歌詞考3(鷗の鳴く音に~)
「鷗の鳴く音にふと目を覚まし あれが蝦夷地の山かいな」
現在、多くの人が好んで唄っている歌詞です。
教える方も統一した歌詞の方がなにかと都合がいいというのも爆発的な人気につながっている一因であろう。
人気に火をつけたのが誰なのかは残念ながらわかりません。
♪ 鷗の鳴く音にふと目を醒し あれは蝦夷地の山かいな
(大正9年『純粋の江差追分節』村田弥六)
♪ 鷗の啼く音にふと眼を覚まし あれは蝦夷地の島かいな
(大正9年『松前追分』古舘鼠之助)
♪ 鷗の啼く音にフト目を覚まし あれは蝦夷地の山かいな
(大正9年『追分物語』小早川秋声)
♪ 鷗の鳴く音にふと目を醒まし あれは蝦夷地の山かいな
♪ かもめの泣音にふとめをさます あれはえぞぢの山かひなぁ
(大正14年『追分の研究』福田幸彦他)
♪ 鴎の鳴く音にふと眼を覚まし あれは蝦夷地の山かいな
(昭和2年『日本音曲全集 第7巻(俗曲全集)』
♪ 鷗の鳴く音にフト眼を覚まし あれが蝦夷地の山かいな
(昭和11年『哀艶切々追分節の変遷』石島鷗雅)
♪ 鴎の鳴く音にふと眼を覚まし あれが蝦夷地の山かいな
蝦夷地の出稼の途中にある荒くれ漁夫も、明けても暮れても海又海の船旅にあ きあきして鷗の鳴く音を聞いてふと眼を醒ましてあれが蝦夷地の山であろうか
という意。(昭和14年『正調追分節』三木如峰)
♪ 鷗啼く音に、ふと眼をさまし あれが蝦夷地の山かいな
越後越中などから、北海道へ出稼ぎに行った人たちの中には、妻子を伴った者 もあった。
荒海の波にもまれ、船酔いに疲れて眠っていた妻が、にわかに騒
がしく聞こえる鷗の声に、ふと眼をさましてみると、紫にかすんだ山影
が彼方に見える。
「あゝ、あれが松前かネ」と、思わず声を弾ませて、夫に訊くーーそうした情
景をうたったものである。(昭和14年『追分の研究』高橋鞠太郎)
こうしてみると、大正期から昭和初期までは五節を「あれが」ではなく、「あれは」と唄っているが、誰がいつ変えたのか、経緯は不明です。思うに、「は」よりは「が」の方が声が出しやすいということで誰かが唄い始めてそれが定着したものであろうか。
竹内勉はその著『民謡のこころ』の中で
ーーーーーーーーーー
大正時代の歌詞を見ると、当時は<ふと目をさます>となっている。一字「し」と「す」と違うだけである。これは<目をさます>のしまいを<すウウ>と節を落とすより<しイイ>のほうが声の使い方が楽だからこうしたのだろう。それは多分昭和に入ってだろう。
ーーーーーーーーーー
と述べているが、上に載せた歌詞を見てもわかる通り、「さます」となっているのは
わしが調べた限りでは、
♪ かもめの泣音にふとめをさます あれはえぞぢの山かひなぁ
(大正14年『追分の研究』福田幸彦他)
ぐらいで、あとは大正時代の歌詞もほとんどが「さまし」となっている。
大正8年の横田雪堂氏の『追分節の物語』にはこの歌詞は載っていない。この時期はまだあまり知られていなかったものか。
追分に詳しい湯浅竹山人氏がこの歌詞を、その著作(小唄夜話大正13、小唄漫考大正15、歌謡集稿昭和6)で取り上げていないというか、載せていないというのはちと意外です。
わしの手元に昭和七年発行の『港湾』という雑誌のコピーがあります。その中に北海道住人の名で『民謡「追分節」を歌う』という文章があるんですが、その中で歌詞を七編ほど挙げている中に「かもめ~」の歌詞は見られない。してみるとこの頃でもまだ一般的でなかったのであろうか。
この歌詞の作詞者は今のところ特定されておりません。
一説に明治39年に閑院宮が小樽へ来道の折、「江差追分」を上覧に供するについて、小樽新聞社の主筆北山晃文氏が作詞したとされているが、閑院宮の来道時期が合わないことや、当時は北山氏はまだ小樽新聞社の主筆ではなかったこと、皇族への追分歌詞の上覧などという特筆すべき事実の報道が見当たらないなどから、多分に疑問視されているとのことであります。
『風濤成歌』によれば、下の大正7年7月札幌富貴堂発売の『松前追分番付』が文献上最も早くに姿を現したようです。ただし一番下に位置し、当時は人気は低かったことがうかがわれます。
北前船に乗って、板子一枚下は地獄と言われる日本海の荒海を乗り越え、はるばる蝦夷地を目指してやって来て、もういい加減島が見えてきてもいい頃だと思っているある朝、鷗の鳴き声にふと目を覚まし、小手をかざして見るとかすかに陸地が眺められる。at last! ついに蝦夷地に着いたんだという、感動感慨を想って歌ったのがこの歌詞でしょう。