小室節2

 「小室節」には歴史的文献があるわけですので、それらを見ていきましょう。

 

 「小室節」の名称が出てくる最も古い文献といえば、『吉原はやり小唄総まくり』です。これは寛文二年(1662)版の草紙で、<万治二年(1659) 所々より吉原迄の駄賃付けの事>として、
 一、日本橋より大門まで並み駄賃弐百文馬奴二人小室節うたふ かざり白馬駄賃
   三百四十八文
 一、飯田橋より大門まで並み駄賃弐百文まご二人小室節うたふ かざり白馬駄賃
   三百四十八文
 一、浅草見附より大門まで並み駄賃百三十二文馬子二人小室節うたふ かざり白馬
   駄賃二百四十八文
と記されている。つまり、江戸時代初期には小室節は唄われていたということです。 
 また、延宝六年(1678)刊の菱川師宣『吉原恋の道引』(吉原通いの道筋から途中の舟賃や馬の駄賃、遊女の種類まで、事細かに記した延宝時代の吉原の案内書)にも、
   「日本橋より大門まで並み駄賃弐百文、馬奴、こむろぶし歌ふ」
とあります。
 この頃は、吉原通いの客が馬に乗って、馬子に唄をうたわせながら通うのが伊逹者の資格の一つになっていて、その馬子唄を「小室節」と言ったのだが、この馬子が小室節を唄う事は、駄賃を多くする有力な条件でもありました。

好色一代男』天和二年(1682)井原西鶴

 中の巻五(願いのかき餅)

 《世之介も今は堪忍ならず、表に出れば、京より結構なるいせ参りがあるはと、門立さはぎ、練物をみる如くぞかし、大阪の黒舟といふ乗懸馬、伏見の漣浪、淀のはんくはい、かれ是三足揃えて、七つ蒲団を白縮緬にしめかけ、馬の沓にも唐糸をはかせ、何れも十二三なる娘の子、四つ替の大ふり袖、菅笠に紅裏うって、ないまぜの紐を付、其時は小室ぶしの最中、宿入りにうたひて、馬子も両口をとるぞかし》

 

『人倫訓蒙図彙』(じんりんきんもうずい)

 《馬方節とて一ふしあり、船頭に舟歌あるが如し・・・当世は辰巳あがりのこゑして    小室節なり、聲高にして何事にも先片肌ぬぐはかれらが風俗也》 ※「辰巳あがりの声」とは甲高い声の事。

 元禄三年(1690)上方で出版された風俗の百科事典的絵本。あらゆる身分、職業の解説と図解でなっており、著者は不明だが、絵師のほうは、蒔絵師源三郎の署名あり。

 

新竹斎物語』元禄期の仮名草紙。

 《桂川にて、東奴と物いひかわす條に云、

   お江戸を出て百三十里の道すがら、比丘尼がうき世ぶし、馬子が小むろのひなめきたるならで、歌といふ物きゝ侍らずと云々》

 

『御前義経記
浮世草子。西沢一風作。元禄13年(1700)刊。8巻8冊。義経伝説を下敷きに、主人公が諸国の遊里を遍歴しながら色道の研鑽(けんさん)を積んでいくさまを描く。
《「されば、まづ桑名といへる所へ三里半もあるべし。宮への渡は七里の海上、それ過ぎて三州迄は七里半なり。くたびれ給うはば馬に乗りたまへ」と宿はづれより、「から尻馬、桑名まで五十八文。乗ったり乗ったり安いもの」と、小室節うたはせて云々》
 桑名=伊勢国桑名郡桑名町
 宮=尾張国愛知郡
 から尻馬=一駄四十貫を積載する馬を本馬といい、積載量五貫目までの駄馬を空尻馬(軽尻馬)という。    

 

丹波与作待夜の小室節』宝永五年(1708)近松門左衛門

 中の巻

《あれ々々あそこへ歌うて来る本小室のひん抜きは、与作々々と小手招き、(歌)さても見事なソンレハおつづら馬や、七つ蒲団にソンレハ曲彔据えて、我もむかしは、

(フシ)乗りし身を~~》

 本小室のひん抜き⇒本家本物の小室節

 

松の落葉』江戸時代中期(宝永七年1710)の歌謡集

その中の半太夫節(江戸浄瑠璃の一流派)の十七番 桜姫碁盤人形に、

 《かかる目出たき折なれば、勇みゆゆしき御馬の初、五十三次に隠れない男、よよを籠めたる

竹馬を、さてさて見事に飾り立て、手綱掻い繰り、しつしつどうどうどどんとどっこ

い、どっこいせ、朝の出がけに小室そんれは、出がけにゃ朝の、朝の出がけにゃ小室

んれは、一声二節三蔵やい、二人づんづん連れ立ち、さあさあ行くべい行くべい、轡

の鈴がりんりんからから、りんりんからから、りんがらがらりんりんからから、りんか

らからはいどうどう、はいはいはいはいはいどうどう、あっぱれ御馬か、上手と上手

が、乗ったか乗ったぞ、さてさて見事え、三味に引かるる駒の勇みや》とある。

 

『乗掛妹背小室節』(のりかけいもせのこむろぶし)
 これは宝暦元年(1751)秋、中村座興行の「戀女房染分手綱」の八段目の演目で、長唄作曲は佐野川千蔵(後の富士田吉治)。
《道はか行かぬ女旅(小室節)坂は照る照る鈴鹿は曇る。鈴鹿も我も曇る身を。拂ふ誓は観世音。山より山に行く道は 上り下りに手を引合うて えいさっさ。馬も顔振る 痴話の鞭 夫は丹波の刀差名は伊逹人の與作とて。人に知られし戀男・・・》(高野辰之編『日本歌謡集成』より)

 

『小諸節原歌』(享和三年(1803)

 小諸藩松井の住人で松濤迂人という人が描いたという絵図。これは祇園社の祭礼におこなわれた小室節の神賑わしで、服装や行列の様子がわかる貴重な資料です。さらに「小諸節原歌」として小室節の原唄がいくつか載っています。そのうちの三つ程挙げると、 

♪ なれそなれそに 小室衆にやなれそ きみのおそばに イヨ ついなれそ
♪ さても見事や お葛籠馬よ 馬子の小唄に イヨ 小室ぶし
♪ 祝い目出度の 若松さまよ 枝も栄へる イヨ 葉も志げる 

というように、中々洒落た歌詞がある。

 

東海道中膝栗毛』は、1802年(享和2年)から1814年(文化11年)にかけて初刷りされた十返舎一九滑稽本であるが、その第三編上に、

《【岡部より藤枝へ一里二十六町】名にしおふ遠江灘浪たいらかに、街道の並松えだをならさず、往来の旅人互に道を譲合、泰平をうたふ葛籠馬の小室節ゆたかに、宿場人足其町場を争はず、雲助駄賃をゆすらずして、盲人おのづから独行し、女同士の道連ぬけ参りの童まで盗賊かどはかしの愁いにあはず、・・・・》とある。

 これの詳しい内容については、このブログの「小室節1」の三田村鳶魚民俗学者山中共古との対談本東海道中膝栗毛輪講(上)』に引用しました

 

『方言修行金草鞋』第十三編 文政三年(1820)十返舎一九
 《小諸ここも繁盛の御城下なり。「お大名の通りけるを見て、

  宿の名の小諸ぶしにてつづら馬ひきもきらざる町のにぎわひ》

 ※この時代、善光寺に参拝し、上田、田中を経て小諸から追分、さらに草津に出た旅は小諸を繁盛させたのである。

 

 

浮れ草』 文政五年(1822)松井譲屋編
その序文に、

寛永の往古、小唄八兵衛がうたひし小室節~云々》

とある。松井譲屋については「京阪のいわゆる粋人である」以外のことは詳しくはわかっていない。小唄八兵衛は、江戸時代前期に歌舞伎唄方で活躍し、江戸小唄の名手で、三味線も巧みであった由。

 

『聲曲類纂』巻の五 小唄の部「小室節」 弘化四年(1847)斉藤月岑著
 《其始并に名義ともに知るべからず。今も諸侯御入府の節は、御馬前に立てうたふとかや。其曲節を伝ふる家、今も武州豊島郡三河島に残りてあり。三河島に残る事は、三河より来る人の子孫とかや、其伝来故ありて略す。むかし吉原通ひせるわこうどら、白馬にのりて通ひし頃、馬奴二人こむろぶしをうたひしことは末に記せる大尽舞のくだりに載たり。》

「今も諸侯御入府の節は、御馬前に立てうたふ」ということは、「小室節」が単なる馬子唄ではなく、格調の高い祝い唄であったことがうかがえます。
三河島は吉原のすぐ北隣にある。
大尽舞とは江戸中期頃から吉原遊郭太鼓持ちによって歌われた囃子はやし舞。紀伊国屋文左衛門の大尽ぶりなどを歌舞にしたもの。

 

『紀国文左大尽舞』
右田寅彦(みぎたのぶひこ明治-大正時代の劇作家)1866-1920
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(トぢっと思入、是にて馬士唄聞える。)
 小室節 ♪さても見事な、そんれはおつづら馬や。
おゝあの唄は小室節、さては世にある大尽が是見よがしの白馬にて日本堤を通ふと見えた、今度こそは甚兵衛が馬を追うて来るかも知れぬ、よく気をつけて、ムゝ。
(ト立上ってこなたを窺ふ。)
 小室節 ♪七ツ蒲団に、そんれは曲彔すゑて。

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清元 『旅奴』
 《旅は道づれ、夜はふざけ、とんだ月夜と小室ぶし、上り下りのおつづら馬よ、さても見事な手綱染かいナアエ、馬子衆の癖か高聲で、鈴をたよりに小室ぶし、吉田通れば二階からナ・・・・》

 

端唄 『上り下り』
 《上り下りのおつづら馬よ、さても見事な手綱ぞめかいな、馬士衆のくせか高声で、
  鈴をたよりに小室節、坂はてるてる鈴鹿はくもる、あひの土山雨が降る 吉田通ればなア二階から招く、しかも鹿の子の振袖が》

https://www.youtube.com/watch?v=PZNONGCKCsU


  ※かつて大名が江戸へ上り下りの際、荷物を運ぶ様を唄ったもの。一般的に「鈴鹿馬子唄」の歌詞とされている唄を「小室節」としているところから、両者の間に深い関連性が見られて興味深い。

 

端唄 『時鳥暁傘』(ほとゝぎすあかつきがさ)

 《ほとゝぎす、あかつき傘は月が召し、土手の草葉におくつゆの、編笠深きものゝふの、裾もみじかき伊達模様、奴が腕振る尻をふる、空尻馬に小室節、鞍にゆられて眠たげに、聞こゆる鐘は、浅草寺

 

うた澤『色気ないとて』
  《色気ないとて苦にせまいもの、賤が伏家に月がさす見やれ茨にも花が咲く、田植えもどりに袖つまひかれ、今宵逢ふとの目づかひに、招く合図の小室ぶし、すすきにのこる露の玉かしくと読んだが無理かいな》 

 

 

俳句・狂言の中にも小室節を謡ったものがいくつかあります。

 

芭蕉選集『続猿蓑』元禄十一年(1698)

   春の日や 茶ノ木の中の 小室節 (正秀)

 幸田露伴は評釈芭蕉七部集 [第7] (評釈続猿蓑)の中で《小室節は馬子唄なり。武州北安

達郡小室村より起こるといい、あるいは信州小諸の宿より起こるといえど、両説ともに

確微するところ無し。この句は東海道の風情と聞ゆ、一九が膝栗毛にも小室節の歌はる

ること出でたり。別に小室節に茶の木の文句などあるにはあらじ。春の昼下がりに茶畑

続きの街道を行く、鄙びたる馬子唄のさまと心得てよし。句に拘はりては茶摘歌の中に

聞ゆるように解答しもすべけれど、さのみ執せんは趣に疎かるべし》と述べている。

 

川柳『万句合』宝暦七年(1757)

   馬かたの声には惜しき小室節

 唄はいいけど声がいまいちだな~ってことかな。

 
『俳懺悔』寛文二年(1790)

   霧雨に 小室うたふは たれが馬 (大江丸)

 『俳懺悔』は江戸中期の俳人大江丸の俳諧集 。