基本譜

f:id:daaji:20170611102817g:plain 

 現在用いられている「基本譜」(波状譜)は、江差追分会師匠会の承認を経て、昭和49年(1974)に制定されました。

 わしは「波状譜」の歴史は大きく3つに分けられると思っている。

最初は下の図に見られるような明治から大正にかけてのものである。

 

f:id:daaji:20170626190616j:plain

 

 これは、明治二十年代までの古調追分を脱し、その後の明治四十年代の正調追分節と言われた時代に使われた譜面であり、いわゆる八つの節が決められる以前の図譜であります。

 これについて石島鷗雅は追分節の今昔』の中で次のように述べています。
ーーーーーーーーーー
 この波状音譜はドレミハ又は『オタマジャクシ』の西洋音譜に比較すれば真に幼稚な図示式のものであるが、これは江差町の人で四十物久次郎及び阿部鷗江(当時余市町に居住)の二氏等多年の苦心の結果の創始によるものであり、その後一般に流行するようになってからは、この音譜を模倣してそれぞれの先輩等が各自の創意を加え、多少の差異あるものを作って習得者の便に供したものである。 

ーーーーーーーーーー

 平野源三郎派家元の三木如峰によれば「明治44年、追分師匠平野源三郎が正調江差追分の標準音譜を編み出した」となっておりますが、現在残されている古いものは上の大正9年村田弥六氏の「村田式図式音譜」等であります。三木如峰作譜の譜面が平野源三郎の編み出した標準音譜を模したものかは不明です。

では、このような波状譜がどこから来たかについて、北海道教育大学の野村公氏が昭和42年8月『江差追分の楽譜についての考察』の中で、 

江差追分も、口承という方式によって伝承されてきたのであるが、それを担った人たちは、やはり江差追分を譜面に書きとどめようと努力したのである。その現われが今日に残された図譜である。図譜は中世歌謡の神楽歌・催馬楽等の記譜法をとったものと考えられる。》

という仮説を立てているのは中々に興味深い。

f:id:daaji:20170626190252j:plain

催馬楽「席田」の初節) 

 

 二つ目は、戦後の全国大会優勝者などがそれぞれに開いた追分道場などで使用された「波状譜」です。これは「基本譜」に近いものの、細かいところで道場主の個性が現れたものでありました。

 三つ目が冒頭に挙げた今日使われている「基本譜」です。

 

  基本譜のことを兎角に言う人がいるようですが、わしは波を表現した素晴らしい芸術品だと思っている。

特に「のし」の表現などは見事です。「せつど」と「せつど」の間にある「のし」は「押すのし」であり、「すくり」の後に来る「のし」は「引くのし」であるというようなことは、一体五線譜(楽譜)で表現できるものでしょうか。

 江差追分は楽譜(五線譜)には表しようのない唄の一つだと思います。楽譜では江差追分のイメージがそもそも湧いてきません。基本譜には単なる音の連続以上の、連綿と続いてきた江差人の魂が込められているような一種ロマンが感じられます。

 確かに楽譜は多少の解釈の違いはあっても、誰でもがその通りに演奏すれば曲になり、歌になります。江差追分も一応採譜して楽譜にすることはできますが、江差追分の奥深さはとても表現できません。

 基本譜はそのままでは唄えず、口移しの助けがなければ演唱できませんが、教える方も教わる方も江差追分のイメージがほうふつとしてくる譜面だと思いませんか。

 

 上でこの基本譜を兎角に言う人がいると言いましたが、その言わんとするところは基本譜そのものよりもむしろ、保存を重視するあまり画一的で、規則でがんじがらめにしているということを言いたいのでしょう。でもそれは「保存」の宿命とも言えるかもしれないのです。

 

 古来、芸事に限らず「型より入りて型より出づる」と言われてきました。

これについては狂言師野村万作氏の『太郎冠者を生きる』が面白い。

ーーーーーーーーーー

 謡にしても、狂言のことばにしても、口うつしで一句一句教えられる。もちろん正座で一対一で先生と向かい合い、先生が子供と同じような高い、大きな声で発声すると、それを口真似してゆく。こうして弟子は、正しい姿勢での正座、大きな明晰な発声、正確な息つぎを強調されて少しずつ覚えてゆくのである。
 子供の時から教わってきた芸は型通りの枠にはめこまれたものだったが、その師が舞台で演じる芸はそれとは違うもので、「教える芸」と「演じる芸」との差違が感じられたのである。
 私は、父に教わったとおりのつもりで、右手をさした。ところが本番を見ると、父はその場面で左手をさしているではないか。手をさすなどは些細な、それほど大事なことではないかもしれないが、私が父から教わったことを正しいと思って踏襲しても、かんじんの師が違う演技をする。父は非常に自由なところがあり、晩年になればなるほど、われわれに教えたことと違うことをやり出した。
 そんな姿を見ていると、年齢によって狂言の演じ方はずいぶん動くものだということを見せられた気がする。カチッとしたことをやる時期もあるだろうし、だんだんそういうものから解きほぐされて、自由に、思うようにやる時代もあるのだろう。
「型より入りて型より出づる」ということ。これは伝統的で非常に合理的な方法である。初心者のときは、師匠に教えられるまま型に入っていけば、大きな失敗はしない。そうして経験を積み、芸の全体になじんできたとき、自分の持ち味を盛り込んで、決められた型から抜け出していく。
ーーーーーーーーーー
 
 正調江差追分の場合は基本譜が制定された時から、自由度というものは極めて限定的になって型から抜け出すわけにはいかなくなりました。
それでも、全国大会でも最初のころの名人の唄をテープで聴くと、けっこう自由に唄っていたように思います。また審査員の方にもそれを許容するものがあったんでしょうな。例えば、「止め」にしても6個7個で止めても名人になれたし、ブッツリ止めといって2つくらいで止めても名人になれました。つまり全体の流れがよければ、細部にはこだわらないという風潮があったわけですが、今ではどうでしょうか。私の見るところ随分と厳格になってきているように感じます。何か個性というものが薄れて、画一的な追分になってきているなと感じるのは私だけでしょうか。
聴衆が求めているのは魂が湧き立つゾクゾクとくる追分です。型の中にあっても個性で聴衆を感動させるような唄い方が今後は求められていくことでしょう。
 
 後藤桃水はすでに昭和29年の時点で述べています。
ーーーーーーーーーー
 現今優秀な唄い手が極めて少なくなったということは、先輩達のような真剣な研究を欠き、いわゆる教科書用の追分型に頼りすぎるからである。型もむろん必要です。しかし、型のみ唄っていたのでは終に追分のロボットが出来上るだけです。型をはなれて型を唄い、個性を芸術的に打ち込んでその唄に生命を与えるというところまで唄わなければならないのです。
ーーーーーーーーーー