歌詞考2-3

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 野村 公氏が昭和39年12月に発表した『民謡「江差追分」の研究』の中で、興味ある説を述べております。

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 江差の歴史は漁業の歴史といわれ、江差の人達の生活は鰊漁を土台に営まれてきたのである。北海道の西海岸一帯は、もともと公開で制限なしの漁場であったが、元禄4年(1691)「追鰊禁止令」が出され、以後熊石以北へは行けなくなった。しかし、享保4年(1719)からは、税金を払って許可を得、春出かけて秋に帰るようであったが、越年居住は許されなかった。鰊漁は安永5~6年(1776~7)から福山が不漁になり、天明2~3年(1782~3)には江差も又不漁になり、同4年以降は、全く漁獲がなくなった。

 鰊はだんだん北上し、江差不漁の時は、島小牧から歌棄磯谷にかけて豊漁であり、寛政4年(1792)になると更に北上し、奥蝦夷積丹以北)が主な漁場であった。

 江差の漁民は追漁のため、モツタ岬、雷電岬、神威岬の難所を切りぬけ、西蝦夷の遠くへ出漁していたのである。「忍路高島」の歌詞は、この追鰊の漁民が、自分達の心のねがいを歌い込んだものとして次のような解釈ができよう。

   江差の浜では鰊がとれなくなった。遠くの忍路高島まで出かけて行けば、鰊はい

   くらでも獲れるのだが、それには、波の荒い、岬の難所をいくつも越えて行かな

   ければならない。だから、せめて、漁は薄いが、近場所の歌棄磯谷までは行きた

   いものだ。

 以上のことから、この歌詞は寛政4年(1792)から、鰊漁挽回の文化5年(1808)までの間に作られたものと考えることができる。 

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  最後に、鶏と卵ではないが、この歌詞が落首を元として「いそやたけ」が「いそやまで」に変化して唄われるようになったのか、はたまた、『風濤成歌』に述べられているようにーー天保の頃よりかなり前から唄われていた「忍路高島」の文句の末尾の二字だけを変えて落首に応用したと考える方が妥当ーーなのか、はたまた、鰊が獲れなくなった漁師の願望なのか、今の私には判断しかねますのでこの歌詞についてはとりあえずここまでとします。ただ、西川家の請負っている四つの「場所」が双方に読み込まれているのが単なる偶然とは思われないというのも、また確かな事であろう。
  しかしながら、「だけ」といい、「まで」といい、たった二文字の違いではあるが、その世界観、人生観には雲泥の差があります。たとえ、それが落首風刺唄が元になったものだとしても、「まで」の内包する深さの価値を減ずるものではないでしょう。

                                 了