歌詞考2-2

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忍路(追分節によりて其名天下に高し)大正九年四月鰊漁期 

                        陸地左端の突起を兜岩と称す

 

 そもそも「〇〇はおよびもないが せめて〇〇まで」という言い回しは各地にあったわけで、なにも蝦夷地専売ではなかったのであります。

 

 ♪ 田沼様には及びもないが せめてなりたや公方様(江戸での流行唄)天明年間1781

                                         ~1789   

♪ 新発田五万石およびもないが せめてなりたやとのさまに(越後松坂節)

♪ 本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に(酒田節)ー安政年間1854~1860

                           お殿様は米沢藩主上杉鷹山

 

 これらはいずれも落首、風刺唄ですが、この言い回しは当然ながら海路陸路で北海道にも伝わったわけです。

 ここにしばしば引用される人物がおります。

小樽在住の河合吉兵衛(号無涯)翁です。この人物は明治初年まで高島運上所(現在の税関にあたる役所)に勤めていた人で、漁業文化の裏面史に詳しい人物とのことであります。

  

 昭和六年十月の『歌謡集稿』で湯朝竹山人氏は、忍路高島唄の由来として以下の如く述べています。ちと長いが本が手元にない人のために敢えて載せます。

 因みに西川家の番頭をしていた近松文三郎氏も昭和十年の著書『西川貞二郎』の中の「附たり松前追分節」の項で同様のことを述べております。

 また昭和15年2月16日の北海タイムス紙も「縄張争いの風刺文 これが追分"忍路高島"の正体」として河合吉兵衛翁(当時82才)の同様な内容のインタビュー記事を載せているようです。

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(前略)然るに偶然にも、小樽の河合無涯翁が、松前節の元唄といはれてをる「忍路高島」の唄の由来を知ってをられるといふことを聞いた。生憎、私が小樽滞在中は翁が東京へ旅行中であって面会の機会を得ず残念に思ってをったが、私が東京へ帰って後、翁から手記の資料を送って頂き、また次で翁が東京へこられて直接に話も聞き、大体のことはわかった。それで愚考もめぐらして、要点と思はれるところを述べてみたいと思ふ。

   忍路高島およびもないが、せめて歌棄磯谷まで

 この唄が、松前追分節の元唄であるかは明言することはできぬけれど、現在唱はれてをる北海道追分節の代表唄の一つであって、この唄の由来を知ることが、やがて松前節の起原を尋ねる上にも因果関係の手がゝりが得られようかと思ふ。

 先づ、この忍路高島の唄は、天保の初年(大正十五年より九十六年程前)に起こった、松前福山の城主松前氏治下の一陰謀事件で、つまり利権争奪の一芝居を風刺したものだといふ。

 忍路高島の唄は、女が男を恋ひ焦がれ妻が夫を慕い焦がれての、情を唄ったものとばかり思っていたのに、事実は然らず。恋愛を唱った情歌にはあらずして、利権問題を冷笑した風刺唄だといふ。(中略)

 松前藩の制度として、蝦夷各地方は行政の一部を城下の豪商連に請負わせた。殊に歳入の主なるものは、いふまでもなく漁業にあるので、納税の如きも請負人に代納せしめたのである。漁業の成績如何に拘らず、七箇年の収穫を平均した金額で、運上金を徴収した。これが責任を負ふものを請負人とし、御用達の列に加へた。御用達は請負人全体に及ばず、身分財産の勝れたるものを選定して命じたらしい。西川、岡田、藤野(以上江州人)及び伊達,栖原、村上以上六件であった。後代岡田、村山は廃して四軒となり、幕末松前藩経済の関係から第二級の御用が出来たといふ。請負は利益もあれど種々の負担もあり、就中蝦夷人を撫育し部内の治安を見なければならぬ。若し撫育治安の方法よかざる時は漁業場所返還命ぜられ或る期間は謹慎しなければならぬ責任もあった。

 その請負御用人の一人に、江州出身、西川徳兵衛といふのがあった。松前では支配人の名前を以て店名とした。西川徳兵衛は西川出店七代目の支配人で天保十年から安政三年に及ぶ。西川家は御用達請負人ではあるけれど、格式は士の班に列し、随分と幅を利かしていた。加之、特に蝦夷地の宝庫といはれた有利なる漁場、即ち、忍路、高島、歌棄、磯谷の四郡の漁業場所主であるから、おのづから他の請負仲間から羨望され嫉視されたのも無理からぬことである。而して西川家が占有する漁場を奪ひ取らうとする野心家が現はれた。この陰謀計画が、やがて「忍路高島」の唄を産むの動因とはなった。

 話題一転、文化四年(大正十五年より百二十年前)のことであった。幕府は松前藩松前志摩守章宏廣に命じ、蝦夷全島を上地せしめ、奥州梁川へ転封せしめ、十五年後の文政四年に再び松前に復封せしめた事実があった。この転封、復封の事変は、どんな理由で行はれたのか、明らかに知ること能はぬけれど、多分蝦夷撫育の不行届といふことが原因の主たる一つであったらしく思へる。

 然るところ、天保九年の頃、同じ福山城下に、桝谷某といふ一商人があった。彼れは何とかして西川程の勢力を得たいものだと野心を抱いてをった。藩主さへ転封されることもあるのだから、蝦夷撫育の欠陥をあばきだしたら、どんなことにならうやも知れぬ。現在の漁場の持主に変動を来たすやうなことも起こらうやも知れぬと思惑した。それで一方、当時藩の権威といはれた某家老職に取入り、陰謀を企つるに至った。

 野心家の腹では、忍路、高島は遠くして航運の便が容易でなく、従って経営にも多大の資本を要するので、それは到底及びもないけれど、せめて歌棄、磯谷ならば、交通の便もあり、資本も少くてすむことだから、この二郡の漁場は我が手に入れたいものだと目論見んだ。

 そこで、西川が責任を有する場所の土人間に騒ぎを促し、所謂、撫育不行届問題を起こし、土人を扇動し、土人から函館奉行へ訴へ出でしめた。函館奉行は松前町奉行へ取調方を命ずるに至り、調査されたる結果、西川の撫育上に、土人が訴へ出たやうな不行届はなしといふ判決で、当時の運上所支配畑中某を罷免しただけで事済みとなり、折角企てたる野心家の陰謀は水泡に帰した。

 然るところ嘉永五年は運上金改正の時期であったので、多年の持主たる西川徳兵衛より歌棄、磯谷の二郡を返還せしめ、野心家から買収されていたといふ某当局者の魂胆もあったゆえか、終にこんどは野心家といはれたる桝谷某の所有に帰したといふ説が伝はってをるのである。

 それで、天保十年ごろ(大正十五年より八十年程前)松前城下に、次の如き落首が現はれた。落首に曰く、

 忍路高島およびもないが、せめて歌棄磯谷だけ 

 そのころは、まだ新聞といふものもなく、落首といって、人知れず紙片に風刺的の狂歌だの俗謡だの、軽口やうのものを書いて、路ゆく人の眼にとまるやうなところへはりだしたもので、一時は随分流行したものであった。

 今、この一首の落首が、当時藩政の腐敗、及び暗に西川家と野心家との事件を説明して余りあるものと思はれる。一たびこの落首が現はれ、終に松前節で唱はれることになり、やがては松前追分節の元唄の如く伝唱されることになった。

 忍路高島及びもないが・・・・・この唄は、哀々切々たる叙情歌として伝唱されて来た。女が男を慕ひ焦れたる断腸の唄として愛吟されて来た。けれど史実の示すところは、全然漁業場所の争奪に由来する風刺の唄であるといふ。(中略)

 この唄をかりに情歌とすると、神威岬を境とし、石狩、増毛は大場所で、漁業家も多く、住民も多数のことだから、漁夫たる夫を慕ふ女房ならば、先ず「石狩増毛はおよびもないが」と唱ひさうなはずだといふ人があり。更に地理的に考へて「小樽石狩及びもないが」又は「古平余市はおよびもないが」と唱ひさうなはずだといふ人もあり。又次に、神威の手前の場所を指すにしても、歌棄磯谷に限りはせぬ。寿都あり、古宇あり、下の句を「せめて岩内古宇まで」と唱っても情の唄の意は通ずるといふ人もある。

 唄に唱はれて、消し去ることのできぬ印象となってしまった忍路、高島、歌棄、磯谷の郡名が、女の男を戀ひ慕うふ意の表現には要素ではなく、漁業場として有利有望なる場所として、その名が唄の基調となっているのではあるまいか。

 蓋し、右の如く述べ来ったものの、私は従来の伝説が実か、以上の記事が実か、判断を下さうとはせぬ。今日まで私が調べた唄の中にでも「高い山から谷底見れば」の文句でも「わたしゃ備前の岡山そだち」の文句でも、其の起原をたづねると、いづれも生活境遇に対する風刺詠嘆であって、案外なる由来をもってをる。それで「忍路高島」の唄にしても、資料によると実に斯の如くに判断されるといふまでだ。

 松前節の曲調といふものが、いつのころから発明されたものか、それは明白にわかりかねる。松前節で最初に唱はれた唄が、どんな文句であったか、それも勿論知る由はない。けれど「忍路高島」の唄が、最初は天保十年頃、松前城下の落首として現はれ、下の句の「歌棄磯谷だけ」を「歌棄磯谷まで」と変へて松前節で流行したといふことに対しては、別に他の記録証拠を挙げて説明されるまでは、如上の事実は、この唄の由来を確説したる唯一の史実だといはれても、反証の上がるまでは一応首肯しておかう。

 今、思ひ出すことは、歌詞の上に一つの暗示となる落首である。

 田沼様には及びもないが、せめてなりたや公方様

 右は安永天明の頃、十代将軍家治の治下、老中田沼意次の専制に対する落首俚謡であって、世上に随分唱はれた。「及びもないが」といひ「せめて」といひ、一般民謡に耳慣らされたる言葉であったことを知りたい。この落首の如きは好実例の一つというてよい。

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 西川家が「忍路」を請け負ったのが、寛延二年(1749年)。

「高島」を請け負ったのが、宝暦二年(1752年)。

「歌棄」「磯谷」を柳谷庄兵衛より譲り受けたのが、文政十三年(天保初年)(1830年)。

 従って、

 ーーこの忍路高島の唄は、天保の初年(大正十五年より九十六年程前)に起こった、松前福山の城主松前氏治下の一陰謀事件で、つまり利権争奪の一芝居を風刺したものだといふ。ーー

とあるが、その年は歌棄磯谷を請け負った年であって、勘違いでしょう。

 陰謀事件が発生したのは七代目西川徳兵衛が支配人であった時期で、首謀者は桝谷榮三郎という野心家。かくて、

 おしよろ たかしま およびもないが せめて をたすつ いそやたけ

という落首が松前城下各所に張り出されたのであります。

 

 この歌詞について別の説もありますので、次回はそちらを紹介します。

なお、義経伝説についてはこの歌詞に関する限り、あまりに荒唐無稽につき取り上げません。