鷗島
(江差町郷土資料館より)鴎島
江差には都合11回訪れました。内訳は、追分会に入る前の若い時の個人旅行で2度、セミナーで4度、全国大会で5度である。「鷗島」にはその都度必ず訪れました。江差の風に当たり、江差の匂いをかぐにはこの上ない場所だと思ったからです。正直、この鷗島の上から日本海に向かって江差追分を唄える人がうらやましいです。それほどにこの島の上から見る日本海は素晴らしいです。うまく表現できないが、わしの暮らす太平洋の海とは違う何かを感じます。
かつてここの浜に鰊が群れ来て、「江差の五月は江戸にもない」と謳われるほどの活気を呈していた江戸から明治にかけての時代を、守り神の様にジッと静かに見守って来た鷗島。明治の20年代以降、鰊の群れ来ることのほとんどなくなった江差の浜。そこに残ったものは何か・・・・・。
「鷗島」は江差港にある海抜20m、周囲約2.6kmの陸繋島です。島の入口付近は砂浜になっていて、島に向かって右側は「前浜」、左側は「えびす浜」と呼ばれています。
この鷗島は、古来江差を江差たらしめていると言ってもよいくらいの生命の島でありました。海側から日本海特有の強烈な風雨が襲ってくるので、それらを遮る自然の防風壁として利用されたのです。この島によって江差は天然の良港となり風光明媚な町となり、また古来、様々な伝説を生んだのです。
江差にまだ鰊が群来ていた頃は、それを追って鷗が多く来てこの島を棲家としていたので鷗島と言ったともいい、あるいは鷗が羽を広げたような形が似ているのでそこから取ったともいうが、また、アイヌ語のカムイ(神)シリ(島)それが転化してついにカモメジマとなったとも言われています。
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上の写真は、神奈川県藤沢市の片瀬地区にある「江の島」です。海抜60m周囲4km、ほどなので、鷗島よりは高さで3倍、広さで1.5倍ですが、同じ陸繋島で古来は引き潮の時のみ洲鼻(すばな)という砂嘴(さし)が現れて対岸の湘南海岸と地続きとなって歩いて渡ることができたそうです。わしの子供の頃にはすでに木の橋が出来ていましたが今はコンクリートの橋です。
島の裏側にある「岩屋」の洞窟内には弁財天が祀られており、歌舞音曲の守護神とされたため、歌舞伎役者や音楽家なども数多く参拝したのです。
謡曲の『江島』(えのしま)には、「そもそもこの弁天は欽明天皇に仕えた臣下であったが、ある時不思議な奇瑞がが色々と起きて、海上に一つの島が湧出した。これを江野(こうや)になぞらえて、江の島となずけた」とある。
わしなどは近くの浜辺からこの「江の島」を眺め、これを「鷗島」に見立てて♪かもめ~とやっております。
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この「鷗島」、江戸時代くらいまでは「弁天島」と呼ばれていたようです。
鷗島に厳島神社という社がありますが、建立当時(1615年元和元年)は「弁財天社」と名付けられていました。それが1868年(明治元年)に現在の名称に改められたのです。
もともと、弁財天は水辺や島など水に関係がある場所に祀られていることが多い神様なので偶然とはいえないものの、遠く離れた両島に共通するものがあるのは江差追分愛好者としては嬉しいものがあります。
姥神の伝説と瓶子岩(『正調追分節』三木如峰 昭和14年)
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江差の町がまだ淋しい片田舎の一漁村であった昔の事である。おりえ婆さんという一人の姥が津花の地に草庵を結び住んでいた。不思議にこの婆さんは雲を見ては雨の降ることを知り、天を仰いでは風の吹くことを察し、天地人文あらゆる予言が的中することさながら仙女のようであったので、人々は神様のように敬い尊んでいた。ある年の二月の初め頃、夜の丑三つ時、神島(今の鷗島)から橋を渡したような光輝が虹のように姥の草屋を射た。姥は目を覚まして驚きつつも、その光輝に従って島に渡り、これを仰ぎ見れば髪の白い老翁が岩上に座って柴火を焚きながら、おりえ婆さんを招いているではないか。おりえ婆さんは恐る恐る老翁に近づけば、老翁は小さい瓶を与えて言うには「この瓶の中に白い水がある、汝がこれを海中にまいたならば忽ち大海の色が変わり、鰊という小魚が海岸に群来るであろう。島人は春毎にこれを護って業となし衣食の資とせよ。われ汝と共に永く島人を護らん」と告げ終わると忽ち柴火と共にその姿を消してしまった。
姥は不思議に思いながらもその老翁の教えのままに浜辺に火を焚き、手を洗い清めて祈りを捧げつつ、小瓶の水を海中に撒けば、果たして海水は米のとぎ汁の様に色変りて、やがて鰊が真っ黒く銀鱗を輝かせて群来てきた。そこで皆に網を投じさせると鰊が網に満ち満ちて、江差の浜は鰊の山を築く有様となった。
すべてを見届けた姥は「毎年春毎に網を投じて生業となし決して他所へ移り変わってはならぬ」と教え諭して何処ともなく行方をくらましてしまった。人々は驚いて方々を探し廻ったが遂に見当たらなかったので、母親を失ったように落胆した。泣く泣く老婆の草庵に集まって見るならば神像が祀られてあった。何神であるかは判断がつかなかったが江差の人々は「姥が神」と称して洞を造って永く尊崇することになった。その後、年経て神職藤原永武という人が来てこの姥の神は天照大神・天兒屋根命・住吉大明神の御尊体であると人々に告げたので、生保元年今の所に祀ったのが、現在の懸社姥神大明神の由来だということである。
また、おりえ婆さんが海に投げた小瓶はそのまま石になった。今、鷗島の付近にある瓶子岩がそれであると伝えられている。
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瓶子岩と鳥居 byBATACHAN
より詳しくは、以下を参照してみて下さい。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1461660/30
https://esashi.town/tourism/page.php?id=101
鷗島に関係する義経伝説
その発端は津軽の三厩伝説です。
《義経公は蝦夷へ渡らんと、此の三馬屋が岬に来られた。所が波風激しく、渡る術もなかった。それで義経は一心に観世音菩薩を祈り奉る事三日三夜にして感触があった。即ち観世音は白髪の老翁と変現して、義経に三疋の龍馬を与へ、この馬に乗って渡るべしとお告げになった。義経感涙にむせんで海辺を見れば、三匹の龍馬が嘶き来たった。それでこれを捕えて岸につないだ。それでこの里を三馬屋と名付けるのである。》『龍馬山観世音菩薩緑記』
そして義経が江差に第一歩を踏み入れたのが「鷗島」であるという。
馬岩
義経が津軽の三厩で白髪の老人にもらった白馬はこの鷗島の「えびす浜」側に残され、岩になって主を待ち続けているという。
また、一説にはアイヌたちに追われた義経が白馬に鞭打ってここまで逃げ延びて、この岩に馬をつないでいたところ、馬は寒さと飢えで死にそのまま化石になったのだともいう。
馬岩の後ろの島の登り口左手にある洞窟は、弁慶が義経から預かった六韜三略の巻物を隠した場所といわれる。
弁慶の足跡
なお、次の三か所が江差町の史跡文化財として指定されています。
かもめ島砲台跡 2ケ所 【昭和56年7月14日】
北前係船柱及び同跡(かもめ島周辺) 【昭和57年7月22日】
北前船飲用井戸 【昭和57年7月22日】
鷗島を唄い込んだ歌詞
♪松前江差の鷗の島は 地から生えたか浮島か
かつて大漁であった頃には、この島は港内に群がる鷗の好適な休憩場所なっていたもので、その為島全体が埋もれ、あたかも数千の鷗が海上に浮いているように見え、地から生えているのでなくて浮島ではなかろうかというのである。
同じような歌詞は各地に見られます。
〇島で名所は仙酔島よ 根から生えたか浮島か(岡山県小田郡船唄)
〇鞆の向ふの仙酔島は 地から生えたか浮島か(広島県加茂郡船唄)
〇島で名所はかづさの岩戸 根からはえたか浮島か(長崎県南高来郡雑謡) 〇三崎城ケ島は見事な島よ 根からはえたか浮島か(三崎甚句)
〇さても見事な安島の雄島 地から生えたか浮島か (三国ぶし)
〇向こうに見ゆるは淡路の島よ 根からはえたか浮島か(明石の盆踊り唄)
♪松前江差の鷗の島は 地から生えたか渡島か
弁財船は帆柱一本につき三か所くらい棒杭に網をつけて、島の内側に碇泊していて、その船べりが接しているので渡って歩くによかったのです。
♪島の鷗か鷗の島か 鷗に聞いたらわかるじゃろ
♪姥が神代の昔も今も 土地の華なり鷗島
♪江差千軒昔が恋しヤンサノエー 倉は千こす二百軒
千石弁財船橋かけてネ 渡す江差のかもめ島
♪今宵入船江差の港ネ はるかに見えるはかもめ島
♪ここは何処よと船頭衆に問えばネー ここは江差のかもめ島
♪むかし変らぬかもめの島に 女波男波の花が散る (若山せい子)
江差新聞社主催追分歌詞コンクール第1位 昭和31年1月
♪辛い思いを潮に乗せてヤンサノエー 北の国かよかもめ島
波間に見ゆるは江差の浜辺ネ 風と追分人を待つ (長谷川富夫)
第35回記念江差追分全国大会新歌詞
参考文献
蝦夷民謡『松前追分』古舘鼠之助 大正9年
『追分節物語』横田雪堂 大正9年
『純粋の江差追分』村田弥六 大正9年
『清元研究』忍頂寺務 昭和5年
『蝦夷地に於ける和人伝説考』深瀬春一 昭和11年
『正調追分節』三木如峰 昭和14年
『江差追分』江差追分会 昭和57年
『風濤成歌』江差追分会 平成11年