鈴鹿馬子唄

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 漱石の『草枕』に次の一節がある。

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 山を登ってから、馬には五六匹逢った。逢った五六匹は皆腹掛をかけて、鈴を鳴らし

ている。今の世の馬とは思われない。

 やがて長閑な馬子唄が、春に更けた空山一路の夢を破る。憐れの底に気楽な響がこも

って、どう考へても絵にかいた声だ。

   馬子唄の鈴鹿越ゆるや春の雨

と、今度は斜に書き付けたが、書いて見て、これは自分の句でないと気が付いた。

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 正岡子規の句に「馬子歌の鈴鹿上るや春の雨」(明治25年『寒山落木』所収)があ

る。その句をもじったものである。

 してみると、この頃には鈴鹿馬子唄はかなりポピュラーな唄であったようだ。 

 

 この鈴鹿馬子唄」三重県滋賀県の境、鈴鹿峠の麓、関町地方発祥と言われる馬

子唄で、相当広く唄われている。関町は東海道大和街道の分岐点で、昔は町の北方鈴

鹿峠の麓に有名な関所が置かれてあり、箱根に次ぐ難所であった。古くは京から東海道

へ出るには、伊賀路から伊勢路へ抜けたが、平安初期に新道が開かれ、鈴鹿峠を越える

ようになったとのこと。

 関東と関西の別はここをその境界としており、江戸時代に参勤交代の制が定められて

からは、東海道五十三次の一つであった関は頗る繁盛し、鉄道開通以前迄は大いに賑わ

っていたが、明治22年に東海道線が全通すると鈴鹿峠を越える旅人もいなくなり、馬

子もいなくなり、またこの唄も歌われなくなりますが、たまたま関町で峠の茶屋を営ん

でいた神谷はつよ(文久元年生まれ)が唄を覚えていたのを、昭和32年、秋田県生ま

れで名古屋在住の多田夏代が復元したものである。ところが現在の節まわしは、多田晴

三が同地の加納屋アサから習い覚えたものだという人もいる。


 町の西北一里にある筆捨山は、昔、狩野元信が、その佳景を写生しようとして力及ば

ず、遂に筆を捨てて嘆じたという名高い山である。

 東海道のなかで箱根に次ぐ難所とされた鈴鹿峠は、特に伊勢側からの上りが急峻で、

旅人たちは苦労したようです。そこで、その二里半(十キロ)の峠道を中心に東海道

往来する人や荷物を運搬する駄賃付け馬子が重宝され、活躍していくようになったわけ

です。鈴鹿馬子唄」はそんな馬子たちの労働歌として生まれ、後に人形浄瑠璃などの

演目の中で登場し、広く知られることとなりました。


 ”坂は照る照る”の歌詞は、元禄時代からすでに唄われていたようだ。ただし、坂と鈴

鹿の間に土山はなく、鈴鹿辺を知らない人の作だと言う人もいるようだが、「あいの土

山」には諸説があり、いまだに定説はない。(以下の説は甲賀市のHPより)


1.相の土山説
 鈴鹿馬子唄の歌詞で、坂(坂下宿)は晴れ、鈴鹿鈴鹿峠)は曇り、相対する土山

(土山宿)は雨が降るとする説。鈴鹿峠を境に伊勢側と近江側では天候ががらりと違

う。
2.間の宿説
 宿駅制度ができ、土山が本宿に設定される以前は間(あい)の宿であったことから、坂

下宿程繁栄していないことを唄ったとする説。「照る」を栄える、「雨が降る」を「さ

びれる」と解するようだ。

3.鈴鹿の坂説
 峠の頂上付近に土山という土盛があったとする説。

4.間の土山、松尾坂説
 鈴鹿馬子唄の歌詞で、坂を松尾坂(土山宿の西、野洲川西岸部分にある坂のこと)と

考え、鈴鹿鈴鹿峠)との間にある土山(土山宿)は雨が降るとする説。

 

 『小唄の歴史』 増補版 石井国之 著 芸能文化研究会, 1957

 《この、坂はてる々々の唄の意味について「伊勢神宮名所図絵」に、

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この諷解しがたし、坂といえばまず坂の下のようにおもわれてその前後を考えるに、鈴鹿坂の下の間に土山なし、されば百年の星霜を経れば、その山野の様を改むる事をしるべし、今案ずるに、むかしの街道は今に違って名所なども異道にあり、いま前野と松尾との北の方頓宮村あり、元は垂水と言って齋宮の旅籠なり、ここへよぎるに頓宮の北に大なる坂あり、これを坂という、ここをもって考え合わせるべし。

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とあり、、元禄三年の東海道分間地図を見ると、この説の通り「まいの」と「松尾」の間に坂があり、当時は土山へはその松尾から下り坂となっていてのがわかる。従って、坂はてる々々の坂は「坂の下」ではなく、「松尾の坂」のことを言ったのである。

 

「間の土山」 については藤田徳太郎が『日本歌謡の研究』昭和十五年のなかで詳述し

ておりますので、つっこんで知りたい人は参照してください。 

日本歌謡の研究 - Google ブックス

 

 「鈴鹿馬子唄」が「江差追分」の源流だという説をとなえている岡田健蔵などは『追

分節談義』昭和26年の中で
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 当時民間に唄われた馬子唄が駅路駅路の馬の蹄の音に伴なって、伊勢、伊賀の方面か

東海道筋に伝わった時代に、同じ伊勢方面から木曽街道(中仙道)にかけて流行した

民謡が徐々に東に進んで信州方面から北陸街道に出、越後新潟に現われて越後追分とな

り、さらに海を北に遠く蝦夷地にまで渡って来た、今日の松前追分となった経路を、私

は事実として信じている。伊勢、伊賀地方に今も尚ほうたはれている古い俗謡として有名な、
    坂は照る照る 鈴鹿は曇る
         合の土山 雨が降る


などであるが、それが東海道筋に出たもので船唄となったものと、馬方節としてうたわ

れたものとがある。
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と述べている。

 

 わしなぞはこう考えている。「松前節」が、♪蝦夷松前やらずの雨が~ の松前から命名されたように、♪坂は照る照る鈴鹿は曇る~

から鈴鹿地方で鈴鹿馬子唄と言われるようになったのではなかろうかと。

 

 鈴鹿馬子唄」が文字として登場するのは、宝永元年(1704)大木扇徳が刊行し

『落葉集』であり、「馬士踊」(うまかたおどり)として歌詞が載っている。

二上がり  関のお地蔵は親よりましぢゃ、親も定めぬつまを持つよの、かへではな

いかこれ與作、さったもない事ほてつぱらめがえ、坂は照る照る鈴鹿はくもる、さきは

いと言うてははいどうし、あいの土山雨が降る

 

 また「おつづら馬」という小唄があります。

《のぼり下りのおつづら馬よ、さても見事な手綱染かいな、馬士衆のくせか高聲で、 鈴をたよりに小室節さかはてるてる鈴鹿はくもる、あひの土山雨がふる

 

 さらに鈴鹿馬子唄」は、近松門左衛門丹波与作待夜小室節』宝永五年(170

8)に端をはっして有名になったものであります。伊逹の与作という馬方の情婦の小万

が関の白木屋の留女であった関係で、鈴鹿峠を稼ぎ場とする馬子ということになってい

る。さらにこれが「恋女房染分手綱」という外題の狂言となって、「重の井の子別れ」

の場面で幼い馬方の三吉が「坂は照る照る~」の鈴鹿馬子唄をうたって、観客の袖をし

ぼらせる場面がある。

 いずれにせよ、丹波与作と関の小万の話にからんで伝わったものである。上に挙げた

ようにこの「鈴鹿馬子唄」が小諸に伝わり、「追分節」の元唄になったという説がある。

 

 奈良県初瀬街道の馬子唄で、別名、「初瀬追分」ともいわれる唄の中に、

  ♪初瀬は照る々々黒崎曇る 中の出雲に雨が降る

などという歌詞があり、「信濃追分」では、

  ♪坂城ゃ照る々々追分くもる、花の松代雨が降る

となり、「江差追分」では、

  ♪江差照る々々函館くもる、間の福山雨が降る

となる。

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♪ 坂はアアーアアア 照るウ照エるウーウ
  鈴鹿アはアアアーア曇オオるウ(ハーイ ハイ)
  あいのオオオーオオオ土山アーア 
  エエー雨がアアアア降ウウーウウウウウるウ(ハーイ ハイ)   

 

♪ 坂の下では 大竹小竹 宿がとりたや エー小竹屋に

 

♪ 与作思えば 照る日も曇る 関の小万の エー涙雨

 

♪ 与作丹波の 馬追なれど 今はお江戸で 刀差

 

♪ 関の小万が 亀山通い 月に雪駄が エー二十五足

 

♪ 関の小万の 米かす音は 一里聞こえて エー二里ひびく

 

♪ 馬は戻(い)んだに お主は見えぬ 関の小万が エーとめたやら

 

♪ 昔恋しい 鈴鹿を越えりゃ 関の小万の エー声がする