三坂馬子唄


 愛媛県中部、久万高原の久万盆地にある上浮穴(かみうけな)久万町は、土佐街道

沿う旧宿場町であり、木材の町としても知られている。江戸時代から、木材は馬車に積

まれて松山に運ばれた。この道中に三坂峠があり、この三坂峠は「三坂三里は五里ござ

る」という悝謠が伝わっているほど久万街道最大の難所であったところで、久万産の木

材を馬に乗せ松山城下に向かい、生活物資を代わりに戻ってくる往復に一昼夜かかり、

その道中の行き帰りに唄われたのが「三坂馬子唄」なのです。


 西日本ではいわゆる「馬子唄」はそれほど多くない中で、これは西物の馬子唄の中で

は大変美しいメロディのものではあります。


♪ むごいもんぞや 久万山馬子は 三坂夜出て 夜戻る


などは、三坂峠がいかに難所であったかが偲ばれるものであり、三坂峠を越え松山城

まで、片道八里の道のりを一昼夜かけて、物資運搬をしていた久万山馬子たちの過酷な

労働の中から生まれた、なんとも切ない唄です。

 

(ハイハイ)三坂越えすりゃ(ハイ)雪降りかかる(ハイ) 戻りゃ妻子が(ハイ)
 泣きかかる(ハイハイ)

 

♪ わしも若い時ゃ城下まで通うた 高井の川原で夜が明けた


♪ わしも若い時ゃ久万まで通うた 三坂峠で夜が明けた


♪ わしが若い時ゃ小田まで通うた 小田の河原で夜が明けた

 

♪ 馬も辛かろ馬子衆も辛い 久万の三坂を後に見て


♪ 馬子も辛かろ峠にかかりゃ 月の明かりと鈴頼り

 

♪ むごいもんぞや久万山馬子は 三坂夜出て夜戻る


♪ むごいもんぞな明神馬子は 三坂夜出て夜戻る

 

♪ 馬よ歩けよ沓買うて履かそ 戻りゃ唐黍とうきび煮て食わそ


♪ 馬よ歩けよ沓買うて履かそ 二足五文の安沓を

 

♪ 三坂峠を手綱をせなに 越えりゃ松山近くなる

 

♪ 急げ栗毛よもう日が暮れる 戻る山道 辛くなる

 

♪ 遠い山道鈴の音するが あれは荏原の兼さんか 

正調江差追分歌詞集Ⅱ

『後唄』
 『後唄』は、いつ頃、どこで、誰が、加えたのだろうか。
 「江差追分」のはじめは『前唄』も『後唄』もなく、全部『本唄』の26文字であって、これを二回繰り返して唄っていたのです。これを大正に入って、「江差追分」を興行で唄うようになってから、『前唄』・『後唄』を付けるようになったのです。
 当時の北海道を中心とする巡業の芸人たちの興行形式は。人気絶頂の浪花節の舞台をまねることであった。つまり、この、『前唄』・『後唄』浪花節の枕のようなもので、『本唄』を二つ続けて唄うのは能がないので『前唄』-『本唄』-『後唄』から成る三つ揃いを考えたのである。その際、『前唄』-『本唄』-『合の手』としなかったのは、名称に統一がとれなかったためでしょう。
『前唄』の項目の中で紹介した山田氏は、『江差追分節の来歴』の第四回に次のように書いている。
ーーーーーーーーーー
 関西尺八界の大家、内田秀堂氏は民謡に関して相当の権威者であって、わが江差追分節につても既にひとかどの見識のある意見をもっていた。すなわち江差追分節は単に前歌だけでは到底本唄の意味をはっきりさせることが不可能であるから、その本唄の意味を更にもっと緊張させるには、歌全体の均斉をとる上で後唄(送りともいう)をつけ加える必要があると強調するに到った。これをこの道の熱心家三浦為七郎が神戸から北海道に来た大正十年の夏、同好者と歓談交遊の際大いに宣伝に努めたのである。それからこの後唄をつけて唄う新しい試みをするものが漸次拡充していったのである。
ーーーーーーーーーー
 これが事実だとするなら、『後唄』は大正十年夏に、内田秀堂が案を出し、三浦為七郎が広めたということになる。
 この『前唄』ー『本唄』ー『後唄』の組み合わせは、どう組み合わせるかは歌い手の自由で、好きに組み合わせてよいのだが、とは言ってもある程度の整合性がないと情感が湧かないわけです。『後唄』として唄われることが多くても、それを『本唄』として唄ってはいけないということはなく、「ネー」をはずして『本唄』として唄うこともあるのです。更には『前唄』の半分だけを『本唄』や『後唄』に活用するすることもあったのです。

 

♪恨みあるぞえお神威様よネー なぜに女の足止める

 

蝦夷地海路のお神威様はネー なぜに女の足止める

 

♪沖で鷗の啼く声聞けばネー 船乗り稼業はやめられぬ

 

♪なにを夢見て啼くかよう千鳥ネー ここは江差の仮の宿

 

♪誰を慕うて啼くかよ千鳥ネー ここは江差の恋の宿 (市川天涯)

 

♪泣くなと言われりゃなおせき上げてネー 泣かずにいらりょか浜千鳥

 

♪主は奥場所わしゃ中場所でネー 別れ別れの風が吹く (実相寺信男)

 

♪泣くに泣かれず飛んでも行けずネー こころ墨絵の浜千鳥

 

♪今宵一夜は緞子の枕ネー 明日は出船の波枕

 

♪月をかすめて千鳥が啼けばネー 波もむせぶか蝦夷の海

 

♪波にくだけし磯辺の月はネー 乱れながらも丸くなる

 

江差恋しと渚にゆけばネー 沖行くかもめと風だより

 

♪浜の真砂におもいを書けばネー にくや来て消す夜半の波

 

♪ならばこの身をかもめに変えてネー 後を追いたい主の船 (実相寺信男)

 

♪ここは何処よと船頭衆に問えばネー ここは江差のかもめ島

 

♪今宵入船江差の港ネー はるかに見えるは かもめ島

 

♪空飛ぶかもめがものいうならばネー 便り聞きたい聞かせたい

 

♪つらい思いに泣くのじゃないがネー 月がなかせる浜千鳥

 

♪花の松前紅葉の江差ネー 開く函館菊の紋

 


 
 以下は『前唄』『本唄』『後唄』のわしの好みの組み合わせです。

 

♪国を離れて蝦夷地ケ島へヤンサノエー 幾夜寝覚めの浪枕
 朝な夕なに聞こゆるものはネー 友呼ぶ鷗と浪の音

 

 鷗の鳴く音にふと目をさまし あれが蝦夷地の山かいな

 

 月をかすめて千鳥が啼けばネー 波もむせぶか蝦夷の海

 


♪空を眺めてホロリと涙ヤンサノエー あの星あたりが蝦夷ケ島
 逢いたい見たいは山々なれどネー かなしや浮世はままならぬ

 

 忍路高島及びもないが せめて歌棄磯谷まで

 

 恨みあるぞえお神威様よネー なぜに女の足止める

 


♪大島小島のあい通る船はヤンサノエー 江差通いかなつかしや
 北山おろしで行く先ゃ曇るネー 面舵頼むよ船頭さん

 

 沖のかもめよ流るる雲よ せめて伝えよこの心

 

 沖で鷗の啼く声聞けばネー 船乗り稼業はやめられぬ

 


♪荒い波風もとより覚悟ヤンサノエー 乗り出す船は浮世丸
 西か東か身は白波のネー 漂う海原果てもない

 

 荒い波でもやさしく受けて 心動かぬ沖の岩

 

 なにを夢見て啼くかよう千鳥ネー ここは江差の仮の宿

 

 

♪波は磯辺に寄せては返すヤンサノエー 沖は荒れだよ船頭さん
 今宵一夜で話は尽きぬネー 明日の出船を延ばしゃんせ

 

 泣いたとて どうせ行く人やらねばならぬ せめて波風穏やかに

 

 泣くなと言われりゃなおせき上げてネー 泣かずにいらりょか浜千鳥

 

 

♪添えぬえにしに故郷すててヤンサノエー 今じゃ流れの都鳥    
 想いこがれて渚にゆけばネー はぐれ千鳥の忍びなき

 

 泣いたとて どうせこの身は帰れるあてもない 母の面影なつかしや

 江差恋しと渚にゆけばネー 沖行くかもめと風だより
  松本勇悦が得意とする歌詞、レコードの「ソイ掛け」は初代浜田喜一と思われる。
  初代の流れをくむ唄い方である。また「もみ」に個性がある。


♪思いあまりて磯辺に立てばヤンサノエー あわれさびしき波の音
 沖のいさり火かすかに燃えてネー 遠く寄せ来る暮の色 

     

 月は照る照る夜は更けわたる 磯の波音高くなる

 

 浜の真砂におもいを書けばネー にくや来て消す夜半の波
  三浦為七郎の十八番の歌詞である。三浦一座には那須野亭月という座付き作詞者がいて、その作詞と思われる。ただし、三浦為七郎の唄は「八つの節」確立以前のものです。



正調江差追分歌詞集Ⅰ~Ⅱの参考文献
 『正調追分節』三木如峰 昭和14年
 『追分の研究』高橋鞠太郎 昭和14年
 『江差追分』国原州月 昭和43年
 『追分節』竹内勉 昭和55年
 『江差追分江差追分会 昭和57年
 『 風濤成歌』江差追分会 平成11年

正調江差追分歌詞集Ⅰ

 これは何もすべての歌詞を列挙しようというのではありません。いわばわしの「お好み歌詞集」です。それでもかなりの数になるでしょう。

 

『前唄』
 この『前唄』を編み出したのは、南部水沢の虚無僧、島田大次郎と言われている。
 昭和9年頃の「江差日々新聞」に、山田伝蔵という人物が『江差追分節と来歴』という題で連載をしているのだが、その第二回に次のように書いている。
ーーーーーーーーーー
 前唄は明治27年頃南部水沢の人で島田大次郎と言う虚無僧が、日本各地を歴遊した際、越後方面で盛んに歌われている船歌の囃子を応用して、いわゆる前唄を創成したものである。その初め「春の弥生に鳴く鶯は、桃ノ木小枝に法華経」という二節の歌詞に更につけ加へて「あれ見やしゃんせ小鳥でさえも、後生大事と法華経読む」と語句を集成して前唄というものの体系を完全に作りあげたのであった。島田大次郎氏が初め越後追分節につけて唄っていた前唄が、近世に至って江差追分節にも活用されることになったのである。
ーーーーーーーーーー
 ということは、この文章によれば、島田大次郎は「江差追分」に『前唄』をつけたのではなくて、「越後追分」の『本唄』-「合いの手」に『前唄』を加えて、『前唄』-『本唄』-「合いの手」とし、それを『江差追分」の人たちが取り入れたということなのである。また、《越後方面で盛んに歌われている船歌の囃子を応用して》とあるのは、「舟唄」の「エンヤラヤのこと」である。
 先の山田氏はさらに『前唄』につき次のように続けている。
ーーーーーーーーーー
 純正江差追分節と関係のない前唄のようなものは一笑にふしてしまうのは当然である(中略)元来、江差追分節に前唄をつけることは、地方民謡として育まれて来た権威ある曲節を傷つけるものであるとの意見は、だれしも同感であったのであるが、その後誰も彼もこれをつけて唄っていて、それがまた追分節を常に唄う人から見ても、まず本唄を歌う前に「声ならし」として前唄を歌えば歌の調子も吟味が出来、かつ精神の統制もついて非常にコンデーションがよいというのは、経験者の一致する意見だ。
ーーーーーーーーーー
 これを読むに、『前唄』江差のものではない、と言う人がいるのも当然なことではあるが、今日では深く根付いているのも確かな事であります。ゲストが舞台で唄うに『本唄』だけでは物足りないので三つ揃で唄うようになったということもあるでしょう。

 

♪国を離れて蝦夷地ケ島へヤンサノエー 幾夜寝覚めの浪枕
 朝な夕なに聞こゆるものはネー 友呼ぶ鷗と浪の音 (市川天涯)

 

松前江差の津花の浜でヤンサノエー 好いた同士の泣き別れ
 連れて行く気は山々なれどネー 女通さぬ場所がある

 

♪波は磯辺に寄せては返すヤンサノエー 沖は荒れだよ船頭さん
 今宵一夜で話は尽きぬネー 明日の出船を延ばしゃんせ (市川天涯)

 

♪大島小島のあい通る船はヤンサノエー 江差通いかなつかしや
 北山おろしで行く先ゃ曇るネー 面舵頼むよ船頭さん

 

♪荒い波風もとより覚悟ヤンサノエー 乗り出す船は浮世丸
 西か東か身は白波のネー 漂う海原果てもない (佐藤勘三郎

 

♪空を眺めてホロリと涙ヤンサノエー あの星あたりが蝦夷ケ島
 逢いたい見たいは山々なれどネー かなしや浮世はままならぬ

 

♪粋な船子が追分唄うヤンサノエー つれて啼くかよ浜千鳥
 船は追風(おいて)に帆をはらませてネー 恋し忍路をさして行く

 

♪煙る渚に日は黄昏れてヤンサノエー 沖にいさりの火が灯る
 江差よいとこ寝覚めの夜半にネー 通う千鳥の鳴く音聴く (市川天涯)

 

♪浮世荒波漕ぎ出て見ればヤンサノエー あだやおろかに過ごされぬ
 浮くも沈むもみなその人のネー 舵のとりよと風次第 (市川天涯)

 

♪波に千里の思いを乗せてヤンサノエー 月に掉さす筏舟
 浮世の苦労も荒波枕ネー 思い悲しや啼く千鳥

 

♪朝は朝霧夜は波枕ヤンサノエー 海路はるかに越えて行く
 蝦夷地恋しやお神威様よネー せめて想いを忍路まで 

 

♪荒い風にもあてない主をヤンサノエー やろか蝦夷地の荒海へ
 主の出船を見送りながらネー またの逢瀬を契り草

 

♪浮世の苦労も荒波まくらヤンサノエー 月を抱き寝の浜千鳥
 明日はいずこの大海原でネー 荒い波風しのぐやら

 

♪思いあまりて磯辺に立てばヤンサノエー あわれさびしき波の音
 沖のいさり火かすかに燃えてネー 遠く寄せ来る暮の色

 

♪添えぬえにしに故郷すててヤンサノエー 今じゃ流れの都鳥
 想いこがれて渚にゆけばネー はぐれ千鳥の忍びなき

 

 

『本唄』 
 『本唄』という言い方は『前唄』や『後唄』に対するものであって、『前唄』・『後唄』の発生以前は、「江差追分」といえば、『本唄』のみであったのです。またこれを、「ほんうた」という人もいれば、「ほんか」と呼ぶ人もいる。しかし、『前唄』は「まえうた」とは言うが「まえか」とも「ぜんか」とも言わないし、『後唄』も、「あとうた」とは言うが「あとか」とも「こうか」とも言わない。「ほんうた」だけが「ほんか」とも呼ぶのである。何故そう呼ぶかというと、推測だが、「ほんうた」より「ほんか」の方がなにか格調が高く、格好よく聞こえるような感じがするためであろう。
 この『本唄』、「正調江差追分」にあっては、今日では「七節を七声」で唄い、「八つの節」が必ず含まれなければならないとされております。


♪忍路高島及びもないが せめて歌棄磯谷まで 
    この歌詞については、「歌詞考2-1,2,3」を参照してください。

 

♪鷗の鳴く音にふと目をさまし あれが蝦夷地の山かいな
    この歌詞については、「歌詞考3」を参照してください。

 

♪恋の道にも追分あらば こんな迷いはせまいもの
    この歌詞については、「歌詞考1」を参照してください。

 

♪荒い波でもやさしく受けて 心動かぬ沖の岩

 

蝦夷地海路にお神威なくば 連れて行きたい場所までも

 

♪沖を眺めてほろりと涙 空飛ぶ鷗がなつかしや

 

♪沖のかもめよ流るる雲よ せめて伝えよこの心

 

松前江差の鷗の島は 地から生えたか浮島か

 

江差の五月は江戸にもないと 誇る鰊の春の海

 

♪寒い風にもあてない主を やろか蝦夷地の荒波へ

 

♪雪にたたかれ嵐にもまれ 苦労して咲く寒椿

 

♪泣いてくれるな出船のときに 櫓も櫂も手につかぬ

 

♪沖の鷗がものいうならば 便り聞きたいきかせたい

 

♪月は照る照る夜は更けわたる 磯の波音高くなる

 

♪せめてこの身が鷗であれば ついて行きたい主の船

 

♪今宵一夜は緞子の枕 明日は出船の波まくら

 


五字冠り『本唄』

  唄い手は、この初め五文字部分を平坦に、節をつけずに「ま、つ、ま、え、のー」

  と投げ出すように枕を振ると、大変に格好よく、情感が出しやすかったのである。

 

松前の ずっと向こうの江差とやらは 朝の別れがないそうな

 

松前は 昆布で屋根葺く細目でしめる 雨の降る度だしが出る

 

♪浪の音 聞くが嫌さに山家に住めば またも聞こゆる鹿の声

 

♪櫓も櫂も 波に取られて身は捨て小舟 どこへとりつく島もない

 

♪泣いたとて どうせ行く人やらねばならぬ せめて波風穏やかに

 

♪泣いたとて どうせこの身は帰れるあてもない 母の面影なつかしや

 

♪奥山の 滝に打たるるあの岩さえも いつほれるともなく深くなる

 

♪三味線の 棹に三筋の手綱をつけて 恋の重荷を引かせたい

 

♪竹ならば 割って見せたいわたしの心 中に曇りのないわたし

 

♪紫の 紐にからまるあの鷹さえも 落つれば蝦夷地の藪に住む

 

♪あいの風 別れの風だよあきらめしゃんせ またいつ逢うやら逢えぬやら

 

♪船底の 枕はずしてきく浜千鳥 寒いじゃないかえ波の上

 

 

 

わが詩集

江差追分に寄せて』(昭和54年32才時)
 
   荒磯の岩に砕けし波しぶき 鴎島に春遠からんを想う

 

   名人の唄を聞くたびわが芸の 遅々たる歩みがもどかしい

 

   いつの日かまことの追分もとめつつ 歩いてみたや江差の浜を

 

   波しぶく海に向かいて追分を 声も裂けよと繰り返すわれ

 

 

 

江差追分


♪はるか彼方のあの帆柱はヤンサノエー 蝦夷地がよいかなつかしや
 荒い波風乗り越え行きてネー どうぞご無事でゆかしゃんせ
 
 暗い波間に帆影が浮かぶ あれはあなたの乗る船か


 ついて行く気はやまやまなれどネー せめてなりたやかもめどり (令和2年2月8日)

 

 

♪遠くはるかに 立つ白波をヤンサノエー 越えてはるばる かもめ島 
 ほのかに見ゆる大島小島ネー ぽつんと一つ瓶子岩

 

 新地がよいの主さん憎くや 戻っておくれ浜小屋へ

 

 山の上よりかすかに聞こゆネー 三味の悲しや水調子  (令和2年2月22日)

 

 

 

 

『浜辺にて』(令和2年2月10日)


浜辺を歩み ふと見れば 波打ち際で 戯れる
鷗の群れが 愛らしい 侘しい浜の 昼下がり
沖の漁船の 陽に映えて 静かにじっと 二つ三つ  
寄せては返す 凪波へ 向って唄う 七節に
追分節の 万感を 込めるも空し 声のさび      
遥に霞む 大島と 伊豆の半島 かざし見て
あれが蝦夷地と 想いなす 手前に見ゆる 烏帽子岩
神威岩とも 見えようか

 

 

『江の島にて』(令和2年2月12日)

  
島の裏ての 岩礁の 波が砕ける 荒磯に
はて人か波か わからねど 洞穴穿つ その力
神も仏も 敬うが 恃むまいとて 思いしに
岩屋に住まう 弁天に 祈る心が あさましや
世に変えられぬ ものありて そは宿命と 例えられ 
世に変えられる ものありて そは運命と なぞられる  
音曲の神 弁天は そもそも水の 神ならん
第二岩屋の 龍神に 願いをかけて 御覧じろ

 

 

『愁い』(令和2年2月16日)
  
雨のしとしと 降る夕は 一人窓辺に たたずみて
古稀を過ぎたる 身を嘆き この先いかに 生くべきか
思案にくれて 如月の 庭を眺めて ふと見れば
椿のつぼみ 綻びて 雨の雫を 身にまとい
我にそも何を 囁くや 
好きなショパンの ノクターン 静かに聴くも もの悲し 

 

鷗島

f:id:daaji:20200207091257j:plain

                 江差町郷土資料館より)鴎島

 

 江差には都合11回訪れました。内訳は、追分会に入る前の若い時の個人旅行で2度、セミナーで4度、全国大会で5度である。「鷗島」にはその都度必ず訪れました。江差の風に当たり、江差の匂いをかぐにはこの上ない場所だと思ったからです。正直、この鷗島の上から日本海に向かって江差追分を唄える人がうらやましいです。それほどにこの島の上から見る日本海は素晴らしいです。うまく表現できないが、わしの暮らす太平洋の海とは違う何かを感じます。
 かつてここの浜に鰊が群れ来て、「江差の五月は江戸にもない」と謳われるほどの活気を呈していた江戸から明治にかけての時代を、守り神の様にジッと静かに見守って来た鷗島。明治の20年代以降、鰊の群れ来ることのほとんどなくなった江差の浜。そこに残ったものは何か・・・・・。

 

 「鷗島」江差港にある海抜20m、周囲約2.6kmの陸繋島です。島の入口付近は砂浜になっていて、島に向かって右側は「前浜」、左側は「えびす浜」と呼ばれています。
 この鷗島は、古来江差江差たらしめていると言ってもよいくらいの生命の島でありました。海側から日本海特有の強烈な風雨が襲ってくるので、それらを遮る自然の防風壁として利用されたのです。この島によって江差は天然の良港となり風光明媚な町となり、また古来、様々な伝説を生んだのです。
 江差にまだ鰊が群来ていた頃は、それを追って鷗が多く来てこの島を棲家としていたので鷗島と言ったともいい、あるいは鷗が羽を広げたような形が似ているのでそこから取ったともいうが、また、アイヌ語のカムイ(神)シリ(島)それが転化してついにカモメジマとなったとも言われています。

ーーーーーーーーーー

f:id:daaji:20200212105625j:plain
 上の写真は、神奈川県藤沢市の片瀬地区にある「江の島」です。海抜60m周囲4km、ほどなので、鷗島よりは高さで3倍、広さで1.5倍ですが、同じ陸繋島で古来は引き潮の時のみ洲鼻(すばな)という砂嘴(さし)が現れて対岸の湘南海岸と地続きとなって歩いて渡ることができたそうです。わしの子供の頃にはすでに木の橋が出来ていましたが今はコンクリートの橋です。
 島の裏側にある「岩屋」の洞窟内には弁財天が祀られており、歌舞音曲の守護神とされたため、歌舞伎役者や音楽家なども数多く参拝したのです。

 謡曲の『江島』えのしま)には、「そもそもこの弁天は欽明天皇に仕えた臣下であったが、ある時不思議な奇瑞がが色々と起きて、海上に一つの島が湧出した。これを江野(こうや)になぞらえて、江の島となずけた」とある。

 わしなどは近くの浜辺からこの「江の島」を眺め、これを「鷗島」に見立てて♪かもめ~とやっております。
ーーーーーーーーー

 

 この「鷗島」、江戸時代くらいまでは「弁天島」と呼ばれていたようです。
 鷗島に厳島神社という社がありますが、建立当時(1615年元和元年)は「弁財天社」と名付けられていました。それが1868年(明治元年)に現在の名称に改められたのです。
 もともと、弁財天は水辺や島など水に関係がある場所に祀られていることが多い神様なので偶然とはいえないものの、遠く離れた両島に共通するものがあるのは江差追分愛好者としては嬉しいものがあります。

 

姥神の伝説と瓶子岩『正調追分節三木如峰 昭和14年)

ーーーーーーーーーー
 江差の町がまだ淋しい片田舎の一漁村であった昔の事である。おりえ婆さんという一人の姥が津花の地に草庵を結び住んでいた。不思議にこの婆さんは雲を見ては雨の降ることを知り、天を仰いでは風の吹くことを察し、天地人文あらゆる予言が的中することさながら仙女のようであったので、人々は神様のように敬い尊んでいた。ある年の二月の初め頃、夜の丑三つ時、神島(今の鷗島)から橋を渡したような光輝が虹のように姥の草屋を射た。姥は目を覚まして驚きつつも、その光輝に従って島に渡り、これを仰ぎ見れば髪の白い老翁が岩上に座って柴火を焚きながら、おりえ婆さんを招いているではないか。おりえ婆さんは恐る恐る老翁に近づけば、老翁は小さい瓶を与えて言うには「この瓶の中に白い水がある、汝がこれを海中にまいたならば忽ち大海の色が変わり、鰊という小魚が海岸に群来るであろう。島人は春毎にこれを護って業となし衣食の資とせよ。われ汝と共に永く島人を護らん」と告げ終わると忽ち柴火と共にその姿を消してしまった。
 姥は不思議に思いながらもその老翁の教えのままに浜辺に火を焚き、手を洗い清めて祈りを捧げつつ、小瓶の水を海中に撒けば、果たして海水は米のとぎ汁の様に色変りて、やがて鰊が真っ黒く銀鱗を輝かせて群来てきた。そこで皆に網を投じさせると鰊が網に満ち満ちて、江差の浜は鰊の山を築く有様となった。
 すべてを見届けた姥は「毎年春毎に網を投じて生業となし決して他所へ移り変わってはならぬ」と教え諭して何処ともなく行方をくらましてしまった。人々は驚いて方々を探し廻ったが遂に見当たらなかったので、母親を失ったように落胆した。泣く泣く老婆の草庵に集まって見るならば神像が祀られてあった。何神であるかは判断がつかなかったが江差の人々は「姥が神」と称して洞を造って永く尊崇することになった。その後、年経て神職藤原永武という人が来てこの姥の神は天照大神・天兒屋根命・住吉大明神の御尊体であると人々に告げたので、生保元年今の所に祀ったのが、現在の懸社姥神大明神の由来だということである。
 また、おりえ婆さんが海に投げた小瓶はそのまま石になった。今、鷗島の付近にある瓶子岩がそれであると伝えられている。

ーーーーーーーーーー

f:id:daaji:20200207094251j:plain

          瓶子岩と鳥居 byBATACHAN

より詳しくは、以下を参照してみて下さい。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1461660/30

https://esashi.town/tourism/page.php?id=101

 

鷗島に関係する義経伝説


 その発端は津軽三厩伝説です。
 《義経公は蝦夷へ渡らんと、此の三馬屋が岬に来られた。所が波風激しく、渡る術もなかった。それで義経は一心に観世音菩薩を祈り奉る事三日三夜にして感触があった。即ち観世音は白髪の老翁と変現して、義経に三疋の龍馬を与へ、この馬に乗って渡るべしとお告げになった。義経感涙にむせんで海辺を見れば、三匹の龍馬が嘶き来たった。それでこれを捕えて岸につないだ。それでこの里を三馬屋と名付けるのである。》『龍馬山観世音菩薩緑記』
 そして義経江差に第一歩を踏み入れたのが「鷗島」であるという。


馬岩

f:id:daaji:20200207095023j:plain

 義経津軽三厩で白髪の老人にもらった白馬はこの鷗島の「えびす浜」側に残され、岩になって主を待ち続けているという。 
 また、一説にはアイヌたちに追われた義経が白馬に鞭打ってここまで逃げ延びて、この岩に馬をつないでいたところ、馬は寒さと飢えで死にそのまま化石になったのだともいう。
馬岩の後ろの島の登り口左手にある洞窟は、弁慶が義経から預かった六韜三略の巻物を隠した場所といわれる。


弁慶の足跡

f:id:daaji:20200207095140j:plain

 

 なお、次の三か所が江差町の史跡文化財として指定されています。


かもめ島砲台跡 2ケ所 【昭和56年7月14日】
北前係船柱及び同跡(かもめ島周辺) 【昭和57年7月22日】
北前船飲用井戸 【昭和57年7月22日】

 

 

鷗島を唄い込んだ歌詞


松前江差の鷗の島は 地から生えたか浮島か
 かつて大漁であった頃には、この島は港内に群がる鷗の好適な休憩場所なっていたもので、その為島全体が埋もれ、あたかも数千の鷗が海上に浮いているように見え、地から生えているのでなくて浮島ではなかろうかというのである。
同じような歌詞は各地に見られます。
    〇島で名所は仙酔島よ 根から生えたか浮島か(岡山県小田郡船唄)
    〇鞆の向ふの仙酔島は 地から生えたか浮島か(広島県加茂郡船唄)
    〇島で名所はかづさの岩戸 根からはえたか浮島か(長崎県南高来郡雑謡)      〇三崎城ケ島は見事な島よ 根からはえたか浮島か(三崎甚句)
    〇さても見事な安島の雄島 地から生えたか浮島か (三国ぶし)
    〇向こうに見ゆるは淡路の島よ 根からはえたか浮島か(明石の盆踊り唄)

 

松前江差の鷗の島は 地から生えたか渡島か
 弁財船は帆柱一本につき三か所くらい棒杭に網をつけて、島の内側に碇泊していて、その船べりが接しているので渡って歩くによかったのです。

 

♪島の鷗か鷗の島か 鷗に聞いたらわかるじゃろ

 

♪姥が神代の昔も今も 土地の華なり鷗島

 

江差千軒昔が恋しヤンサノエー 倉は千こす二百軒
 千石弁財船橋かけてネ 渡す江差のかもめ島

 

♪今宵入船江差の港ネ はるかに見えるはかもめ島

 

♪ここは何処よと船頭衆に問えばネー ここは江差のかもめ島

 

♪むかし変らぬかもめの島に 女波男波の花が散る (若山せい子)

   江差新聞社主催追分歌詞コンクール第1位 昭和31年1月

 

♪辛い思いを潮に乗せてヤンサノエー 北の国かよかもめ島
 波間に見ゆるは江差の浜辺ネ 風と追分人を待つ (長谷川富夫) 

   第35回記念江差追分全国大会新歌詞  

 

 

参考文献
蝦夷民謡『松前追分』古舘鼠之助 大正9年
追分節物語』横田雪堂 大正9年
『純粋の江差追分』村田弥六 大正9年

『清元研究』忍頂寺務 昭和5年
蝦夷地に於ける和人伝説考』深瀬春一 昭和11年
『正調追分節』三木如峰 昭和14年
江差追分江差追分会 昭和57年
『風濤成歌』江差追分会 平成11年

 

古調追分

 

f:id:daaji:20200127093442j:plain

 江差に発生した江差追分は、明治初期、江差地方の風土にとけこみ幾多の変遷を経ながら、愛好者の生活環境や労働形態の相違から、その微妙な節回し、止め方に違いができ多くの流派が生まれてきたのです。「浜小屋節」が最も古い型のようで、ついでその浜小屋節が新地に入って「新地節」となり、さらにこれらの追分は、いろいろな街道や山道を馬を曳いて歩く馬方の間に馬方節として唄われた。そうした馬方は江差の北の方、詰木石町を中心に住んでいたのでその追分の事を「詰木石節」という。


 「浜小屋節」は、津花の浜通りに住む、船子、漁師などの人々の間に唄われた労働歌で、また浜小屋の遊興のなかで唄われた唄である。別名頬かぶり節、地方にあっては在郷節とも呼ばれ伴秦楽器として三味線、太鼓が使われ、本唄の後に後で述べるような諧謔味のある囃子がつけられた。


 ♪ えぞ地海道に お神威なくば
   連れて行きたい 場所までも
  来たか丁さん待ってたハイ
  お前ばっかり可愛くてハイ (村田弥六)
 
 「新地節」(または旦那節、艶節、芸者節)は、花街で親方や船頭衆が三味線に踊りをつけ二上がり新内入りの追分など座敷唄として発達させたものである。
 ♪ 鳥も通わぬ 八丈が島へ
  (新内)「やらるるこの身はいとわぬ あとに残りし妻や子は」
   どうして月日を送るやら (高野小次郎)

 

 「詰木石節」とか馬方節といわれるものは、主として町内の詰木石地区(現、愛宕、新栄町)に住む馬方衆や職人達によって愛好され発達したもの。この頃には後ろにつける囃子詞は失われているが、この「詰木石節」が正調追分節へとつながっていったのです。


 以上の分類もきわめて概括的なもので、実際には美声の持主がそれぞれ一派を名のり、多くの派閥に分かれていたのである。
 こういう状態は明治中期までの様相で、これを「古調追分」と呼んでいるが、その当時の唄は本唄の後に囃子をつけて唄われていた。しかも一定の型式がなく声自慢達によって長短、高低、抑揚ともに自由奔放に唄われており、明治の初年頃から江差で名の出た唄い手には、山岸栄八、桜井タケ、杉野儀一郎、岸田シゲ、田中ミワ等の名が残っています。 当時、小桝のばあさんとして知られた小桝清兵衛の祖母は三味線の師匠で追分節を極め、詰木石派を深く研究して基本唄を作り、座敷唄として親方衆や船頭連中にも教えなどした。この小桝のばあさんの唄が現在の正調追分節の元祖と言われています。

 

 この「正調」ということについて、湯朝竹山人が『歌謡襍稿』の中でちょっと穿った見方をしているので紹介しておきます。
ーーーーーーーーーー
 さて、「正調」ということ。現在北海道の追分節仲間で代表的に知られている人に越中谷四三郎という人があり、私は江差で同氏と逢い、親しく聞いた話によると、追分節は、昔は七節に唄われていたのが中絶していた。どういう塩梅に七節に切るのかわかりかねた。然るに平野源三郎、越中谷四三郎氏等が工夫して、七節の調が案出された。そこでこれに「正調」の名を冠して流行させた。それが今日の「正調江差追分節」だということであった。
 そこで、私は正調の二字を冠した理由を尋ねてみたけれど、越中谷氏には明らかな答えはなく、誰いうとなく正調追分節ということになったしまいましたと漠然たる挨拶であった。私の思うにこの二字は「萬朝報」の「俚謡正調」が世間に宣伝されていた時分、小樽か札幌あたりの新聞記者が、追分節にこの正調の文字を流用したことでもあって、それが江差の追分仲間に、わが物のように使用されることになったのではないかと推量される。北海道の人の間にも、この推量をどうやら事実らしくいうものもある。
 今日では追分節といえば、七節に唄う事が一般の約束のようにはなっているけれど、昔の松前節は、五節だの七節だのというような不自然な窮屈な唄い方をしたものとは思えず、この唄特有の哀哀切々の調が、声にも節にも、もっと自然でもっと自由で、さらにもっと個性的、即ち、唄う人の主観的情調を表現して唄われたものであったろうかと私は推察しておる。
 もしそういった推察が容れられるならば、正調の二字は別の意義が現れてくるはずで、七節に唄う事が正しい調であるという意味は疑わしく、正しい正しくないというような定義は、元の松前節と今日の正調節とを比較対照して、聴き分けた耳には、異様な感じがする。それゆえ私の思うところは、正調追分節という名は、まさしく「新派追分節」という意味に解することが最も理解的だと信ずる。古調から変化して、新しい唄い振りが産まれたので、正調とか変調とかいうのではなく、昔の調べに対する新しい唄い方というのであるから、新調である。古調に対して新派の調といわねばならない。
 さりながら、現在、世間一般に「正調追分節」で通じているので、今更いかんとも仕方のないものの、一応はこれが解説を与えて、正調の意味が、本来的に理由があってのことではなく、ただ唄い方を「七ふし」に唄うことに変えたというだけの意味であることを、明らかにしておく必要はあろうと思い、この機会に愚考の一端を述べておく。
ーーーーーーーーーー
 「正調」というのは何も老舗の本家争いで冠された文字ではない、ということだけは確かなようだ。

 

 日本俚謡研究会金田空山編纂の日本民謡には《江差追分には古調と正調があって、古調は本唄が主で必ずしも前唄や後唄を必要としない。かわりに「ソイあぶらこ鰈真鰈、一朱に三枚バッタバタ」などの囃しを用いる。正調は前唄、本唄、後唄の三段形式のことである。》とあり、 札幌市の旭吟城は、北海道民謡全集』(昭和40年刊)の中で、《「古調追分」とは明治の中頃まで唄われた追分節を総称していうのであって、「前唄」や「後唄」がなく、「本唄」のみ唄っていたものであります。そして「本唄」の後に必ず次のような囃子詞をつけたものであります。》として、次の6つの囃子詞を掲出しています。


 ハー ソイ
 アブラコ鰈 真鰈 百で三枚
 バッタバタ ソイ ソイ

 

 ハー ソイ
 売って鰈 買った馬鹿
 イサバ呑んでくだまきゃ なお可愛い

 

 ハー
 投げれば立つよな ドンザ着て
 石狩浜中 ブーラブラ
 あとから掛取りゃ ホーイホイ

 

 ハー
 来たか丁さん 待ってたホイ
 お前ばかりが 可愛くて ホイ

 

 ハー
 お前達浜小屋 まだ見ねな
 江差の五月は 江戸にもない

 

 ハー
 江差の五月は 江戸にもない
 酌婦(アヤコ)踊れば わしゃ唄う

 

 これらを見てもわかるように、囃子詞は、七五調の軽快な、口当たりの良い文句ならなんでもよかったのである。
 実は、唄のあとにこうした囃子詞の、それも意味の通じる軽口や尻取り文句のようなものを加えていくのは、宴席の酒盛り唄に共通して見られるもので「信濃追分」であれ、「おけさ」であれ、「ハイヤ節」であれ、酒席に活気を持たせるのは、この囃子詞であった。
 中でも、昭和23年頃NHKで収録された、古調追分の貴重な唄い手である国仙重作の唄は、


   (本唄)
♪  (アー キタサイ)
松前(サイ)江差の(サイ) 鷗の島は
 (中囃子)
 アー キタカ瓢箪 待ってたホイ
 お前ばかりが 朝起きゃならぬホイ
地から(アーサイ)生えたか 浮島か
 (後囃子)
 アー投げれば立つよな ドンジャピイ
 そこから金取りゃ ホーイホイ 
 スイース

といったものであったし、また、同氏の別の録音では、
♪ アー
止めたとて どうせ行く人やらねばばらぬ
せめて波風おだやかに
 ソイ アブラコ カレ マガレ
 十銭に三枚 バッタバタ

 

 といったものであった。

 

 生田春月編日本民謡集』の中には、信濃追分として
碓氷峠の権現様よ、私が為のは守り神 スイ
来たか長さん待ってた ホイ
お前ばかりが可愛くて 朝越なろかいなあ

 などというのも挙げられている。

 

その他、古調追分の囃子詞としては、次のようなのもあります。
 ハー
 茄子畑のドテ南瓜
 赤くなるまで 待ってくれ

 

 ハー
 ささげ畑のさや豆ッコ
 ひと鞘走れば みな走る
 わしもあとから ついてゆく

 

 次に「浜小屋」なるものについて見ていきましょう。
 文化年間(1804~1814)、津花町に福田屋のいと・さとと呼ばれる二人の女がいた。この二人は、はんぺん・豆腐だとか餡焼餅の類を携えて、港内の船の間を売って歩いた。そのうち人気が出て酒のようなものも扱うようになり、なおさら繁盛するところから、今度は津花の浜に丸木小屋を建てて、ここで酒肴を売って客を招いた。影の町より近くて軽便であるところから大いに繁盛し、遂には何軒も真似をしだす者が現れるまでになった。このようにして浜小屋は二人の女によってはじめられたのだという。
 浜小屋は当時の津花町巡査派出所(元海軍所跡)の位置より北方の海浜にあって、後に南の方まで延長した。丸木小屋は浜の砂の上に丸太を打ち込み、それを縄で粗雑に組み立て、周りを簾垂張りにしただけのものである。安政年間(1854~1860)になってからは、何分狭い浜へもってきて、我勝ちに丸木小屋を建てようとするのだから、しばしば紛争を生ずるに至ったので、遂に官庁が干渉して、一戸分の地積を二間四方の四坪と制限し、浜と町方と両方数丁の間、番号で区別し、抽選によって営業者に下げ渡すことにした。幸い良い場所に当たったものはよいが、反対に不利な場所のくじを引いたものは、見るも気の毒なくらいしょげ返ったそうだ。ところが、二間四方すなわち四坪では客を収容しきらず、木を縛って棚の様にして二階、三階、はては四階にも造った。八畳一間の間に酒肴を置き、女をはべらし、ささやかな屏風を立て隔てて何組もの遊客で混雑したという。その浜小屋でとりもちする女が即ち「あや子」であって、主に福山辺から雇ったのである。顔のいいのは一期三十両、少しお多福でも二十両にはなったという事だ。こういう有様であったので「江差の五月は江戸にもない」とまで唄われるようになったのである。

 一方、「新地」の方はどうかというと、
 江差の貸座敷は切石町・上野町辺に散在していたのを、天保14年に岡本与左衛門・安宅伊兵衛の両人が世話人となって新地町を開き、ここに32軒の茶屋を移したのにはじまるようであるが、ここは比較的高級な歓楽街であって、藩の役人や漁場の親方衆の社交場であった。新地の名は浪花の「新地」をそのまま採って名付けたものである。

 

参考文献
江差』川竹駒吉 明治34年
江差松前追分』森野小桃 明治43年
『小唄漫考』湯朝竹山人 大正15年
『追分の研究』高橋鞠太郎 昭和14年
江差追分其他』阿部龍夫 昭和28年
追分節』竹内勉 昭和55年
江差追分江差追分会 昭和57年
江差追分会HP』
『北海道の追分節について』 田辺秀雄

平野源三郎

f:id:daaji:20200119095716j:plain

 平野源三郎のことを何故にこのブログで取り上げようと思ったかといいますと、もちろん江差追分の普及に類まれなる功績を残した人物ということもありますが、なんといってもその名前の響きが気に入ったからです。端正な顔立ちと蒲柳の質の若旦那然とした容姿もまた、その生きざまと共に心惹かれるものがあります。そこで、どういう人で、どんな活躍をした人なのかを知りたくなったのであります。同時にまた、平野源三郎を知ることはすなわち当時の追分界を知る事でもありましょう。

 

 正鴎軒平野源三郎は明治2年10月25日、木古内町下町に平野源七の8人兄弟の5男として生まれました。その2年前には江差町中歌町で、後に「唄は平野、竹は小路」と称えられることになる小路豊太郎が生まれています。
 明治18年9月、江差の親戚筋にあたる呉服商平野家の養子となり、私立鷗島学校を優秀な成績で卒業後は、養父の家業である呉服類の行商に従事し、遠く寿都方面まで足をのばした。呉服の他に野菜などの種物も少しは商ったようです。しかし、根が商売向きでないためか、掛売りが多く、営業成績は上がらなかったらしい。
 結婚は2度しています。熊石から迎えた最初の妻とは新婚早々に死別し、2年後、新たに近在から娶った妻とはなんらかの理由で間もなく離別を余儀なくされるなど、たて続けに不幸に見舞われた結果、以後、源三郎は生涯独身を通すことになるのです。しかし、一度だけロマンスの話が残されています。
 高橋タネという明治二十八年江差生まれの老女の談によれば、その頃、三十代の半ば位だった「平野の兄さん」は、いつも質素な筒袖の着物姿で、兵児帯に両手を突っ込みながら、見るともなしに自宅の近所の娘の家の方を見やっていたという。しかし、本人同士が想い合ったその恋も、婿取りが定められた菓子屋の一人娘ということで、結局は実らなかったようであります。

 

  その平野源三郎はいつどのように追分と関わるようになったのだろうか。
 それは偶然から始まりました。
 養母のリカ女が、元々江差新地の蔦屋の芸妓であって、追分をはじめとする諸芸に通じていた人であったのです。
 美声でならしたリカ女は十代の半ばで養子にきた源三郎が声が良く唄好きなことを知ると、当時、新地の取締まりとして町の顔役であった小桝清兵衛の母イク女(小桝の婆さん)に源三郎を紹介して追分を習わせました。
 佐ノ市以来の伝説的な追分名人と言われる山岸栄八の時代が過ぎた明治20年代初期のことで、この頃から市中の心ある人々の間では、第一級の郷土芸能である地元の追分節を、本格的に伝承しようとする気運が芽生えてきたようである。
 小桝屋で稽古に励んだ源三郎は、たちまちのうちにまわりが目をみはるような上達をとげ、当時、柳崎の少し上流に住んでいた饅頭屋の爺さんと呼ばれる人に尺八も習って、その道においても名手と呼ばれるほどになった。 源三郎が尺八の研究に没頭していた当時、商売に行く時にさえ竹管を携帯して歩くこともあったという。そして、ときに興が乗ると他家の仏壇の前で追分を一曲吹いて回向する、といったぐあいであったため、いよいよ腹に据えかねた養父は、後年に、改めて源三郎の養子という形をとって、親戚筋から別の養子を迎えたという。 

 明治20年代の後半から檜山管内はしだいに凶漁となり、とくに33年以降は鰊がほとんど獲れなくなって江差の市中は急激に衰微していった。平野家の家業も巨額の貸し倒れを生じて破綻し、明治42年11月には養父も死亡して、家督をついだ源三郎の肩に家計の重圧が直接のしかかることになった。
 明治40年頃、愛宕町在住の赤石市太郎主催で、豊部内橋畔の高田屋において行われた江差追分競演会が催された。その競演会には、町内外から多く出演者があってノドを競い合ったがその時の唄は各人、各様の唄で種々様々であったといわれている。各派にはそれぞれ師匠が居り細かな節回しや、止めに特徴があり、その伝統をかたくななまでに守り通していたのである。

 一方、幕末以来、知名人の来訪も多くなり、追分の情緒が愛され、道内はもとより東京方面でも名声が高まりつつあった時だけに、江差追分の将来を憂慮する人々から《現在のように追分節が幾通りもあったのでは、後に混迷をまねく結果となる》ことを心配する意見が高まってきた。そこで、当時の桧山支庁長の中村雄蔵氏、神官の藤枝貞麿氏らの有識者が中心となって江差追分の曲調の統一をはかることになった。 
 明治42年11月、町内の追分関係者が参集して、正調江差追分確立のための会合が開かれた。その日、豊部内橋畔の宿屋久保田リセ方(現ふじや旅館付近)の二階に集まった面々は15名程で、神官の藤枝貞麿氏を初め、平野源三郎、村田弥六、四十物久次郎、越中谷四三郎、高野小次郎、船木賢治、若狭豊作、浅木福蔵、小林賢治、桜井タケ、鍵谷トミ、松井トシらの各師匠であった。以後、会合は同じ場所で何度か繰り返して開かれ、その結果、今日の標準的な江差追分の基本をなす「七節七声、二声あげ」という曲節の骨格が、全員異存なく決定された。

 また、この年の前後には平野源三郎が中心となって四十物久次郎、池野信一郎、今泉勝太郎、桜谷松蔵ら各師匠に江差追分の統一を働きかけ、「正調江差追分節研究会」が発足した。この研究会の中で、


「本唄を生命とする」


「詰木石節を骨子とする」


「調子をニコ上げ(二上がり)とする」


「囃子をソイーソイとする」


「七節を七声で途中切らずに唄うものとする」


ことが決定され、正調江差追分として統合の基礎ができ、以後、江差追分については有志一丸となった本格的な研究活動が展開されることになったのである。
 次いで明治44年9月、江差の古老たちが古来わが土地の名謡と誇った追分節の衰頽を嘆いて、北海道各地から追分節の名手と称する者数十人を招き、江差でその競演会を催して追分節復活の機運を促した。その時各名手の唄い振りを玩味の結果、最もその節調の正確優秀と認められたのは平野源三郎のものであったと言う。第一人者としての貫禄を見せつけたのである。

 その後、平野源三郎を中心に標準の曲譜を作るために努力が続けられ、明治44年、現在の7線による独自の曲譜ができあがり、それを東京で正調江差追分節発表会を開いた際、公表して定型化に成功したのです。当時の地元追分会の動きを端的に記した明治45年5月12日付け「江差日々新聞」の記事によると、

ーーーーーーーーーー
 その昔名物の一とうたわれた江差追分節も、土地の衰微に伴い節調子が大いに乱れ、自分勝手の我流に唄うもの多く、このまま放っておけば、真の追分節を唄える人がいなくなると歎き、当地各同好の者が協議して、さきに追分節研究会を組織し、以来熱心に研究中であるが、この際完全な楽譜を作り、江差追分を永久後世に残そうと計画し、前年当町において追分節大会を開催し、当町は勿論各村落よりもっとも熱心な秀でた者数十名を集め、それぞれうたわせたところ、当町平野源三郎の節廻しがもっとも完全なのを認め、同研究会においては同氏の節調子により専門家に托して完全な楽譜を作らせて、同好にこれを配り、追分節の隆盛を図ろうと既に相談成立し、平野氏は近日上京するとのこと。

ーーーーーーーーーー

f:id:daaji:20200119101722j:plain

 明治45年6月28日、東京神田のキリスト教青年会館で『追分節演奏大会」が行われたが、そのきっかけは北海道選出の代議士、浅羽靖が東京の音楽学者田中正平に段取りを依頼したことに始まる。田中正平が同好の士五十余名を集めて、その前で江差追分を唄わせたのである。 そのいきさつについて、昭和9年頃の『江差日々新聞』に『江差追分節と来歴』という題で山田伝蔵という人が連載していて、その第二十一回に興味ある記事を書いている。

ーーーーーーーーーー
 平野氏は養父の没後家計の失敗から落ぶれたので、当時巡査部長をやめて遊んでいた池野という男と語らい、平素唄い馴れた江差追分節を唯一の心頼みとして上京したのである。それも当初の計画では北海道産の煎豌豆に追分豆と命名し、雨にふせ露に宿りながら浅草の四辻に立って、追分節の一つも添い景品として豆売りをしようとしたのであった。ところが偶然の機会から池野の尽力で故人浅羽靖氏に知られ、其そ斡旋で四辻の豆売りに唄う筈だった江差追分節が、神田の青年会館において優幽の哀曲が立錐の余地のないほどの中で唄われたのである。

ーーーーーーーーーー
 出演した平野源三郎は、持前の幽婉、高尚な声調をいかんなく発揮し、並居る聴衆に深い感銘を与えたのである。ついで、7月13日に同所で行われた公開大演奏会・・・この中で会主の浅羽代議士は平野源三郎のことを江差追分の第一人者と紹介している・・・も好評を博し、以後、平野源三郎追分節の声価は不動のものになった。 その、7月13日神田のキリスト教青年会館で行われた公開演奏大会の模様の当時の都新聞の記事からの抜粋。

ーーーーーーーーーー
 十三日、青年会館で平野源三郎という江差の人の追分節を聴く。江差節や在郷節などと分類してあるが、前者では、「帯も十勝」、後者では「忍路高島」が数番中の秀逸で、世間で聴き馴れたむやみに甲を高めるのと違って、比較的に低い調子の、底から雪のような潮の花が湧いてザザザザザッと磯をかむかと思われ、肉が締まって波に揺られる感じがする。20番も唄った後でなければ、思う調子が出ないと語ったが、低い調子がかえって余韻深く、やっぱり追分は潮風の吹き荒むなか寂のある声で唄うものだろう。

ーーーーーーーーーー 
 つまり、平野源三郎の唄は、当時在京していた他の寄席芸人のなどとは異なり、比較的低音でありながら、充分に本場の情緒をそなえた唄として大方の好評を博したわけである。
 同じ年の11月1日と2日の両日には、「日本追分節名人大会」が開かれた。出演者は、平野源三郎のほか、名人を自称する越後生まれの柄沢秀逸、九州の森峯吉、坂部登良など多数であった。ところが多くの人達は、美声は美声であったが、徒に技巧を弄したケレン沢山な芸人的なもので追分節本来の情緒をさえ忘れてしまったかのようなものであった。
 その中にあって、平野源三郎の唄は流石に古朴幽婉、かみしめればかみしめる程味のあるものであったが、耳の肥えない者が聴くと余りに平淡なようで、情味に乏しく、左程に前受はしなかったようである。また、ある人は平野氏は年齢のせいか、かつての美声がなくなったのは誠に惜しいものだと言っていた。しかしながら、羽織袴に威儀を正し、直立したまま尺八伴奏で唄ったため、大変に評判がよく、これがきっかけで東京の江差追分平野源三郎の節まわしが中心になって広まり始めた。

 次の、民謡研究家竹内勉の見解などはなるほどと思わせるものがある。

ーーーーーーーーーー
 この三回にわたる東京での江差追分鑑賞会で多くの人を集めることができたのは、東京には越後の米搗き・風呂屋に代表されるように、大勢の越後の人達が集まっており、北海道の追分節には、それも浜小屋節的唄い方には、ヤン衆その他で北海道と交流があるだけに、耳なじみであった。しかも江差追分の前身である松前節は越後生まれだから、越後の人たちにとっては故郷の唄という感じが強かったのだろう。

 次に、平野源三郎の唄が好評を博した理由は、東京は江戸時代に武家文化の花が開いたところだけに、折り目正しい品位と格調のあるものを好んできた。しかも儒教の影響でか、ひたすら耐える殉教者的な人に共感を覚え、更に加えて判官びいきという日本人の心情がある。そこへ松前江差からはるばるやってきた平野源三郎という男が、紋付き袴に威儀を正し、朗々と唄うことで、まず印象をよくしたようである。そこへもってきて「江差追分」という唄が、寂れゆく江差の人たちの、かつての栄華をしのばせる心のよりどころの唄として復活してきただけに、判官びいきの心情を揺すった。しかも、尺八という、かつては普化宗の虚無僧の吹いた宗教楽器が加われば、それは一種の無常感を感じさせる宗教音楽でもあった。それらすべてがうまく融合して観客の共感を呼んだのだろう。これに反して評判の悪かった他の人たちの唄は、多分、生臭さ、アクの強さ、そして地方の花柳界の唄らしい野暮ったさがあり、それが徳川のかつての城下町東京では受け入れられなかったのではないかと思われる。

ーーーーーーーーーー 

 その後、平野源三郎はすぐ北海道へ帰らず、ひきつづき1年程在京し、その間、後藤桃水(後年、東北民謡の育ての親と言われる)の尺八伴奏で各種の演奏会に出演したり、吉原、芳町辺の芸妓にも教授し、「櫓声会」という会を設けて一般の同好者に追分節を教えたり、瀬棚の芸妓駒助の伴奏でニッポノホン社のレコードに吹き込むなど、縦横の活躍を続けた。 

  

https://www.youtube.com/watch?v=5fBPAdn-Wec

https://www.youtube.com/watch?v=aQWrsTYppLk

https://www.youtube.com/watch?v=qEcqk9nlr0c

https://www.youtube.com/watch?v=BbO1uf7gonw

 

 今日に残された源三郎のレコードは、いづれも荘重な中に一抹の哀感をたたえ、その頃、秋風落莫の感深かった郷里江差のために、万丈の気を吐いている。ところが、間もなく病にかかりやむなく一年余で帰郷することになったのであるが、その頃、養家はすでに家業不振のため没落しており、義父との折り合いも悪いことなどから安住の地もなく、自ら詰木石地区に組織した江差追分節研究会もすでに分裂していた。
 大正3年8月、失意のうちに札幌に出て、「正調江差追分節教授所」を開き、旗亭「いくよ」やススキノの芸妓などに教え始めるが、ふたたび病状悪化し江差に戻って療養に努めた。
 大正4年2月5日の『北海タイムス』紙に連載の「追分節名人鑑」に、平野源三郎について次のように掲載された。紹介者は江差町 江差追分節研究会である
ーーーーーーーーーー
 江差追分の名手は平野源三郎氏と村田弥六氏を東西の大関とするべきであり、そして平野氏は純江差産であって年四十六才。幼い頃より歌が好きで、その生母もまた追分節の名手として名声高く、その遺伝ともいえる。元来氏の声調は謡曲における宝生流の格調を帯び、優婉にして撥音強く厳しい所、しかも一糸乱れず聴く者を知らず知らずのうちに断腸の妙味に引き込む。明治四十五年中故浅羽翁の紹介で上京中、知名人の勧誘を断りきれず、神田美土代館にて大演奏会を開催し絶大の喝采をあび、都中の同行者を熱狂させ、各新聞紙上に賞賛されるこことなった。特に高官の招待を数十回も受け、又美音会あるいは演奏会に出演し、毎会非常の好評を博した。次いで日本蓄音機商会の頼みで蓄音機に吹き込む等その音譜を求めるもの頻出し、ついに東京に滞在せざるをえなくなった。東京に追分節教授所を開いたところ実に多くの同好者を得た。また氏は追分尺八の名手としても知られ、氏は追分節を馬子唄と在郷節正調の三種に分け、以下に同好者の参考までにその文句を掲げると、
 (三下がり馬子唄)
 ♪ 思ひ捨てるは叶わぬとても縁と浮世は末を待て「心細さよ身は浮き舟の誰も舵取る人も無い「文の表書薄墨なれど中に恋路が書いてある
 (在郷節)
 ♪ 帯も十勝に其まま根室落ちる涙は幌泉「ありゃ鳴く筈だよ野に住む蛙みずに逢わずに居られよか「大島小島の間とおる船は江差うけよか懐かしや
 (正調)
 ♪ 忍路高島及びもないがせめて歌棄磯谷まで「櫓も櫂も波に取られて身は捨小船何処に取りつく島もない「波の音聞くがいやさに山家に住めば又も聞こゆる松の声
ーーーーーーーーーー


 大正4年の5月には再度、札幌に出て「追分教授所」を当分南5条西5丁目、岡本方で開始。暮れの12月18~19日には平野源三郎が札幌に来たのを記念して、狸小路巴館にて「平野源三郎来札記念各流追分節大演芸会」が開催され、尺八小路豊太郎、唄田沢はつ、札見民子、鶴子、筆助、東金吾、富士丸、加代、幾松、お染の出演、久しぶりに小路豊太郎と平野源三郎の尺八合奏が行われたことを北海タイムスが報じている。 
 かくて、盟友小路豊太郎との共演も実現したが病再発で帰郷。療養生活を送るようになったが、札幌での追分暮らしが忘れられず大正6年4月、病を押してふたたび出札した。同月30日の北海タイムスは「江差追分平野氏来札」の見出しで、、《江差追分節名家平野源三郎氏は長々病気にて郷里において治療中だったが、今回出札、一時、南二西七柴田如峰方に寄寓していたが、近日稽古を開始する筈》と報じ、翌5月14日の同紙には「平野氏の稽古」の見出しで《江差追分節名家平野源三郎は、今回札幌南4条五5目(旗亭福井横)へ寄寓し、いよいよ今14日から何人でも追分節の稽古をなす由、一時衰えかけた江差追分も又々勃興することになるだろう。》と報じている。
 源三郎が一時寄寓した柴田如峰(欣兵衛)は、江差新地のうなぎ屋の娘で名妓とうたわれた茂吉の夫で、新聞業をやったが、のちに札幌に出て北海タイムスの記者として活躍、大正元年退社して札幌の北3東2の「大正館」の経営に乗りだし、同年12月14日から三日間「経営披露大演芸会」を開催している。
  大正6年6月4日、北海タイムス社主催の「札幌郵便局集配人慰労演芸会」が南3条西2丁目の中央館で行われて、平野源三郎が出演するが、これが源三郎の最後の舞台となった。
 いよいよ体調が思わしくなくなった源三郎は、郷里に戻らず幌内尋常高等小学校勤務の息子下川部勝太郎(養子)が住む幌内に移転し病床に伏した。
 そして翌大正7年8月21日、同地で淋しくこの世を去った。享年四十九才であった。
 三木如峰によれば、臨終の際、枕辺に呼ばれてすべての後事を託され、正鷗軒の跡目を継ぎ平野派家元として正調追分節を後世に伝え、益々普及発達を期して貰いたいと懇々依頼された由。
 なお、没後の大正12年11月に江差において同好者による「追分界名人故平野源三郎氏追弔会」が行われている。

※参考文献
『小唄漫考』湯朝竹山人 大正15年
『正調追分節』三木如峰 昭和14年
追分節』竹内勉 昭和55年
江差追分江差追分会 昭和57年
江差追分物語』館和夫 昭和64年
『鷗嶋軒小路豊太郎と周辺の人々』井上 肇 平成7年
『 風濤成歌』江差追分会 平成11年

江差追分会HP』

 

 実はこれは意外に知られていない話なんだが、明治45年6月28日の東京神田のキリスト教青年会館で『追分節演奏大会」が行われた時に、なんとあの苦沙弥先生が聴きにきてたと言うんだ。これは美学者の迷亭の日記に書いてあることだから間違いはない。
 「いつもいつも、後架で近所迷惑な詩吟ばっかりうなってないで、ちょうど追分節の演奏会を神田でやるという話だから、気晴らしに行ってみようじゃないか」といったら、
「どうも胃の調子がよくないから気が進まないな~、そりゃ浪花節みたいなものか」
「まあ、そんなようなものだ。きれいなね~ちゃんも出るようだから騙されたと思っていこうや」
とまあ無理やり連れて行ったはいいが、後でえらい怒られたそうだ。
「なんだ見目麗しい乙女がでるっていうから行ったら、ジジイばっかじゃねーか」
                            おあとがよろしいようで