基本譜
現在用いられている「基本譜」(波状譜)は、江差追分会師匠会の承認を経て、昭和49年(1974)に制定されました。
わしは「波状譜」の歴史は大きく3つに分けられると思っている。
最初は下の図に見られるような明治から大正にかけてのものである。
これは、明治二十年代までの古調追分を脱し、その後の明治四十年代の正調追分節と言われた時代に使われた譜面であり、いわゆる八つの節が決められる以前の図譜であります。
これについて石島鷗雅は『追分節の今昔』の中で次のように述べています。
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この波状音譜はドレミハ又は『オタマジャクシ』の西洋音譜に比較すれば真に幼稚な図示式のものであるが、これは江差町の人で四十物久次郎及び阿部鷗江(当時余市町に居住)の二氏等多年の苦心の結果の創始によるものであり、その後一般に流行するようになってからは、この音譜を模倣してそれぞれの先輩等が各自の創意を加え、多少の差異あるものを作って習得者の便に供したものである。
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平野源三郎派家元の三木如峰によれば「明治44年、追分師匠平野源三郎が正調江差追分の標準音譜を編み出した」となっておりますが、現在残されている古いものは上の大正9年村田弥六氏の「村田式図式音譜」等であります。三木如峰作譜の譜面が平野源三郎の編み出した標準音譜を模したものかは不明です。
では、このような波状譜がどこから来たかについて、北海道教育大学の野村公氏が昭和42年8月『江差追分の楽譜についての考察』の中で、
《江差追分も、口承という方式によって伝承されてきたのであるが、それを担った人たちは、やはり江差追分を譜面に書きとどめようと努力したのである。その現われが今日に残された図譜である。図譜は中世歌謡の神楽歌・催馬楽等の記譜法をとったものと考えられる。》
という仮説を立てているのは中々に興味深い。
(催馬楽「席田」の初節)
二つ目は、戦後の全国大会優勝者などがそれぞれに開いた追分道場などで使用された「波状譜」です。これは「基本譜」に近いものの、細かいところで道場主の個性が現れたものでありました。
三つ目が冒頭に挙げた今日使われている「基本譜」です。
基本譜のことを兎角に言う人がいるようですが、わしは波を表現した素晴らしい芸術品だと思っている。
特に「のし」の表現などは見事です。「せつど」と「せつど」の間にある「のし」は「押すのし」であり、「すくり」の後に来る「のし」は「引くのし」であるというようなことは、一体五線譜(楽譜)で表現できるものでしょうか。
江差追分は楽譜(五線譜)には表しようのない唄の一つだと思います。楽譜では江差追分のイメージがそもそも湧いてきません。基本譜には単なる音の連続以上の、連綿と続いてきた江差人の魂が込められているような一種ロマンが感じられます。
確かに楽譜は多少の解釈の違いはあっても、誰でもがその通りに演奏すれば曲になり、歌になります。江差追分も一応採譜して楽譜にすることはできますが、江差追分の奥深さはとても表現できません。
基本譜はそのままでは唄えず、口移しの助けがなければ演唱できませんが、教える方も教わる方も江差追分のイメージがほうふつとしてくる譜面だと思いませんか。
上でこの基本譜を兎角に言う人がいると言いましたが、その言わんとするところは基本譜そのものよりもむしろ、保存を重視するあまり画一的で、規則でがんじがらめにしているということを言いたいのでしょう。でもそれは「保存」の宿命とも言えるかもしれないのです。
古来、芸事に限らず「型より入りて型より出づる」と言われてきました。
これについては狂言師野村万作氏の『太郎冠者を生きる』が面白い。
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