古調追分

 

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 江差に発生した江差追分は、明治初期、江差地方の風土にとけこみ幾多の変遷を経ながら、愛好者の生活環境や労働形態の相違から、その微妙な節回し、止め方に違いができ多くの流派が生まれてきたのです。「浜小屋節」が最も古い型のようで、ついでその浜小屋節が新地に入って「新地節」となり、さらにこれらの追分は、いろいろな街道や山道を馬を曳いて歩く馬方の間に馬方節として唄われた。そうした馬方は江差の北の方、詰木石町を中心に住んでいたのでその追分の事を「詰木石節」という。


 「浜小屋節」は、津花の浜通りに住む、船子、漁師などの人々の間に唄われた労働歌で、また浜小屋の遊興のなかで唄われた唄である。別名頬かぶり節、地方にあっては在郷節とも呼ばれ伴秦楽器として三味線、太鼓が使われ、本唄の後に後で述べるような諧謔味のある囃子がつけられた。


 ♪ えぞ地海道に お神威なくば
   連れて行きたい 場所までも
  来たか丁さん待ってたハイ
  お前ばっかり可愛くてハイ (村田弥六)
 
 「新地節」(または旦那節、艶節、芸者節)は、花街で親方や船頭衆が三味線に踊りをつけ二上がり新内入りの追分など座敷唄として発達させたものである。
 ♪ 鳥も通わぬ 八丈が島へ
  (新内)「やらるるこの身はいとわぬ あとに残りし妻や子は」
   どうして月日を送るやら (高野小次郎)

 

 「詰木石節」とか馬方節といわれるものは、主として町内の詰木石地区(現、愛宕、新栄町)に住む馬方衆や職人達によって愛好され発達したもの。この頃には後ろにつける囃子詞は失われているが、この「詰木石節」が正調追分節へとつながっていったのです。


 以上の分類もきわめて概括的なもので、実際には美声の持主がそれぞれ一派を名のり、多くの派閥に分かれていたのである。
 こういう状態は明治中期までの様相で、これを「古調追分」と呼んでいるが、その当時の唄は本唄の後に囃子をつけて唄われていた。しかも一定の型式がなく声自慢達によって長短、高低、抑揚ともに自由奔放に唄われており、明治の初年頃から江差で名の出た唄い手には、山岸栄八、桜井タケ、杉野儀一郎、岸田シゲ、田中ミワ等の名が残っています。 当時、小桝のばあさんとして知られた小桝清兵衛の祖母は三味線の師匠で追分節を極め、詰木石派を深く研究して基本唄を作り、座敷唄として親方衆や船頭連中にも教えなどした。この小桝のばあさんの唄が現在の正調追分節の元祖と言われています。

 

 この「正調」ということについて、湯朝竹山人が『歌謡襍稿』の中でちょっと穿った見方をしているので紹介しておきます。
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 さて、「正調」ということ。現在北海道の追分節仲間で代表的に知られている人に越中谷四三郎という人があり、私は江差で同氏と逢い、親しく聞いた話によると、追分節は、昔は七節に唄われていたのが中絶していた。どういう塩梅に七節に切るのかわかりかねた。然るに平野源三郎、越中谷四三郎氏等が工夫して、七節の調が案出された。そこでこれに「正調」の名を冠して流行させた。それが今日の「正調江差追分節」だということであった。
 そこで、私は正調の二字を冠した理由を尋ねてみたけれど、越中谷氏には明らかな答えはなく、誰いうとなく正調追分節ということになったしまいましたと漠然たる挨拶であった。私の思うにこの二字は「萬朝報」の「俚謡正調」が世間に宣伝されていた時分、小樽か札幌あたりの新聞記者が、追分節にこの正調の文字を流用したことでもあって、それが江差の追分仲間に、わが物のように使用されることになったのではないかと推量される。北海道の人の間にも、この推量をどうやら事実らしくいうものもある。
 今日では追分節といえば、七節に唄う事が一般の約束のようにはなっているけれど、昔の松前節は、五節だの七節だのというような不自然な窮屈な唄い方をしたものとは思えず、この唄特有の哀哀切々の調が、声にも節にも、もっと自然でもっと自由で、さらにもっと個性的、即ち、唄う人の主観的情調を表現して唄われたものであったろうかと私は推察しておる。
 もしそういった推察が容れられるならば、正調の二字は別の意義が現れてくるはずで、七節に唄う事が正しい調であるという意味は疑わしく、正しい正しくないというような定義は、元の松前節と今日の正調節とを比較対照して、聴き分けた耳には、異様な感じがする。それゆえ私の思うところは、正調追分節という名は、まさしく「新派追分節」という意味に解することが最も理解的だと信ずる。古調から変化して、新しい唄い振りが産まれたので、正調とか変調とかいうのではなく、昔の調べに対する新しい唄い方というのであるから、新調である。古調に対して新派の調といわねばならない。
 さりながら、現在、世間一般に「正調追分節」で通じているので、今更いかんとも仕方のないものの、一応はこれが解説を与えて、正調の意味が、本来的に理由があってのことではなく、ただ唄い方を「七ふし」に唄うことに変えたというだけの意味であることを、明らかにしておく必要はあろうと思い、この機会に愚考の一端を述べておく。
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 「正調」というのは何も老舗の本家争いで冠された文字ではない、ということだけは確かなようだ。

 

 日本俚謡研究会金田空山編纂の日本民謡には《江差追分には古調と正調があって、古調は本唄が主で必ずしも前唄や後唄を必要としない。かわりに「ソイあぶらこ鰈真鰈、一朱に三枚バッタバタ」などの囃しを用いる。正調は前唄、本唄、後唄の三段形式のことである。》とあり、 札幌市の旭吟城は、北海道民謡全集』(昭和40年刊)の中で、《「古調追分」とは明治の中頃まで唄われた追分節を総称していうのであって、「前唄」や「後唄」がなく、「本唄」のみ唄っていたものであります。そして「本唄」の後に必ず次のような囃子詞をつけたものであります。》として、次の6つの囃子詞を掲出しています。


 ハー ソイ
 アブラコ鰈 真鰈 百で三枚
 バッタバタ ソイ ソイ

 

 ハー ソイ
 売って鰈 買った馬鹿
 イサバ呑んでくだまきゃ なお可愛い

 

 ハー
 投げれば立つよな ドンザ着て
 石狩浜中 ブーラブラ
 あとから掛取りゃ ホーイホイ

 

 ハー
 来たか丁さん 待ってたホイ
 お前ばかりが 可愛くて ホイ

 

 ハー
 お前達浜小屋 まだ見ねな
 江差の五月は 江戸にもない

 

 ハー
 江差の五月は 江戸にもない
 酌婦(アヤコ)踊れば わしゃ唄う

 

 これらを見てもわかるように、囃子詞は、七五調の軽快な、口当たりの良い文句ならなんでもよかったのである。
 実は、唄のあとにこうした囃子詞の、それも意味の通じる軽口や尻取り文句のようなものを加えていくのは、宴席の酒盛り唄に共通して見られるもので「信濃追分」であれ、「おけさ」であれ、「ハイヤ節」であれ、酒席に活気を持たせるのは、この囃子詞であった。
 中でも、昭和23年頃NHKで収録された、古調追分の貴重な唄い手である国仙重作の唄は、


   (本唄)
♪  (アー キタサイ)
松前(サイ)江差の(サイ) 鷗の島は
 (中囃子)
 アー キタカ瓢箪 待ってたホイ
 お前ばかりが 朝起きゃならぬホイ
地から(アーサイ)生えたか 浮島か
 (後囃子)
 アー投げれば立つよな ドンジャピイ
 そこから金取りゃ ホーイホイ 
 スイース

といったものであったし、また、同氏の別の録音では、
♪ アー
止めたとて どうせ行く人やらねばばらぬ
せめて波風おだやかに
 ソイ アブラコ カレ マガレ
 十銭に三枚 バッタバタ

 

 といったものであった。

 

 生田春月編日本民謡集』の中には、信濃追分として
碓氷峠の権現様よ、私が為のは守り神 スイ
来たか長さん待ってた ホイ
お前ばかりが可愛くて 朝越なろかいなあ

 などというのも挙げられている。

 

その他、古調追分の囃子詞としては、次のようなのもあります。
 ハー
 茄子畑のドテ南瓜
 赤くなるまで 待ってくれ

 

 ハー
 ささげ畑のさや豆ッコ
 ひと鞘走れば みな走る
 わしもあとから ついてゆく

 

 次に「浜小屋」なるものについて見ていきましょう。
 文化年間(1804~1814)、津花町に福田屋のいと・さとと呼ばれる二人の女がいた。この二人は、はんぺん・豆腐だとか餡焼餅の類を携えて、港内の船の間を売って歩いた。そのうち人気が出て酒のようなものも扱うようになり、なおさら繁盛するところから、今度は津花の浜に丸木小屋を建てて、ここで酒肴を売って客を招いた。影の町より近くて軽便であるところから大いに繁盛し、遂には何軒も真似をしだす者が現れるまでになった。このようにして浜小屋は二人の女によってはじめられたのだという。
 浜小屋は当時の津花町巡査派出所(元海軍所跡)の位置より北方の海浜にあって、後に南の方まで延長した。丸木小屋は浜の砂の上に丸太を打ち込み、それを縄で粗雑に組み立て、周りを簾垂張りにしただけのものである。安政年間(1854~1860)になってからは、何分狭い浜へもってきて、我勝ちに丸木小屋を建てようとするのだから、しばしば紛争を生ずるに至ったので、遂に官庁が干渉して、一戸分の地積を二間四方の四坪と制限し、浜と町方と両方数丁の間、番号で区別し、抽選によって営業者に下げ渡すことにした。幸い良い場所に当たったものはよいが、反対に不利な場所のくじを引いたものは、見るも気の毒なくらいしょげ返ったそうだ。ところが、二間四方すなわち四坪では客を収容しきらず、木を縛って棚の様にして二階、三階、はては四階にも造った。八畳一間の間に酒肴を置き、女をはべらし、ささやかな屏風を立て隔てて何組もの遊客で混雑したという。その浜小屋でとりもちする女が即ち「あや子」であって、主に福山辺から雇ったのである。顔のいいのは一期三十両、少しお多福でも二十両にはなったという事だ。こういう有様であったので「江差の五月は江戸にもない」とまで唄われるようになったのである。

 一方、「新地」の方はどうかというと、
 江差の貸座敷は切石町・上野町辺に散在していたのを、天保14年に岡本与左衛門・安宅伊兵衛の両人が世話人となって新地町を開き、ここに32軒の茶屋を移したのにはじまるようであるが、ここは比較的高級な歓楽街であって、藩の役人や漁場の親方衆の社交場であった。新地の名は浪花の「新地」をそのまま採って名付けたものである。

 

参考文献
江差』川竹駒吉 明治34年
江差松前追分』森野小桃 明治43年
『小唄漫考』湯朝竹山人 大正15年
『追分の研究』高橋鞠太郎 昭和14年
江差追分其他』阿部龍夫 昭和28年
追分節』竹内勉 昭和55年
江差追分江差追分会 昭和57年
江差追分会HP』
『北海道の追分節について』 田辺秀雄