歌詞考6(蝦夷や松前やらずの雨が~)

 

  信州追分宿の「追分節」が文化文政の頃(1804~30)に、流行り唄として日本中に広まった中で、新潟県下にも伝えられ、信濃川の河口に開けた港町、新潟の花柳界でも盛んに唄われた。その「追分節」を覚えた船乗りたちが海上で舵を取りながら口ずさむうちに、ゆっくり、長く伸ばして唄う節になっていった。そして蝦夷松前やらずの雨が七日七夜も降ればよい という歌詞が好んで唄われ、その唄い出しの語から「松前節」と呼ばれるようになった。というのが通説ですが、

 陸の追分節がどの時点で海の追分節に切り替わったのか、その起点というかきっかけになったのがまさに松前節」なのであります。

 新潟県で今日「越後追分」という唄は、かつての越後では「松前節」と呼ばれていました。

 この「松前節」が「越後追分」と呼ばれるようになったのは、大正の末頃にラジオ放送が開始され、新潟県からも全国中継でこれらの唄が放送されるようになって以来のことだから、放送局の命名によるものであったのです。

 同じことが、「信濃追分」についてもいえます。やはり大正の末頃に、信州でレコードに吹き込むにあたって、「追分節」では地方色がないということで、「信濃追分」と命名されたのです。

 

 湯浅竹山人は「追分節」と「松前節」とが同じものであるかということにつき、ちょっと穿った見方ではあるが、その著追分節松前節に就て』の中で次のように述べている。
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松前節は海の産であり、追分節は陸の産である。松前節は船頭唄であり、追分節は馬士唄である。松前節は波の上下に動揺する調子から生じ、追分節は馬士が牽く馬の歩調から生まれたのである。松前節は片手の五本の指を上下して波の動揺に準じ、追分節は四個の茶碗を伏せて、畳の上で馬の歩む足取りの音をさせて初学に稽古する所以である。従って唄の文句も自ら異り、忍路高島及びもないがせめて歌棄磯谷までの如きは、純松前節の唄であって、西は追分東は関所せめて峠の茶屋までの如きは、純追分節の唄である。
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 越後の追分(松前節)が、北海道の追分節よりはいっそう馬子唄に近いという一例として、町田佳聲は『民謡源流考』の中で、畦上三山の唄う「松前節」を取り上げている。 

♪寒いアー風だよ アーちょぼいち アー風は
  しわりごわりと アー吹いてくる

(合いの手)

♪鳥も通わぬ八丈が島へ ヨーイトナー
  コリャやらるるこの身はいとわねど
  後に残りしアノ妻や子がネ
  コリャどうして月日を送るやら
  アーエンヤラヤノヤー
  アエンヤラヤノエンヤラヤノ エンヤラヤノヤー 

 

 ここでは各句にアーといううたい出しのついているところから、これこそ馬子唄からきているなによりの証拠であり、この唄が信濃から越後へ、越後から北海道へ渡ったというコースに間違いのないことがわかるという。 

 「松前」とは、江戸時代に現在の北海道の西南部を治めていた領主の名で、福山(現在は松前町)に城を構えて松前城と呼んでいたので、蝦夷地の代わりとしても「松前」という語がつかわれていた。その「松前」を越後で使用しているのだから、これは北海道のほうから広まったと考えるのが普通だが、そうすると松前節」の代表的な歌詞である、

蝦夷松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい 

の説明がつかなくなる。

 そこで町田佳聲・竹内勉のコンビが考えたのが、《この唄は、蝦夷地のほうへ去っていく男との別れを惜しむ女の気持ちをうたったものであろうが、もちろん、こんな文句が信濃追分宿あたりで生まれるはずはなく、「追分節」が越後に移されてから、はじめて越後でうたいだされたものに違いない。それで、この文句の初句をとって、まさか「蝦夷節」もおかしいので、松前節」と、だれがいいだすでもなく呼んだのが固有名詞化したのであろう。

 このことは、近世の小唄俗曲の名が、いずれもその歌詞のうたい出しをとって曲名にしてることからもいえる。たとえば、♪春雨にしっぽり濡るる で「春雨」、♪さんさ時雨か萱野の雨か で「さんさ時雨」であり、♪吹けや生保内だし で「生保内節」と呼んで、別に生保内村の唄だから「生保内節」といっているわけではなく、ただ単に、歌詞の最初をそう唄い出すから、それが通り名になっただけである。》というものであった。これがいまでは通説となっているわけです。

 次に『民謡源流考』より二人の「松前節」を歌詞のみ引用させてもらいます。

それぞれにいったい誰に習った唄なのか知りたいものだ。

※はわしの感想。

 

松前群馬県〕樺沢芳勝

 (本唄)

 蝦夷松前 ハアーやらずの雨が

 七日 ハアー七夜も 降ればよい スイースイー

 (合いの手)

 お前越後か わしも越後 ヨーイトナ 

 コリャ お国訛りが 出てならぬ

 越後出るとき 涙で出たがネ

 コリャ 今じゃ新潟の 風もいや スイ スイ スイー スイ

  ※江差追分のソイ掛けの古い形がはいっている。

 

松前新潟県〕岩瀬国風
 (本唄)
 蝦夷松前 ハアーやらずの雨ヨー
 七日八日 ハー七夜も 降ればよい 
 (合いの手)
 送りましょかよ コリャ 送られましょか ヨーイトナ 
 せめて波止場の 茶屋までも

 コリャ 未練でいうのじゃ わしゃなけれどネー

 コリャ 別れりゃいつまた 逢えるやら

 

 ここで特筆すべきは、明治から大正初期にかけては、一部の例外を除けば、ほとんどが「♪ 蝦夷松前やらずの雨は~」であり、それ以降は「♪ 蝦夷松前やらずの雨が~」となったことである。理由は不明であります。

 

 

『風俗画報』山下重民 明治40年

♪ 蝦夷松前やらずの雨は 七日七夜も降ればよい松前追分節

 

 

『写声機平円盤美音の栞り』天賞堂 明治44年

♪ 蝦夷松前やらずの雨は 七日七夜も降ればよ~いスイスイ(追分節

 

 

『里謡集拾遺』高野斑山、大竹紫葉共編 大正4年

♪ 蝦夷松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい松前ぶし)

 

江差松前追分節』河合裸石 大正6年

♪ 蝦夷松前やらずの雨は 七日七夜も降ればよい

松前に出稼ぎしようとて情人と別れを惜しむ夜、屋根を打つ雨の音を耳にして歌ったのであろう。

 

松前追分番付札幌富貴堂発売 大正7年7月

♪ 蝦夷松前やらずの雨は 七日七夜も降ればよい

 

追分節物語』横田雪洞 大正8年

♪ 蝦夷松前やらずの雨は 七日七夜も降ればよい

綿々の情切に忍びえず、せめて蝦夷の入り口迄にてもとの愛着湧く。その恋愛の情が、

その惜別の心が、はかない遣瀬ない彼女らの心から出て、ついに忍路高島となれりと言う。


蝦夷地の旅から』小早川秋声 大正9年
♪ 蝦夷松前やらずの雨は 七日七夜も降ればよい江差松前追分)

 

『正調江差松前追分;謡い方と尺八の吹き方』越中谷四三郎他 大正11年

蝦夷松前やらずの雨は 七日七夜もふればよい

こうした歌詞を入船出船の時に、自慢の声を張り上げて、櫓櫂をそろえた歌うのをきく

と哀愁を覚える。

 

『小唄伝説集』藤沢衛彦 大正9年

♪ 蝦夷松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい

 

『趣味の小唄』湯朝竹山人 大正9年

♪ 蝦夷松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい松前追分節

 

日本民謡史』藤沢衛彦 大正14年

♪ 蝦夷松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい松前節)

 

『小唄漫考』湯朝竹山人 大正15年

♪ 蝦夷松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい(越後松前節)

 

『異国情緒集』新村出編 昭和3年

♪ 蝦夷松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい(新潟)

 

郷土史研究講座 第二号』雄山閣 昭和6年

♪ 蝦夷松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい(越後松前節)

 

『郷土芸術日本民謡』日本郷土里謡研究会編 昭和6年

♪ 蝦夷松前遣らずの雨が 七日七夜も降ればよい越後追分

 

『詳注全・地方民謡集』交蘭社 昭和7年

♪ 蝦夷松前やらずの風が 七日七夜も吹けばよい松前追分)