湯朝竹山人と追分節Ⅲ

 『歌謡集稿』
  信州の追分節(昭和3年)/226

 ♪ 西は追分 東は関所 関所越ゆれば 旅の空
 信州追分節の特色は、旅客と飯盛と遊女との触れ合いから生まれたものと知って、この唄の伝える味が酌みとれる。馬の歩調から産まれたという一般馬子唄共通の約束であったであろうけれど、唄を歌おうとする人心の欲求は、やはり人情美の欲求であり表現であることはいうまでもない。「旅の空」の結句が当時の旅客の心理を表現するものではあるまいか。
 十年前、故黒岩涙香先生から、この信州追分節の元唄が、この「旅の空」の文句であると思うから調査して見よといわれ、機会あるごとに調査したが、残念ながら今に至るも文献記録の出典を知ることが出来ない。

 ※黒岩涙香(1862~1920)は探偵小説家、翻訳家、ジャーナリストで、『萬朝報(よろずちょうほう)』の創刊者でもあった。


   (1)追分節変遷の推定説

 追分節の最初の発生地も年代もはっきりとはわからない。信州の追分節である馬方唄が追分節を代表する唄の一つであり、信州追分節が中仙道の馬子唄となって、越後方面に伝わり、やがて越後追分節を産み、それがまた新潟に行き、津軽に行き、さらに松前福山へ伝わり江差へ伝わり、移り伝わるごとに曲節の変化を生じ、その土地土地で新しい歌詞を産み、源は一つだが変遷推移の結果、各地方地方で特殊の追分節をもつことになったのであろう。東北方面では南部地方にも古くから馬方節が伝わっているが、信州馬子唄との関連は疑問があり、ほとんど影響関係はなかったと思われる。信州から越後へ、それから裏日本の海岸をたどって北へ向かったものと推定され、海路通行関係上から、自然の経路であろうと推察される。

 ※追分節の元は馬士唄からというのは定説である。その馬士唄の元を「南部馬方節」であるとする民謡研究家もいるが、影響関係があったのかどうかは、どちらとも断定できかねる。特に東北方面に文献が乏しすぎるのである。


   (2)初て知る信州追分唄

 信州追分節といっても、それがことごとく馬方節労働唄と思うのは誤解である。どの地方の民謡でも、最初は伴奏楽器のない原始調だが、後には必ず三味線を使うお座敷唄となる。「さんさ時雨」でも「松前節」でも「博多節」でも楽器は後に伴奏役をつとめることになったものだ。信州追分節のようなのは馬方が馬の歩調をもとにして生まれた曲節であることは疑いの余地はないが、現存する歌詞を吟味すると、労働者の唄った文句と女性のお座敷唄とは明らかに相違がある。本来4句26文字の信州の追分節も中には字余りもあれば字足らずもあり、原句の欠けたものも伝わっている。

   (3)追分節に関係する地形

 碓氷峠の西が避暑地として天下に知られる「軽井沢」で、その西が「沓掛」で、その西が「追分の宿」である。唄の文句に「三宿」というのが出てくるのだが、それは坂本、軽井沢、追分を碓氷三宿と言い。軽井沢と沓掛と追分とを浅間三宿と称されることを知っておきたい。追分宿の北が「雲場ケ原」で、直ぐに「浅間山」が頭上におッかぶさるように威張っている。追分の西が「小諸」で、その南に「岩村田」という順序になっている。

   (4)先づ『浮れ草』七首
   (5)西は追分東は関所
   (6)浅間山を唱へる文句
   (7)追分と沓掛と軽井沢
   (8)小諸の古調と碓氷峠付近

 ♪小諸出て見りゃ浅間の山に 今朝も煙が三筋立つ
 ♪小諸出て見りゃ浅間の煙は 今日東へ吹いて出る
 ♪小諸出ぬけて松原行けば いつも三筋の煙立つ
 小諸、今日ではコモロという、古くは「小室」といったそうだ。「小諸出て見よ」の句は古くかつ広く伝唱された文句と見える。幕末の頃は江戸で端唄に唄われ、歌沢に唄われ今日に伝わっている。小唄節でも盛んに唄われている。 

 ♪小諸出て見りゃ浅間の山に 今朝もけむりが三筋立つ ヤレよいやナよいやサ
                               (流行小唄節)

 ♪小諸出て見りゃ浅間の山に 今朝もけむりが三筋立つ 天へのぼりて雲となる

                               (端唄稽古本)
 江戸で唄われた馬子唄の小室節が、もしこの信州小室から起原するものであったら、文献的に貴重な文句といわねばならない。

 ※ 江戸で唄われた馬子唄の小室節とは、『吉原はやり小唄総まくり』(1662年)にある、「日本橋より大門まで並み駄賃弐百文馬奴二人小室節うたふ かざり白馬駄賃三百四十八文」や、菱川師宣『吉原恋の道引』(1678年)の「日本橋より大門まで並み駄賃弐百文、馬奴、こむろぶし歌ふ」のこと。詳しくはこのブログの「小室節」参照してください。

   (9)俗曲調および類型模倣唄

 ♪色の道にも追分あらば こんな迷いはせまいもの
 余りに広く知れ渡っているため、この唄なども粗末に思われているけれど追分節としては広く唄われて来た。この一首が北海松前節にまで伝唱されているのが不思議なほどだ。北海道にこの「色の道」の文句が伝わっているという事実は、信州追分節の北遷と何らかの関連のあると思われる。

  ※「歌詞考1」参照

   (10)最後に『粋の懐』の四首

 文久二年(1862)、大阪で発行された一荷堂半水の『粋の懐』第七編に「追分ぶし、二上がり」として、以下の四首が載っている。


 ♪あいはせなんだか遠江灘で おもふそさまははや上下
 ♪笠を手にもちどなたもさらば いかいおせわになりました
 ♪鳥もかよはぬ玄かい灘を 風にまかした帆がにくい
 ♪咲てほころぶアノ山ざくら とけてはるさめは化粧のみづ


 信州にも松前にも縁のない文句だが、第二の「笠を手にもち」の一首は前出「色の道」と共に松前追分節で普く唄われている。第三の文句は更に広く全国的に流布している「鳥も通はぬ八丈が島」のように、同じ追分節といっても、山路坂路の唄と、海洋の唄と別の方面に進出した推移を考えさせられる。
 初め陸で唄われ、次いで海へ行き、労働作業と生活環境とで曲節と間調子と歌詞とが自然に変化をきたしたものである。こういった項目を考えるにあたっては、過去の民謡調査というものがいかに困難であるかを物語っている。

 

  松前追分節の話/246
   (1)正調節か新派節か
 古調の時代にあっては、七節を各人好きなところで息継ぎしていたのを、平野源三郎や越中谷四三郎などが七節を七声で唄うことに決め、そしてこれに『正調』の名を冠せた。
だが、古調に対しての新派の調なのであるから、本来、新派節とでも名付けるのがふさわしいと思えるが、世間一般に正調追分節として通じているので、今更如何ともしがたい。ただ正調の意味が本来的に理由のあってのことでなく、ただ唄い方を七節に変えたというだけの意味であることを、明記しておく必要がある。
  ※因みに現在、『正調』とは「七節七声」「八つの節」のことです。

   (2)忍路高島唄の由来

 内容については、このブログの「歌詞考2-2」に載せましたので省略します。
   (3)安田磯女の談話筆記

 この談話筆記は、大正15年に竹山人が東京本郷森川町で松前節の師匠をしていた安田磯を訪ねて話を聞いたものであるが、追分界にとって貴重な記録であります。
 磯女は明治7年、松前福山で生まれた純粋の松前生まれで、明治15年9才の頃、福山の松川家小蝶に松前追分を習った。小蝶は天保14年頃から芸者に出ておって、後には松金家というお茶屋の女将となった女である。ということは、磯女の松前追分節天保の調べを伝えているものであって、追分節界では最も古い松前調を伝承している一人である。
 明治19年、14才の頃、磯女は福山の菱屋から芸者に出たのだが、その頃の記憶では追分節は明治27・8年の日清役の頃までは盛んに唄われたが、戦役後はパッタリ衰えてしまったそうだ。芸者でさえ十名足らずになったため、磯女も24・5年頃、まず江差に行った。江差の新地町には100人くらいの芸者がいたが、追分節は衰微していて、僅かに新地町桜井の竹吉一人が唄っていたくらいに過ぎなかった。村田弥六が浜小屋追分を唄っていたが、平野源三郎の名などは耳にしたことがなかったという。その後さらに、寿都、岩内、小樽、札幌へと出稼ぐことになったが、小樽、札幌が発展するにつれて、追分節もまた復活の傾向を見ることになったという。
 磯女が小樽で芸者に出たのは、明治30年頃で、そのころ小樽の芸者の内で追分節の上手といわれたのは、りつ、小金、美代吉、友吉、そして才三(安田磯)の五名であった。しかしながら、小樽の追分も長続きはせず、いつしか追分の流行がさびれたが、大正になって再び小樽の追分も活気を呈するようになった。磯女は大正四年、小樽から東京へ居を移し、松前追分節の三味線を教授している。
 ※以下は追分節の唄い方の記述があるが、それはこのブログの「正調江差追分の唄い方Ⅰ」に昔の唄い方として載せておいたので、そちらを参照してください。

 

  松前追分節断編/264
   (1)東京で追分の元祖
   (2)東京隴上会の宣伝
   (3)松前追分節元唄

 北海道の追分節の元唄は、「忍路高島及びもないが、せめて歌棄磯谷まで」だと思っていたが、どうも調べて見ると、「大島小島の間(行く)通る船は、江差通いかなつかしい」が元唄ではないかと思う。近頃は、北海道の追分節江差追分というふうに言い、江差追分節の発生地であるかのように思われているようだが、松前城下の福山が江差よりも古くかつ本場ではなかったか。大島小島の間通る船は、江差通いかなつかしい。もちろんこれは福山城下の人が自然に唄ったものだろう。南から北へ、北から南へ、福山沖の海路は、昔は大島と小島の間を航行したものだという。この唄は城下の福山で唄われてこそ伝唱の価値があるのだ。
   (4)江差労働者の野調

 江差あたりの船頭や労働者の追分節は、大海の波を調子に唄ったと思える過去の声調を伝えている。江差あたりで追分名人などという看板を持たない無名の労働者たちは、もちろん楽器の伴奏なしで唄っていた。これが本当であると思える。

  松前追分節研究資料/274