは命の次に馬を大切にしていた。彼らが夜間に馬を引いて何日も歩く際に歌った「夜曳き唄(のちの南部馬方節)」は、静まり返った夜の山道で馬の目を覚まし、獣を脅かし、自身の孤独を紛らわせるために、圧倒的な大声量と独自の「こぶし(節回し)」で歌われた。
この南部の圧倒的な歌唱スタイルが、関東や信州の馬子たちに「なんて良い唄なんだ」と衝撃を与え、真似されていった(=全国の馬子唄の音楽的ルーツになった)という点において、南部源流説が唱えられている。
2. 「箱根馬子唄」の公式解説にも残る南部起源
実際、日本を代表する馬子唄である神奈川県の「箱根馬子唄」について、NHKアーカイブスの解説などでも「唄の源流は、旧南部領で博労たちがうたっていた南部馬方節。これを関東の馬子たちが真似て口ずさんだもの」と明記されている。歴史的な記録として、南部の唄が東海道の宿場町まで伝播し、定着したルートが証明されている。 
3. 信州の「追分宿」へ逆輸入された説
「信州の浅間馬子唄が追分節になった」という説の裏側には、「信州の馬子唄そのものが、もともと東北(南部)の博労節や馬方節のメロディを吸収して発展したものである」という見方がある。つまり、「南部馬方節(博労唄)→ 信州へ伝わり追分馬子唄になる → 全国へ広がり江差追分になる」という、さらに大きな一本のタイムラインが見えてくる。 
結論としてどう捉えるべきか?
  • 「交通のシステム(馬子という職業)」としての発祥は、街道の歴史から見て信州・関東(馬子唄)が古い。
  • しかし、私たちが今耳にするような「哀調を帯びた、節回しの美しい民謡(音楽のクオリティ)」としての源流は、間違いなく南部馬方節(博労の夜曳き唄)にある。 
一部の民謡専門家は、この「音楽的な遺伝子の濃さ」を指して「南部が源流である」と評していると思はれる。日本の民謡が、東北の厳しい自然と馬への愛の中で磨かれ、それが街道を通じて全国の港や宿場町へブレンドされていったダイナミズムを感じさせる、非常にロマンのある説だと言える。 
この「南部馬方節」の源流説を踏まえると、民謡の伝播ルートがさらに立体的になるようだ。
「小室節」と「馬子唄」は、「親と子」であり「源流と派生」という非常に深いかかわりを持っている。 
「小室(こむろ)」とは長野県小諸(こもろ)市の古名であり、小室節は東信濃を代表する非常に古い民謡です。この小室節がベースとなり、各地の馬子唄や追分節へと発展していった。 
その具体的なかかわりや歴史的な流れは、以下の3つのポイントに整理できる。
1. 小室節は「馬の歌」として生まれ、馬子唄の母胎になった
小室節のルーツは、平安〜鎌倉時代にまで遡ると言われている。小諸市周辺にある「御牧ヶ原」という朝廷の直轄牧場から、天皇へ馬を献上する際に歌われた「駒引きの道唄」が元になっているという説が有力です。
つまり、小室節自体がもともと馬を扱う人々の歌(馬の歌)として誕生しました。これが江戸時代に街道を行き交う馬子たちに受け継がれ、各地の「馬子唄」の母胎(ベース)となったわけだ。 
2. 「小室節」から「追分馬子唄」への進化
江戸時代、小諸の隣にある中山道と北国街道の分岐点「追分宿(現・軽井沢町)」にこの小室節が伝わった。
追分宿を往来する馬子たちが、小室節のメロディをベースにしながら、馬の足取りに合わせて歌い崩していったものが、有名な「追分馬子唄(信濃追分)」になった。
(※この追分馬子唄が、さらに新潟を挟んで北海道へ渡り、江差追分へと大進化を遂げることになる)
3. 「小諸馬子唄」は昭和に作られた弟分
現代でもよく耳にする「小諸馬子唄」という楽曲があります。小室節と名前がそっくりで混同されがちだが、厳密には別の曲です。 
  • 小室節:平安〜江戸時代から伝わる、厳かな祝詞調や神事唄の系譜を持つ「伝統民謡」。
  • 小諸馬子唄:昭和12年(1937年)に、伝統的な馬子たちの声をヒントにして、尺八の大家や歌手(赤坂小梅など)によってレコーディング・発表された「新民謡」。 
昭和に作られた「小諸馬子唄」は、古くからある「小室節」の歌詞や特徴的な音の運びをギュッとコンパクトにして、より一般の人が歌いやすいようにアレンジされたという関係にある。
結論から言うと、「どちらが真の源流か」は、民謡を「歴史(ルート)」で捉えるか、「音楽(節回し)」で捉えるかという、専門家の視点・アプローチの違いによって180度変わる。
歴史的な事実を整理すると、「小室節が『器(ルート・歌詞)』を作り、南部馬方節が『魂(圧倒的な節回し・歌唱法)』を吹き込んだ」というのが最も的確な答えだろう。 
なぜ専門家の間で意見が分かれる(あるいは両立する)のか、2つの源流説の決定的な違いはどこにあるのか。
1. 「小室節」源流説の視点 = 地理・流通のルート(ハードウェア)
「小室節(信州)」を源流とする専門家は、「唄がどこからどこへ伝わっていったか」という歴史的・地理的な足跡(ルート)を重視している。 
  • 根拠:平安〜室町時代から信州の広大な牧場(御牧ヶ原)で歌われていた「駒引き唄」が小室節となり、これが中山道の宿場町で「追分馬子唄」へと発展した。これが北前船の交易ルートに乗って日本海を北上し、北海道の江差追分へ至るという明確な流通ルート(伝播の歴史)が証明されているため、「すべての出発点は小室節である」と考える。 
  • この説の限界:初期の小室節や信州の馬子唄は、現在の江差追分のような「長々と息を引き伸ばす、高度で哀調を帯びたメロディ(こぶし)」ではなく、もっと短く、馬の歩調に合わせた素朴なテンポの唄だった。 
2. 「南部馬方節」源流説の視点 = 音楽的遺伝子(ソフトウェア)
「南部馬方節(岩手・青森)」を源流とする専門家(主に東北民謡の研究家や音楽学者)は、「私たちが今聴いて感動する、あの複雑で美しい『節回し』はどこから来たのか」という音楽的なクオリティを重視している。 
  • 根拠:旧南部藩の博労(馬喰)たちが夜を徹して馬を引くときに歌った「夜曳き唄(のちの南部馬方節)」は、静寂の山々に響き渡らせるための、圧倒的な高音・大声量と、震わせるような高度な「こぶし回し」を持っていた。この音楽としての圧倒的な魅力(遺伝子)が、関東や信州の馬子たちの唄(小室節の系譜)に衝撃を与え、お座敷唄としての「追分節」に独特の哀調と長い節回しを植え付けた、と考える。
    • この説の限界:南部馬方節そのものが、直接そのまま北海道に渡って江差追分になったわけではなく、歴史的な地理ルートとしてはやはり信州(小室・追分)を経由している。
      結論:2つの源流が合流して「最高峰」が生まれた
      わしもまた、この2つは対立するものではなく、次のように「合流した」と考えるのが自然だろうと思っている。
      1. 小室節(信州)という古い馬の歌が、交通の要所である追分宿で、全国へ広がる「追分節」という器を作った。
      2. そこに、日本一の馬産地からやってきた南部馬方節(夜曳き唄)の圧倒的な歌唱法(魂・メロディの美しさ)がブレンドされた。
      3. この「信州の器」と「東北の魂」が合体した唄が北へ向かい、最終的に北海道で「江差追分」という最高傑作として結実した。 
      なので、「どちらが源流か」に対しては、「歴史のルートとしての源流は小室節、音楽の芸術性としての源流は南部馬方節」
      というのが、最も本質を突いているのではなかろうか。
 

小室節2

 「小室節」には歴史的文献があるわけですので、それらを見ていきましょう。

 

 「小室節」の名称が出てくる最も古い文献といえば、『吉原はやり小唄総まくり』です。これは寛文二年(1662)版の草紙で、<万治二年(1659) 所々より吉原迄の駄賃付けの事>として、
 一、日本橋より大門まで並み駄賃弐百文馬奴二人小室節うたふ かざり白馬駄賃
   三百四十八文
 一、飯田橋より大門まで並み駄賃弐百文まご二人小室節うたふ かざり白馬駄賃
   三百四十八文
 一、浅草見附より大門まで並み駄賃百三十二文馬子二人小室節うたふ かざり白馬
   駄賃二百四十八文
と記されている。つまり、江戸時代初期には小室節は唄われていたということです。 
 また、延宝六年(1678)刊の菱川師宣作『吉原恋の道引』(吉原通いの道筋から途中の舟賃や馬の駄賃、遊女の種類まで、事細かに記した延宝時代の吉原の案内書)にも、
   「日本橋より大門まで並み駄賃弐百文、馬奴、こむろぶし歌ふ」
とあります。
 この頃は、吉原通いの客が馬に乗って、馬子に唄をうたわせながら通うのが伊逹者の資格の一つになっていて、その馬子唄を「小室節」と言ったのだが、この馬子が小室節を唄う事は、駄賃を多くする有力な条件でもありました。

『好色一代男』天和二年(1682)井原西鶴作

 中の巻五(願いのかき餅)

 《世之介も今は堪忍ならず、表に出れば、京より結構なるいせ参りがあるはと、門立さはぎ、練物をみる如くぞかし、大阪の黒舟といふ乗懸馬、伏見の漣浪、淀のはんくはい、かれ是三足揃えて、七つ蒲団を白縮緬にしめかけ、馬の沓にも唐糸をはかせ、何れも十二三なる娘の子、四つ替の大ふり袖、菅笠に紅裏うって、ないまぜの紐を付、其時は小室ぶしの最中、宿入りにうたひて、馬子も両口をとるぞかし》

 

『人倫訓蒙図彙』(じんりんきんもうずい)

 《馬方節とて一ふしあり、船頭に舟歌あるが如し・・・当世は辰巳あがりのこゑして    小室節なり、聲高にして何事にも先片肌ぬぐはかれらが風俗也》 ※「辰巳あがりの声」とは甲高い声の事。

 元禄三年(1690)上方で出版された風俗の百科事典的絵本。あらゆる身分、職業の解説と図解でなっており、著者は不明だが、絵師のほうは、蒔絵師源三郎の署名あり。

 

『新竹斎物語』元禄期の仮名草紙。

 《桂川にて、東奴と物いひかわす條に云、

   お江戸を出て百三十里の道すがら、比丘尼がうき世ぶし、馬子が小むろのひなめきたるならで、歌といふ物きゝ侍らずと云々》

 

『御前義経記』
浮世草子。西沢一風作。元禄13年(1700)刊。8巻8冊。義経伝説を下敷きに、主人公が諸国の遊里を遍歴しながら色道の研鑽(けんさん)を積んでいくさまを描く。
《「されば、まづ桑名といへる所へ三里半もあるべし。宮への渡は七里の海上、それ過ぎて三州迄は七里半なり。くたびれ給うはば馬に乗りたまへ」と宿はづれより、「から尻馬、桑名まで五十八文。乗ったり乗ったり安いもの」と、小室節うたはせて云々》
 桑名=伊勢国桑名郡桑名町
 宮=尾張国愛知郡
 から尻馬=一駄四十貫を積載する馬を本馬といい、積載量五貫目までの駄馬を空尻馬(軽尻馬)という。    

 

『丹波与作待夜の小室節』宝永五年(1708)近松門左衛門

 中の巻

《あれ々々あそこへ歌うて来る本小室のひん抜きは、与作々々と小手招き、(歌)さても見事なソンレハおつづら馬や、七つ蒲団にソンレハ曲彔据えて、我もむかしは、

(フシ)乗りし身を~~》

 本小室のひん抜き⇒本家本物の小室節、正調小室節、純粋の小室節

 

『松の落葉』江戸時代中期(宝永七年1710)の歌謡集

その中の半太夫節(江戸浄瑠璃の一流派)の十七番 桜姫碁盤人形に、

 《かかる目出たき折なれば、勇みゆゆしき御馬の初、五十三次に隠れない男、よよを籠めたる

竹馬を、さてさて見事に飾り立て、手綱掻い繰り、しつしつどうどうどどんとどっこ

い、どっこいせ、朝の出がけに小室そんれは節、出がけにゃ朝の、朝の出がけにゃ小室そ

んれは節、一声二節三蔵やい、二人づんづん連れ立ち、さあさあ行くべい行くべい、轡

の鈴がりんりんからから、りんりんからから、りんがらがらりんりんからから、りんか

らからはいどうどう、はいはいはいはいはいどうどう、あっぱれ御馬か、上手と上手

が、乗ったか乗ったぞ、さてさて見事え、三味に引かるる駒の勇みや》とある。

 

『乗掛妹背小室節』(のりかけいもせのこむろぶし)
 これは宝暦元年(1751)秋、中村座興行の「戀女房染分手綱」の八段目の演目で、長唄作曲は佐野川千蔵(後の富士田吉治)。
《道はか行かぬ女旅(小室節)坂は照る照る鈴鹿は曇る。鈴鹿も我も曇る身を。拂ふ誓は観世音。山より山に行く道は 上り下りに手を引合うて えいさっさ。馬も顔振る 痴話の鞭 夫は丹波の刀差名は伊逹人の與作とて。人に知られし戀男・・・》(高野辰之編『日本歌謡集成』より)

 

『小諸節原歌』(享和三年(1803)

 小諸藩松井の住人で松濤迂人という人が描いたという絵図。これは祇園社の祭礼におこなわれた小室節の神賑わしで、服装や行列の様子がわかる貴重な資料です。さらに「小諸節原歌」として小室節の原唄がいくつか載っています。そのうちの三つ程挙げると、 

♪ なれそなれそに 小室衆にやなれそ きみのおそばに イヨ ついなれそ
♪ さても見事や お葛籠馬よ 馬子の小唄に イヨ 小室ぶし
♪ 祝い目出度の 若松さまよ 枝も栄へる イヨ 葉も志げる 

というように、中々洒落た歌詞がある。

 

『東海道中膝栗毛』は、1802年(享和2年)から1814年(文化11年)にかけて初刷りされた十返舎一九の滑稽本であるが、その第三編上に、

《【岡部より藤枝へ一里二十六町】名にしおふ遠江灘浪たいらかに、街道の並松えだをならさず、往来の旅人互に道を譲合、泰平をうたふ葛籠馬の小室節ゆたかに、宿場人足其町場を争はず、雲助駄賃をゆすらずして、盲人おのづから独行し、女同士の道連ぬけ参りの童まで盗賊かどはかしの愁いにあはず、・・・・》とある。

 これの詳しい内容については、このブログの「小室節1」の三田村鳶魚と民俗学者山中共古との対談本『東海道中膝栗毛輪講(上)』に引用しました。

 

『方言修行金草鞋』第十三編 文政三年(1820)十返舎一九
 《小諸ここも繁盛の御城下なり。「お大名の通りけるを見て、

  宿の名の小諸ぶしにてつづら馬ひきもきらざる町のにぎわひ》

 ※この時代、善光寺に参拝し、上田、田中を経て小諸から追分、さらに草津に出た旅は小諸を繁盛させたのである。

 

 

『浮れ草』 文政五年(1822)松井譲屋編
その序文に、

《寛永の往古、小唄八兵衛がうたひし小室節~云々》

とある。松井譲屋については「京阪のいわゆる粋人である」以外のことは詳しくはわかっていない。小唄八兵衛は、江戸時代前期に歌舞伎唄方で活躍し、江戸小唄の名手で、三味線も巧みであった由。

 

『聲曲類纂』巻の五 小唄の部「小室節」 弘化四年(1847)斉藤月岑著
 《其始并に名義ともに知るべからず。今も諸侯御入府の節は、御馬前に立てうたふとかや。其曲節を伝ふる家、今も武州豊島郡三河島に残りてあり。三河島に残る事は、三河より来る人の子孫とかや、其伝来故ありて略す。むかし吉原通ひせるわこうどら、白馬にのりて通ひし頃、馬奴二人こむろぶしをうたひしことは末に記せる大尽舞のくだりに載たり。》

「今も諸侯御入府の節は、御馬前に立てうたふ」ということは、「小室節」が単なる馬子唄ではなく、格調の高い祝い唄であったことがうかがえます。
三河島は吉原のすぐ北隣にある。
大尽舞とは江戸中期頃から吉原遊郭の太鼓持ちによって歌われた囃子はやし舞。紀伊国屋文左衛門の大尽ぶりなどを歌舞にしたもの。

 

『紀国文左大尽舞』
右田寅彦(みぎたのぶひこ明治-大正時代の劇作家)1866-1920
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(トぢっと思入、是にて馬士唄聞える。)
 小室節 ♪さても見事な、そんれはおつづら馬や。
おゝあの唄は小室節、さては世にある大尽が是見よがしの白馬にて日本堤を通ふと見えた、今度こそは甚兵衛が馬を追うて来るかも知れぬ、よく気をつけて、ムゝ。
(ト立上ってこなたを窺ふ。)
 小室節 ♪七ツ蒲団に、そんれは曲彔すゑて。

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清元 『旅奴』
 《旅は道づれ、夜はふざけ、とんだ月夜と小室ぶし、上り下りのおつづら馬よ、さても見事な手綱染かいナアエ、馬子衆の癖か高聲で、鈴をたよりに小室ぶし、吉田通れば二階からナ・・・・》

 

端唄 『上り下り』
 《上り下りのおつづら馬よ、さても見事な手綱ぞめかいな、馬士衆のくせか高声で、
  鈴をたよりに小室節、坂はてるてる鈴鹿はくもる、あひの土山雨が降る 吉田通ればなア二階から招く、しかも鹿の子の振袖が》

  ※かつて大名が江戸へ上り下りの際、荷物を運ぶ様を唄ったもの。一般的に「鈴鹿馬子唄」の歌詞とされている唄を「小室節」としているところから、両者の間に深い関連性が見られて興味深い。

 

端唄 『時鳥暁傘』(ほとゝぎすあかつきがさ)

 《ほとゝぎす、あかつき傘は月が召し、土手の草葉におくつゆの、編笠深きものゝふの、裾もみじかき伊達模様、奴が腕振る尻をふる、空尻馬に小室節、鞍にゆられて眠たげに、聞こゆる鐘は、浅草寺》

 

うた澤『色気ないとて』
  《色気ないとて苦にせまいもの、賤が伏家に月がさす見やれ茨にも花が咲く、田植えもどりに袖つまひかれ、今宵逢ふとの目づかひに、招く合図の小室ぶし、すすきにのこる露の玉かしくと読んだが無理かいな》

 田舎で逢引の合図に小室節が使われていたということか。小室節が単なる馬子唄ではなく、もっとこう小唄っぽいものであったのではないかな。 

 

 

俳句・狂言の中にも小室節を謡ったものがいくつかあります。

 

芭蕉選集『続猿蓑』元禄十一年(1698)

   春の日や 茶ノ木の中の 小室節 (正秀)

 幸田露伴は評釈芭蕉七部集 [第7] (評釈続猿蓑)の中で《小室節は馬子唄なり。武州北安

達郡小室村より起こるといい、あるいは信州小諸の宿より起こるといえど、両説ともに

確微するところ無し。この句は東海道の風情と聞ゆ、一九が膝栗毛にも小室節の歌はる

ること出でたり。別に小室節に茶の木の文句などあるにはあらじ。春の昼下がりに茶畑

続きの街道を行く、鄙びたる馬子唄のさまと心得てよし。句に拘はりては茶摘歌の中に

聞ゆるように解答しもすべけれど、さのみ執せんは趣に疎かるべし》と述べている。

 

川柳『万句合』宝暦七年(1757)

   馬かたの 声には惜しき 小室節

 唄はいいけど声がいまいちだな~ってことかな。

 
『俳懺悔』寛文二年(1790)

   霧雨に 小室うたふは たれが馬 (大江丸)

 『俳懺悔』は江戸中期の俳人大江丸の俳諧集 。

 

『麗和集第一号』桜井節雄 編 麗和吟社, 明37.4

   霞から もるゝや馬士の 小室節  (霞水)

 

 

引退

 このところ2年間、新型コロナのせいで江差追分全国大会が中止になっている。


その中止になる前の最後の予選会に出場した時には、幸い通過したので全国大会にも出

るつもりでいたところ、体調をくずして棄権せざるをえなくなってしまった。


 今思えば、その予選会の時の唄もなんか弱弱しくて、いかにも病人が唄っているよう

であった。その辺から体に異常があったのであろう。最近とみに息が続かなくなったの

で、呼吸器検査を受けたところ、「肺疾患」の疑いがあって、現在70代前半なのに9

2才の肺だという。こりゃいかんということで、精密検査を受けたんじゃが、結果は異

状なしだという。なんか釈然としないが、実際のところ息が続かないわけで、どうした

らいいか医者に相談したら、肺の筋肉を鍛えなさい、という単純でありがたい教えを受

けたので、今は毎日「ピロピロ」という道具をささやかに使ってる。どうも4年程前に

肺炎を患ったことがなんらかの後遺症を引き起こしたんじゃないかと思っている。


 いずれにせよ、まともに唄える状態ではないので、先日支部を退会しました。やっと

唄い方がわかってきたところなのに、実に残念であるww。

歌詞考5(碓氷峠の権現様は~)

 

碓氷峠の権現様は わしが為には守り神

 

 「追分節」の最も古い文献とされているのは、松井譲屋編『浮れ草』<国々田舎唄の

部>文政五年(1822)で、追分節として載せられている次の七首です。


♪こゝろよくもておひわけ女郎衆、あさま山からおにがでる

♪一夜五両でもつまもちゃいやよ、つまのおもひがおそろしや

♪さらし手ぬぐひちょいとかたへかけ、あくしょがよひのいきなもの

♪あのやおひわけぬまやら田やら、ゆくもゆかれず一トあしも

♪うすいたうげのごんげんさまよ、わしがためにはまもり神

♪あさま山ではわしゃなけれども、むねにけむりがたえやせぬ

♪おくりましょかよおくられましょかよ、せめてたうげの茶屋までも

 

 江戸時代、中山道でもっとも険しい難所の一つが群馬県と長野県の県境にある碓氷峠
であり、峠の頂上には信濃国(長野)と上野国(群馬)またがる熊野権現(長野県側の
熊野皇大神社と群馬県側の熊野神社)が鎮座している。馬子たちは険しい山道やおどろ
おどろしい浅間山の噴煙を前にして、この峠の権現様こそが自分たちを守ってくれる唯
一の神様だという畏敬と感謝の念を込めて、この唄を口ずさんだのであろう。
ここを行き来する馬子や旅人にとって、悪天候や山賊の危険と隣り合わせの峠越えは文
字通り命がけだったのである。

 

 日本武尊が、東征の帰路、亡き妃を慕って「あゝわが妻よ!」と三度嘆いたというこ

の碓氷峠を、かつて鈴を鳴らしてさわやかに朝な夕な通り過ぎる馬方が、心までなりき

って唄ったのが、「碓氷峠の権現様は、わしが為には守り神」であり、また「碓氷峠の

あの風車、たれを待つやらくるくると」なのだろう。一方は信仰の唄であり、一方は恋

の唄である。柳田国男によれば、信仰の唄と恋の唄との分かれ目が定かでないというの

は、奇妙に感じられるが、これは神に仕えた者が上臈であり、同時に万人に愛される女

性であったことを考えれば、あながち有り得ないこととは言えないとのこと。

 人が馬方風情と言って、さも賤しいもののように言い出したのは、膝栗毛時代からの

変化と言ってよいと思うが、以前は遠くまで七日十日の出稼ぎをし、大いに儲けて帰っ

てくる者が馬方であった。空想と英気に富む若者のみが、好んで馬方の生活を営んだの

である。

 また、ある追分研究家によれば、追分節の地理的な、あるいは精神的な意味での源流

は、追分節の元唄ともいうべき、「碓氷峠の権現様は、わしが為には守り神」という歌

詞にちなんで上州と信州にまたがる碓氷峠のあたりだと考えているそうだ。

 このように、「碓氷峠の権現様は~」は、元は碓井峠から信濃追分宿近辺で唄われて

いた馬子唄なのだが、その馬子唄に三下りの三味線をつけて艶のある粋な座敷唄にした

ものが馬方三下りです。この馬方三下りが漂泊の座頭という人達によって信濃や越後か

ら、さらに陸路奥羽を経て蝦夷地に運びこまれ、松前江差の三下りとなり、踊りも振り

付けられて盛んに唄われ、伝承されていったのである。その辺のことは、このブログの

「江差三下り」を参照願います。 

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 上の浮世絵版画は歌川国丸(寛政五年1793~文政12年1829)が描いたもの

(版元、版行年月ともに不詳)だが、上部に

 ♪うすゐとうげの ごんげんさまはアゝ わしがためには のふまもりがみいゝ

 ♪おくのかいとうに もとみやならばアゝ なにをたよりに のふおくまいりいゝ

 ♪おくりたいぞやおくられたいぞウゝ せめてますがたの のふちゃ屋までもウゝ

という歌詞があり、下に酔客二人と芸妓か遊女らしき女性が描かれている。

 すなわち、文政年間(1818年~1831年)には追分節の元唄的な唄として広く唄われて

いたことが窺われる。場合によっては、松井譲屋編『浮れ草』<国々田舎唄の部>文政

五年(1822)よりも古いかもしれないな。

 この唄が大きな転機を迎えたのが、碓氷峠を越えた先にある宿場町「追分宿」(現在
の長野県軽井沢町)だ。

 追分宿は中山道と北国街道の分岐点として大いに栄え、夜になるとお座敷で三味線が
鳴り響く賑やかな場所である。馬子たちが昼間に山で唄っていた素朴な馬子唄を、宿場
の飯盛女たちがお座敷用の三味線伴奏をつけて流行歌に編曲したのである。この時、歌
詞に面白い変化が起きた。

♪碓氷峠の権現様は、わしの為には守り神 (わしの守り神)

♪碓氷峠の権現様は、主の為には守り神  (あなたの守り神)

 

 自分をはげますために唄っていたものが、お座敷でお客さんの旅の安全を祈る唄に変

化したのであり、ここに「追分節」(信濃追分)が完成したのである。 

 さらに、唄の後には必ず「スイスイ 来たか長さん待ってたホイ、お前独りがカワイ

ホイ」というようなお囃子がついたものである。


 参考文献:小野恭靖『江戸期流行歌謡資料』
      柳田国男『民謡覚書(廣遠野譚)』昭和15年

     館和夫『江差追分物語』

     

 

歌詞考4(大島小島の~)

「大島小島のあい通る船は 江差通いかなつかしや」

 

 

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 この歌詞は今では、

「大島小島のあい通る船はヤンサノエー 江差通いかなつかしや 北山おろしで行く先ゃ曇るネー 面舵頼むよ船頭さん」

というふうに専ら『前唄』として唄われています。だが、古く前唄以前の古調の時代にあっては『本唄』としてのみ唄われていたのであって、わしの知る限りではこの歌詞は江差追分の中でも古い方に属すると思われる。

 類似の歌詞に「大島小島は夫婦の島よ なぜに奥尻離れ島」

       「大島小島の 鮑でさえも 蝦夷地離れぬ 心意気」

などというのがある。

「大島」は、渡島大島(おしまおおしま)、松前大島(まつまえおおしま)とも呼ばれ、松前町西方沖50kmの沖合いにある無人島。

「小島」は。渡島小島(おしまこじま)、松前小島(まつまえこじま)とも呼ばれ、松前町の西方沖約24km付近にある無人島。

 

 天保14年(1844年)に島根県下で、船頭の山本嘉右衛門が、当時日本海沿いの

各地で唄われていた民謡の文句を書き留めたものの中に、『松前節』として、

「お志ま小島の間のる船は えさしのぼりかなつかしや」

を載せている。この歌詞の最古のものであろう。(参考文献:館 和夫『江差追分物語』p.137)

 この歌詞が、愛媛県下の「舟追分」にも、

♪アー大島エ小島のヨー 間通るエー船はヨー 江差上りかヨー コラなつかしや

という風に残されているのをみると、船頭衆によって広く流布された歌詞であったのが

わかる。

 

 明治19年発行の夜短坊大/選『粋の種本』の中に「おいわけ」として、

 「大しま小しまをあやどるふねは餌さしがよいへなつかしや」

が見られるが、これも文献に現れた中では古いものの一つであろう。 

 

 明治25年発行の丸山亥子吉著、戯笑散人編『粋の自慢:博識天狗』の中に「追分節」として、

 「大島小島をあやどる船は、江さし通いへなつかしや」とある。

 

明治26年発行の樋口正三郎編『粋の選挙、第2編』の中に「追分ぶし」として、

 「大島小しまをあやどる舟は、餌さしがよいへなつかしや」とある。

 

 明治26年発行の西村寅二郎著『音曲全書粋な浮世』の中に「追分唄 二上り」として、

 「大島小島のあいとおる船は、ソイソイ江差がよいかなつかしやソイソイ」とある。

 

 明治42年大阪で、越中の床松という人が『当世流行歌』なるものを著しているが、「お座敷小唄」の項目の中に、「追分節」として「お女郎高島及びはないが、せめて歌棄磯谷まで」と並んで、「大島小島のあやどる舟は、餌差通いやなつかしや、スイスイ 来たか長さん待ってたほい、、お前ひとりがカワイホイ」を載せている。

 

 明治43年発行の森野小桃(庄吉)『江差と松前追分』

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「大島小島の あい取る船は 江差通いか なつかしや」

 津軽の人間が唄ったものである。遥に白帆が見える―ーいっぱい風を孕んで威勢よく波を切って進んでゆくのだ。はて何処をさして行く船かと瞳を定めると、大島と小島との間をめがけてずんずん進む。あゝ、江差へ行くのだなと思う。と、追想は飛んで、去年稼ぎに渡航した時、浜小屋の夕暮れに買った、あの眼のくりくりと愛らしい、背も低いし髪もちぢれていたけれども、口元に何とも言えない愛嬌のあったあの女・・・来年も来て頂戴、て何遍も何遍も別れる時繰り返したっけ、あゝ今年もまだあの女はいるだろうか、それとも国へもう帰ったかしら、思えば江差の空が懐かしい、江差を指してゆくのかと思えばあの白帆の影がなつかしい。

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 大正4年発行の稲葉一水編『尺八独習案内』の中に「追分節」として、

 「大島小島のあい通る船は 江刺がよいかなづかしや」

 

 大正4年発行の高野辰之『里謡集拾遺』の中に、

 「大島小島のあい行く舟は 江差通いか懐かしや」とある。

 

 大正6年発行の河合裸石『江差松前追分節』

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 「大島小島の 合い通る船は 江差通いか なづしや」

 沖ゆく白帆はどこへ行くのかと見ていたら、大島と小島の間(江差前面の島)を縫って進んで行った。疑いもなく江差通いの船だ、思えば去年江差へ出稼ぎに行った時、浜小屋で馴染みを重ねたあの女はまだいるであろうか、船の姿を見るにつけ江差が懐かしい。

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 「なづしや」は上の例からすると単に「か」が抜けてしまったものであろう。

 

 大正7年発行の分新栄家房子編『お稽古文庫第二編 新版お座敷唄』の中に「追分節」として、

 「大島小島をあやどる舟は、餌差通いかなつかしや」とある。

 

 大正8年発行の松乃家美登利編「大流行歌曲獨稽古」の中に「追分節」として、

 「大島小島の間なる舟は 江差通いか懐しや」とある。

 

大正8年発行の河内春月・松尾乳秋共編『粋な小唄』の中に「追分節」として、

 「アア大島小島をあやどるふねは江差通いか懐しや ホイ来たか長さん待ってたか、お前ばかりが可愛うてホイ朝起きなるかいナ」とある。

 

 大正8年発行の横山雪堂『追分節物語』

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「大島小島の間通る船は 江差うけかよなつかしや」、福山を西に海上七里、日高の三峰をあらわして小島あり。北西十里、江良町の真西十三俚の波上、楕円形の死火山大島を見る。

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 大正9年発行の村田弥六『純粋の江差追分節』

「大島小島の 間通る船は 江差うけかよ なつかしや」

 

 大正9年発行の藤澤衛彦『小唄伝説集』

「大島小島のあい行く船は 江差通いか なつかしや」

 

 大正9年の古舘鼠之助編『蝦夷民謡 松前追分』

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『大島小島の間通る船は…』福山港弁天島の西十三哩、二つとも小さな島で出稼ぎ漁夫が渡航するほかは今でも無人島のようなものだ。その大島と小島の間を、時折追分を流して漁船が通るが、じっと見ているとそれはいつも中場所から下場所行きの船で、江差へ指して下って行く。おゝ思い出すのはあの津花の浜小屋。俺の馴染んだ女は今頃どうして居るだろう、この鰊場の切り上げ時が来たなら一日も早くあやこと逢いたい、かの船を見るにつけても親切なあの妓が思い出されるという、漁師が江差の情人へ思いを走らした歌である。

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 大正11年発行の越中谷四三郎他『正調江差松前追分』

「大じま小じまの あいとるふねは 江さしうけかよ なつかしや」

 

  大正13年会津民謡会発行の『会津民謡集』

「大島小島の あひ通る船は 江差通ひか なづかしい」

 

 昭和2年日本音曲全集刊行会発行の『俗曲全集』の中に「江差追分節」として

「大島小島の 間通る船は 江差通いか なつかしや」があり、

また前唄として「大島小島の間通る船は、ヤアサホノエー。江差通いよ なつかしやアー・・・」がある。 

 

 昭和5年東京日日新聞経済部発行の『経済風土記』

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「大島小島のあい通る船は 江差受けかよ なつかしや」

 大島小島というのは江差から福山に行く海上にある離れ島だが、その間を縫って行く白帆は江差を出て南へ帰る船だろう、思えばこの春江差に来た時馴れ染めた船人は、今あの船で故郷へ帰るのか、ままになるなら逢って見たい、ああ懐かしい、という述懐である。

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 昭和11年発行の石島鷗雅『哀艶切々追分節の変遷』『追分節の今昔』

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 順風に帆を孕ました大小の貨物船はひきもきらず、あたかも七福神の宝船が続いたように、大島、小島の間の航路を通う情景には、海岸に立った可憐な乙女等がそぞろ待つ人恋しいままにほろりとして、

 大島小島のあひ通る船は 江差通ひか懐かしや

と歌った程であります。

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 昭和14年発行の三木如峰著『正調追分節』

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「大島小島の間通る船は 江差うけかよ なつかしや」

 福山沖にある大島・小島の間を通うあの船はまさしく、江差港うけの船であろうが、懐かしいと、懐旧の情を表した意。

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 昭和14年発行の高橋鞠太郎『追分の研究』

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「大島小島の間とる船は 江差通いかなつかしや」

 大島小島は、福山港弁天島の沖合にあるもので、歌の文句を読んだだけでは、すぐ磯近いところに並んでいるようにも思えるが、まことは福山から十三哩もあり、島と島との間もかなり離れている。この「大島小島」の文句中、「間(あい)とる」というのが「間通る」と書かれ、唄い方も近頃はわざわざ「あいとおる」と五音にうたうようにしたり、五音では唄いにくいところから「あい行く」が正しかろうなどと、勝手に直して唄ったりする人がいるが、これはやはり「間(あい)とる」の四音で唄うことが本当であろう。

 「とる」というのは船頭言葉にある。帆船が風の加減で直線コースを行けないで大きくカーブして行く、そういう場合に使われるもので、西をとろうとか、東をとろうとか、または江差をとろうとか、佐渡をとろうとか言う。「何々を目標にとる」というようなことから来たのであろうか、決して「通る」の略語ではないのである。

 大島小島の「間とる」の場合は、大島と小島の間を目標にとって行くのであるから、「通る」ことに相違ないが、上のような訳で「通る」と言わずに「とる」と言った方が正しいと思う。唄の気持ちをよく味わってみるならば、、いっそうそれがハッキリと判る。つまり「間を通る船がなつかしい」というには、大島小島があまりに陸から遠く離れている。「間とる船」ならば、「間に向かって行く船」ともなるから、文句が自然で、すぐ沖合を行く船の白帆が眼にうかぶのである。「江差かよいか」を「江差うけかよ」と唄う人もいる。

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 因みに平成11年江差追分会発行の『 風濤成歌』は「間通る船は」と「間とる船は」の両方を詞華集に載せている。

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 「追分節」は別れの唄だという。男女の別離を唄った歌詞が多い。

「都々逸」もまた26文字で別離の情を唄うが、「追分節」と「都々逸」の違いがどこにあるかといえば、「都々逸」は多分に遊蕩的で脂粉の匂いがするが、「追分節」は野人的であり恋愛を歌っても必ず自然を背景としているのである。この「大島小島~」の唄からして、自然な情景の中に別れの哀情が感ぜられるではないか。それこそが「追分節」の神髄ではなかろうか。

 「大島小島~」の歌詞のうち主だったものを列挙してみましたが、調べてみるまではこんなに様々な表現があるとは知りませんでした。それでも、ある程度カテゴリーに分類できそうです。

 まず歌詞の前半部だが、明治の19年以降「あやどる船は」、が多くみられる。多分に引用の故か。「あやどる」とは一般的には「巧みにあやつる」というような意味だが、この場合は大島小島の間を船を巧みに操って進むという意か。

その後は「間通る」「間とる」が主流となる。「間通る」「間とる」については、高橋鞠太郎『追分の研究』が傾聴に値する。異色なところでは、高野辰之が『里謡集拾遺』で、また藤澤衛彦が『小唄伝説集』で、「あい行く舟は」をとりあげている。

 後半部は、「江差通いかなつかしや」が主流だが、大正期から昭和の初めにかけて「江差受けかよなつかしや」も見られる。「江差うけ」とは江差をめざして船を走らすという意である。村田弥六、越中谷四三郎という大物がこの文句をとりあげている。

 

 

 

 

 

湯朝竹山人と追分節Ⅲ

 『歌謡集稿』
  信州の追分節(昭和3年)/226

 ♪ 西は追分 東は関所 関所越ゆれば 旅の空
 信州追分節の特色は、旅客と飯盛と遊女との触れ合いから生まれたものと知って、この唄の伝える味が酌みとれる。馬の歩調から産まれたという一般馬子唄共通の約束であったであろうけれど、唄を歌おうとする人心の欲求は、やはり人情美の欲求であり表現であることはいうまでもない。「旅の空」の結句が当時の旅客の心理を表現するものではあるまいか。
 十年前、故黒岩涙香先生から、この信州追分節の元唄が、この「旅の空」の文句であると思うから調査して見よといわれ、機会あるごとに調査したが、残念ながら今に至るも文献記録の出典を知ることが出来ない。

 ※黒岩涙香(1862~1920)は探偵小説家、翻訳家、ジャーナリストで、『萬朝報(よろずちょうほう)』の創刊者でもあった。


   (1)追分節変遷の推定説

 追分節の最初の発生地も年代もはっきりとはわからない。信州の追分節である馬方唄が追分節を代表する唄の一つであり、信州追分節が中仙道の馬子唄となって、越後方面に伝わり、やがて越後追分節を産み、それがまた新潟に行き、津軽に行き、さらに松前福山へ伝わり江差へ伝わり、移り伝わるごとに曲節の変化を生じ、その土地土地で新しい歌詞を産み、源は一つだが変遷推移の結果、各地方地方で特殊の追分節をもつことになったのであろう。東北方面では南部地方にも古くから馬方節が伝わっているが、信州馬子唄との関連は疑問があり、ほとんど影響関係はなかったと思われる。信州から越後へ、それから裏日本の海岸をたどって北へ向かったものと推定され、海路通行関係上から、自然の経路であろうと推察される。

 ※追分節の元は馬士唄からというのは定説である。その馬士唄の元を「南部馬方節」であるとする民謡研究家もいるが、影響関係があったのかどうかは、どちらとも断定できかねる。特に東北方面に文献が乏しすぎるのである。


   (2)初て知る信州追分唄

 信州追分節といっても、それがことごとく馬方節労働唄と思うのは誤解である。どの地方の民謡でも、最初は伴奏楽器のない原始調だが、後には必ず三味線を使うお座敷唄となる。「さんさ時雨」でも「松前節」でも「博多節」でも楽器は後に伴奏役をつとめることになったものだ。信州追分節のようなのは馬方が馬の歩調をもとにして生まれた曲節であることは疑いの余地はないが、現存する歌詞を吟味すると、労働者の唄った文句と女性のお座敷唄とは明らかに相違がある。本来4句26文字の信州の追分節も中には字余りもあれば字足らずもあり、原句の欠けたものも伝わっている。

   (3)追分節に関係する地形

 碓氷峠の西が避暑地として天下に知られる「軽井沢」で、その西が「沓掛」で、その西が「追分の宿」である。唄の文句に「三宿」というのが出てくるのだが、それは坂本、軽井沢、追分を碓氷三宿と言い。軽井沢と沓掛と追分とを浅間三宿と称されることを知っておきたい。追分宿の北が「雲場ケ原」で、直ぐに「浅間山」が頭上におッかぶさるように威張っている。追分の西が「小諸」で、その南に「岩村田」という順序になっている。

   (4)先づ『浮れ草』七首
   (5)西は追分東は関所
   (6)浅間山を唱へる文句
   (7)追分と沓掛と軽井沢
   (8)小諸の古調と碓氷峠付近

 ♪小諸出て見りゃ浅間の山に 今朝も煙が三筋立つ
 ♪小諸出て見りゃ浅間の煙は 今日東へ吹いて出る
 ♪小諸出ぬけて松原行けば いつも三筋の煙立つ
 小諸、今日ではコモロという、古くは「小室」といったそうだ。「小諸出て見よ」の句は古くかつ広く伝唱された文句と見える。幕末の頃は江戸で端唄に唄われ、歌沢に唄われ今日に伝わっている。小唄節でも盛んに唄われている。 

 ♪小諸出て見りゃ浅間の山に 今朝もけむりが三筋立つ ヤレよいやナよいやサ
                               (流行小唄節)

 ♪小諸出て見りゃ浅間の山に 今朝もけむりが三筋立つ 天へのぼりて雲となる

                               (端唄稽古本)
 江戸で唄われた馬子唄の小室節が、もしこの信州小室から起原するものであったら、文献的に貴重な文句といわねばならない。

 ※ 江戸で唄われた馬子唄の小室節とは、『吉原はやり小唄総まくり』(1662年)にある、「日本橋より大門まで並み駄賃弐百文馬奴二人小室節うたふ かざり白馬駄賃三百四十八文」や、菱川師宣作『吉原恋の道引』(1678年)の「日本橋より大門まで並み駄賃弐百文、馬奴、こむろぶし歌ふ」のこと。詳しくはこのブログの「小室節」参照してください。

   (9)俗曲調および類型模倣唄

 ♪色の道にも追分あらば こんな迷いはせまいもの
 余りに広く知れ渡っているため、この唄なども粗末に思われているけれど追分節としては広く唄われて来た。この一首が北海松前節にまで伝唱されているのが不思議なほどだ。北海道にこの「色の道」の文句が伝わっているという事実は、信州追分節の北遷と何らかの関連のあると思われる。

  ※「歌詞考1」参照

   (10)最後に『粋の懐』の四首

 文久二年(1862)、大阪で発行された一荷堂半水の『粋の懐』第七編に「追分ぶし、二上がり」として、以下の四首が載っている。


 ♪あいはせなんだか遠江灘で おもふそさまははや上下
 ♪笠を手にもちどなたもさらば いかいおせわになりました
 ♪鳥もかよはぬ玄かい灘を 風にまかした帆がにくい
 ♪咲てほころぶアノ山ざくら とけてはるさめは化粧のみづ


 信州にも松前にも縁のない文句だが、第二の「笠を手にもち」の一首は前出「色の道」と共に松前追分節で普く唄われている。第三の文句は更に広く全国的に流布している「鳥も通はぬ八丈が島」のように、同じ追分節といっても、山路坂路の唄と、海洋の唄と別の方面に進出した推移を考えさせられる。
 初め陸で唄われ、次いで海へ行き、労働作業と生活環境とで曲節と間調子と歌詞とが自然に変化をきたしたものである。こういった項目を考えるにあたっては、過去の民謡調査というものがいかに困難であるかを物語っている。

 

  松前追分節の話/246
   (1)正調節か新派節か
 古調の時代にあっては、七節を各人好きなところで息継ぎしていたのを、平野源三郎や越中谷四三郎などが七節を七声で唄うことに決め、そしてこれに『正調』の名を冠せた。
だが、古調に対しての新派の調なのであるから、本来、新派節とでも名付けるのがふさわしいと思えるが、世間一般に正調追分節として通じているので、今更如何ともしがたい。ただ正調の意味が本来的に理由のあってのことでなく、ただ唄い方を七節に変えたというだけの意味であることを、明記しておく必要がある。
  ※因みに現在、『正調』とは「七節七声」「八つの節」のことです。

   (2)忍路高島唄の由来

 内容については、このブログの「歌詞考2-2」に載せましたので省略します。
   (3)安田磯女の談話筆記

 この談話筆記は、大正15年に竹山人が東京本郷森川町で松前節の師匠をしていた安田磯を訪ねて話を聞いたものであるが、追分界にとって貴重な記録であります。
 磯女は明治7年、松前福山で生まれた純粋の松前生まれで、明治15年9才の頃、福山の松川家小蝶に松前追分を習った。小蝶は天保14年頃から芸者に出ておって、後には松金家というお茶屋の女将となった女である。ということは、磯女の松前追分節は天保の調べを伝えているものであって、追分節界では最も古い松前調を伝承している一人である。
 明治19年、14才の頃、磯女は福山の菱屋から芸者に出たのだが、その頃の記憶では追分節は明治27・8年の日清役の頃までは盛んに唄われたが、戦役後はパッタリ衰えてしまったそうだ。芸者でさえ十名足らずになったため、磯女も24・5年頃、まず江差に行った。江差の新地町には100人くらいの芸者がいたが、追分節は衰微していて、僅かに新地町桜井の竹吉一人が唄っていたくらいに過ぎなかった。村田弥六が浜小屋追分を唄っていたが、平野源三郎の名などは耳にしたことがなかったという。その後さらに、寿都、岩内、小樽、札幌へと出稼ぐことになったが、小樽、札幌が発展するにつれて、追分節もまた復活の傾向を見ることになったという。
 磯女が小樽で芸者に出たのは、明治30年頃で、そのころ小樽の芸者の内で追分節の上手といわれたのは、りつ、小金、美代吉、友吉、そして才三(安田磯)の五名であった。しかしながら、小樽の追分も長続きはせず、いつしか追分の流行がさびれたが、大正になって再び小樽の追分も活気を呈するようになった。磯女は大正四年、小樽から東京へ居を移し、松前追分節の三味線を教授している。
 ※以下は追分節の唄い方の記述があるが、それはこのブログの「正調江差追分の唄い方Ⅰ」に昔の唄い方として載せておいたので、そちらを参照してください。

 

  松前追分節断編/264
   (1)東京で追分の元祖
   (2)東京隴上会の宣伝
   (3)松前追分節元唄

 北海道の追分節の元唄は、「忍路高島及びもないが、せめて歌棄磯谷まで」だと思っていたが、どうも調べて見ると、「大島小島の間(行く)通る船は、江差通いかなつかしい」が元唄ではないかと思う。近頃は、北海道の追分節を江差追分というふうに言い、江差が追分節の発生地であるかのように思われているようだが、松前城下の福山が江差よりも古くかつ本場ではなかったか。大島小島の間通る船は、江差通いかなつかしい。もちろんこれは福山城下の人が自然に唄ったものだろう。南から北へ、北から南へ、福山沖の海路は、昔は大島と小島の間を航行したものだという。この唄は城下の福山で唄われてこそ伝唱の価値があるのだ。
   (4)江差労働者の野調

 江差あたりの船頭や労働者の追分節は、大海の波を調子に唄ったと思える過去の声調を伝えている。江差あたりで追分名人などという看板を持たない無名の労働者たちは、もちろん楽器の伴奏なしで唄っていた。これが本当であると思える。

  松前追分節研究資料/274