歌詞考2-2(忍路高島~)

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忍路(追分節によりてその名天下に高し) 大正九年四月鰊漁期

                   陸地左端の突起を兜岩と称される

 

  忍路は北海道の西海岸にあって、千石船時代には優秀な商港であった。忍路(オショロ)とはアイヌ語で湾の意味。遠く元文年間より西川家の請負地であって、今のところその沿岸の大部分は同家が所有している。年月を重ね二百年、その関わり合いは浅くない。湾口は西北に向かいその幅は約180m、岡の上部にある一大岩石は兜岩といわれる。その形状が酷似している為にこの名をつけられた。一たび波が荒れれば、白龍の乱れ舞うさまに似て壮観無比、奥行き約900m、兜岩の手前右方に湾回する入江はシャモ泊といわれ、水深15mばかり、漁船の安全地帯である。上の図は大正九年四月鰊漁期に撮影されたもの、多数の鯡枠船が係留されているのが見える。図の下部、湾の底部に忍路の市街地がある。(近松文三郎著『西川貞二郎』より)

 

 

 そもそも「〇〇はおよびもないが せめて〇〇まで」という言い回しは各地にあったわけで、なにも蝦夷地専売ではなかった。

 

 ♪ 田沼様には及びもないが せめてなりたや公方様(江戸での流行唄)天明年間1781

                                         ~1789   

♪ しばた五万石およびはないが せめてなりたやとのさまに(越後松坂節)

♪ 本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に(酒田節)ー安政年間1854~1860

                           お殿様は米沢藩主上杉鷹山

 

 これらはいずれも落首、風刺唄ですが、この言い回しは当然ながら海路陸路で北海道にも伝わったわけです。

 

 ここにしばしば引用される人物がおります。

小樽在住の河合吉兵衛(号無涯)翁です。この人物は明治初年まで高島運上所(現在の税関にあたる役所)に勤めていた人で、漁業文化の裏面史に詳しい人物とのことであります。  

 昭和六年十月の『歌謡集稿』で湯朝竹山人は、忍路高島唄の由来として以下の如く述べています。ちと長いが本が手元にない人のために敢えて載せます。

 因みに西川家の番頭をしていた近松文三郎も昭和十年の著書『西川貞二郎』の中の「附たり松前追分節」の項で同様のことを述べております。

 また昭和15年2月16日の北海タイムス紙も「縄張争いの風刺文 これが追分"忍路高島"の正体」として河合吉兵衛翁(当時82才)の同様な内容のインタビュー記事を載せています。

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(前略)偶然にも、小樽の河合無涯翁が、松前節の元唄といわれている「忍路高島」の唄の由来を知っておられるということを聞いた。生憎、私が小樽滞在中は翁が東京へ旅行中であって面会の機会を得ず残念に思っておったが、私が東京へ帰って後、翁から手記の資料を送って頂き、また次で翁が東京へこられて直接に話も聞き、大体のことはわかった。それで愚考もめぐらして、要点と思われるところを述べてみたいと思う。
   忍路高島およびもないが、せめて歌棄磯谷まで
 この唄が、松前追分節の元唄であるかは明言することはできないけれど、現在唄われている北海道追分節の代表唄の一つであって、この唄の由来を知ることが、やがて松前節の起原を尋ねる上にも因果関係の手がゝりが得られようかと思う。
 まず、この忍路高島の唄は、天保の初年(大正15年より96年程前)に起こった、松前福山の城主松前氏治下の一陰謀事件で、つまり利権争奪の一芝居を風刺したものだという。
 忍路高島の唄は、女が男を恋い焦がれ妻が夫を恋こがれての、情を唄ったものとばかり思っていたのに、事実はそうではない。恋愛を歌った情歌ではなく、利権問題を冷笑した風刺唄だという。(中略)
 松前藩の制度として、蝦夷各地方は行政の一部を城下の豪商連に請負わせた。ことに歳入の主なものは、いうまでもなく漁業にあるので、納税のようなものも請負人に代納させたのである。漁業の成績にかかわらず、七ケ年の収穫を平均した金額で、運上金を徴収した。この責任を負うものを請負人とし、御用達の列に加えた。御用達は請負人全体に及ばず、身分財産の勝れたものを選定して命じたらしい。西川、岡田、藤野(以上江州人)及び伊達,栖原、村上以上六件であった。後に岡田、村山は廃して四軒となり、幕末松前藩経済の関係から第二級の御用が出来たという。請負は利益もあるが種々の負担もあり、特に蝦夷人を撫育し部内の治安を見なければならない。もし撫育治安の方法がよくない時は漁業場所返還を命ぜられ、ある期間は謹慎しなければならない責任もあった。
 その請負御用人の一人に、江州出身、西川徳兵衛というのがいた。松前では支配人の名前を店名とした。西川徳兵衛は西川出店七代目の支配人で天保十年から安政三年に及ぶ。西川家は御用達請負人ではあるけれど、格式は士の班に列し、随分と幅を利かしていた。さらに、特に蝦夷地の宝庫といわれた有利な漁場、即ち、忍路、高島、歌棄、磯谷の四郡の漁業場所主であるから、おのずと他の請負仲間から羨望され嫉視されたのも無理からぬことである。こうして西川家が占有する漁場を奪い取ろうとする野心家が現われた。この陰謀計画が、やがて「忍路高島」の唄を産む動因となったのである。
 話題一転、文化四年(大正十五年より百二十年前)のことであった。幕府は松前藩松前志摩守章宏廣に命じ、蝦夷全島を召し上げて、奥州梁川へ転封させ、十五年後の文政四年に再び松前に復封させるという事実があった。この転封、復封の事変は、どんな理由で行われたのか、明らかに知ることはできないけれど、多分蝦夷教育の不行届ということが原因の主な一つであったらしく思える。
 そうこうするうち、天保九年の頃、同じ福山城下に、桝谷某という一商人があった。彼は何とかして西川程の勢力を得たいものだと野心を抱いていた。藩主さえ転封されることもあるのだから、蝦夷撫育の欠陥をあばきだしたら、どんなことになろうかも知れない。現在の漁場の持主に変動を来たすようなことも起ころうかも知れないと思惑した。それで一方、当時藩の権威といわれた某家老職に取入り、陰謀を企てるに至った。
 野心家の腹では、忍路、高島は遠くて航運の便が容易でなく、従って経営にも多大の資本を要するので、それは到底及びもないけれど、せめて歌棄、磯谷ならば、交通の便もあり、資本も少くてすむことだから、この二郡の漁場は我が手に入れたいものだともくろんだ。
そこで、西川が責任をもっている場所の土人間に騒ぎを起こさせ、いわゆる、教育不行届問題を起こし、土人を扇動し、土人から函館奉行へ訴へを起こさせた。函館奉行は松前町奉行へ取調を命ずることになり、調査の結果、西川の教育上に、土人が訴え出たような不行届はなしという判決で、当時の運上所支配畑中某を免職しただけで事済みとなり、折角企てた野心家の陰謀は水泡に帰した。
 そうこうするうち嘉永五年は運上金改正の時期であったので、多年の持主である西川徳兵衛より歌棄、磯谷の二郡を返還させ、野心家から買収されていたという某当局者の魂胆もあってか、終にこんどは野心家といわれた桝谷某の所有になったという説が伝わっているのである。
 それで、天保十年ごろ(大正十五年より八十年程前)松前城下に、次のような落首が現われた。
 忍路高島およびもないが、せめて歌棄磯谷だけ 
 そのころは、まだ新聞というものもなく、落首といって、人知れず紙片に風刺的の狂歌だの俗謡だの、軽口ようのものを書いて、路ゆく人の眼にとまるようなところへ張り出したもので、一時は随分流行したものであった。
 今、この一首の落首が、当時藩政の腐敗、及び暗に西川家と野心家との事件を説明して余りあるものと思われる。一たびこの落首が現われ、終に松前節で唄われることになり、やがては松前追分節の元唄のように歌い継がれることになった。
 忍路高島及びもないが・・・・・この唄は、哀々切々とした叙情歌として歌い継がれて来た。女が男を恋焦れる断腸の唄として愛吟されて来た。けれど史実の示すところは、全くもって漁業場所の争奪に由来する風刺の唄であるという。(中略)
 この唄をかりに情歌とすると、神威岬を境とし、石狩、増毛は大場所で、漁業家も多く、住民も多数のことだから、漁夫たる夫をしたう女房ならば、先ず「石狩増毛はおよびもないが」と唄いそうなはずだという人があり。さらに地理的に考えて「小樽石狩及びもないが」又は「古平余市はおよびもないが」と唄いそうなはずだという人もあり。又次に、神威の手前の場所を指すにしても、歌棄磯谷に限りはしない。寿都あり、古宇あり、下の句を「せめて岩内古宇まで」と唄っても情の唄の意は通じるという人もいる。
 唄に唄われて、消し去ることのできない印象となってしまった忍路、高島、歌棄、磯谷の郡名が、女の男を恋したう意味の表現には要素ではなく、漁業場として有利有望なる場所として、その名が唄の基調となっているのではあるまいか。
 思うに、上のように述べて来たものの、私は従来の伝説が実か、以上の記事が実か、判断を下そうとはしないつもりだ。今日まで私が調べた唄の中にでも「高い山から谷底見れば」の文句でも「わたしゃ備前の岡山そだち」の文句でも、その起源を尋ねると、いずれも生活境遇に対する風刺詠嘆であって、以外な由来をもっている。それで「忍路高島」の唄にしても、資料によると実にこのように判断されるというまでだ。
 松前節の曲調というものが、いつのころから発明されたものか、それは明白にわかりかねる。松前節で最初に唄われた唄が、どんな文句であったか、それも勿論知ることはできない。けれど「忍路高島」の唄が、最初は天保十年頃、松前城下の落首として現われ、下の句の「歌棄磯谷だけ」を「歌棄磯谷まで」と変えて松前節で流行したということに対しては、別に他の記録証拠を挙げて説明されるまでは、上の事実は、この唄の由来を確説した唯一の史実だといわれても、反証の上がるまでは一応首肯しておこう。
 今、思い出すことは、歌詞の上に一つの暗示となる落首である。
 田沼様には及びもないが、せめてなりたや公方様
 上は安永天明の頃、十代将軍家治の治下、老中田沼意次専制に対する落首俚謡であって、世上に随分唄われた。「及びもないが」といい「せめて」といい、一般民謡に耳慣らされた言葉であったことを知りたい。この落首の如きは好実例の一つといってよい。

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(小樽)

 

 西川家が「忍路」を請け負ったのが、寛延二年(1749年)。

「高島」を請け負ったのが、宝暦二年(1752年)。

「歌棄」「磯谷」を柳谷庄兵衛より譲り受けたのが、文政十三年(天保初年)(1830年)。

 従って、

 ーーこの忍路高島の唄は、天保の初年に起こった、松前福山の城主松前氏治下の一陰謀事件で、つまり利権争奪の一芝居を風刺したものだという。ーー

とあるが、その年は歌棄磯谷を請け負った年であって、勘違いでしょう。

 陰謀事件が発生したのは七代目西川徳兵衛が支配人であった時期で、首謀者は桝谷榮三郎という野心家。かくて、

 おしよろ たかしま およびもないが せめて をたすつ いそやたけ

という落首が松前城下各所に張り出されたのであります。

 これについて、追分研究家の館和夫は、《天明期にすでに田沼父子の権勢を風刺した落首がある以上、「忍路高島」の発生時期を天保期とするのは、いささか時代が下がりすぎて不適当のように思う。この落首について私は、むしろすでにあった追分の文句を、末尾の二字だけ変えて利権の争奪に血道をあげる当時の政商を皮肉ったもの、とみたい》と述べているが、わしも同感である。

 

 この歌詞についてはさらに別の説もありますので、次回はそちらを紹介します。