「馬子唄」と「馬方節」

「馬子唄」と「馬方節」、「駄賃付け」と「夜曳き」

 

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 わしがまだ子供であった昭和30年頃、馬が家の前を馬糞をボタボタ落としながら引かれていく光景を覚えています。

 当時、祖父がまだ元気で漁師と百姓をしていましたが、わしが生まれるずっと前には自分の家でできた野菜を馬で遠くまで売りに行ってた、という話を聞いたことがあります。もっともわしが子供の頃には豚小屋と鳥小屋はあったが、馬小屋はなくなっていました。

 閑話休題

 馬子唄(馬方節)というのは、馬子が馬を曳く道すがら唄った労働歌であったわけだが、大まかに分けて「駄賃付け」「夜曳き」があります。
「駄賃付け」は人や荷物を乗せていくもので、大体一頭をひいて歩きます。
それに対し「夜曳き」は、馬市などの行き帰りに一人の博労が何頭もの馬を曳いて歩きます。その場合、昼日中に狭い街道を歩いては通行人の邪魔だし、生来臆病な馬がなにかの拍子に驚いて暴れ出したら大変なので、夜間人通りがなくなってから移動します。
 博労と馬だけの夜道は心細いものなので、眠気を覚ますためにも道中に唄を歌ったわ
けです。そのために「夜曳き唄」と呼ばれたんですね。

♪ ひとり淋しい 馬喰の夜道 鳴るはくつわの 音ばかり

などという歌詞が「夜曳き」の代表的なものであるのもうなずけます。


「道中馬方節」(青森)、「南部馬方節」(岩手)、「秋田馬方節」「秋田博労節」(秋田)、「最上博労節」(山形)、などは、いずれもその「夜曳き唄」ですが、曲名の違いは地域的・個人的な違いで、もとは同じ唄から発生したものと推測できます。

 何頭もの馬を、夜間無事に移動させることを目的にする博労の歩き方は、どうしても
ゆったりとしたものになる。それに対し、ある場所まで人や荷物を運ぶ「駄賃付け」馬子の足はとかく速くなりがちである。この歩調の違いが「夜曳き唄」のゆったりとした唄と、テンポのよい「駄賃付け唄」の違いとなっているようです。「夜曳き唄」は出だしの♪ハアーを長く引いて唄う事が多く、「駄賃付け唄」の方は、あまり出だしに♪ハアーをつけることは少なく、いきなりテンポよく唄い出す唄が多いようです。


 またこれはわしの個人的感想ですが、「夜曳き唄」は夜中に唄うせいか、どうしても暗く湿っぽい感じだが、「駄賃付け唄」の方は昼間に唄うせいか明るくほがらかな感じ
の唄になっているように思う。もちろんすべてに当てはまるわけではないがね。

 

♪ あおよ泣くな もう家ヤ近い 森の中から 灯が見える(小諸馬子唄)
♪ 清水峠も ことなく越えて かかの笑顔が 目に浮かぶ(上州馬子唄)
♪ 三坂越えすりゃ 雪降りかかる 戻りゃ妻子が 泣きかかる(三坂馬子唄)

 

などという文句を唄うと、馬子のつらさ、成熟した夫婦の情念を感じ、なんともせつない気分になります。 
 それがまた馬子唄の魅力でもあるし、この馬子唄から「追分節」が生まれ、最終的にあのなんともいえない情感あふれる「江差追分」へとつながっていくわけです。

 

 馬子唄は東西を問わず、わしの知る限りはほとんどが「じんく」形式で、山が二個所あります。これは「江差追分」も同じであります。このこと一つをとっても、「江差追分」は馬子唄をの流れをくむものであると言えます。
 
 甚句(じんく)についてちょっと述べておきますと「甚句」とは、多くは七・七・七・五の4句形式で、全国各地でそれぞれ独自の唄われ方をしており、江戸初期から流行。「地  ん句」「神供 (じんく) 」の意からとも、また、越後国の海老屋の甚九郎という人名からともいうがはっきりした定説はないようだ。近代歌謡調に分類されます。
東海道中膝栗毛(1802‐09)には「しかしまんだ、わしがじんくを、旦那がたへきかせたい」とあり、この頃には土地々々に自慢の「じんく」があったのです。
 
小室節の代表的歌詞
 さてもみごとや(3+4)7
 おつづらうまよ(4+3)7
 まごのこうたに(3+4)7
 こむろぶし       5

鈴鹿馬子唄の代表的歌詞
 さかはてるてる (3+4)7
 すずかはくもる (4+3)7
 あいのつちやま (3+4)7
 あめがふる        5

南部馬方節の代表的歌詞
 あさのでがけに (3+4)7
 やまやまみれば (4+3)7
 きりのかからぬ (3+4)7
 やまもない        5 

江差追分の代表的歌詞            
 おしょろたかしま(3+4)7
 およびもないが (4+3)7
 せめてうたすつ (3+4)7
 いそやまで        5

 その共通項を持つ馬子唄が、東北地方から発生して西に広まったのか、はたまた伊勢伊賀地方から東に広まったのか、色々の説がありますが、東北地方発生説は比較的少数に見受けます。
 

 

 再び民謡研究専門家の見解。


『民謡地図』③ 竹内勉
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 「馬子唄」と「馬方節」という類似した曲名についてであるが、内容的には全く共通
で、駄賃付け馬子(馬方)が、人や荷物を馬の背に乗せ、曳きながらか、その戻り道に唄う仕事唄である。ただ厳密に言うと、「馬子」+「唄」と、「馬方」+「節」とは異なる。すなわち、「職業名」+「唄」。たとえば「酒屋唄」「海女唄」「雲助唄」など一連のものは、その職業集団の人々が好んだ用いる「唄」という意味である。
 その「唄」または「歌」とは、「声を長くして、節をつけてうたう詞」が本来の意味である。これに対して「馬方節」の方は、「馬方」+「節」で「職業名」+「節」である。
ここで問題なのは、「馬子」と「馬方」ではなくて、「唄」か「節」かが重要なのであ
る。「節」とはその「うた」の節回しに関心が生まれてからつけられるもので、その点
で、「○○唄」が先にうまれた曲名で、「△△節」はあとから発生してきた「命名法」で
ある。したがって、「馬子唄」が先に曲名として存在し、のちに「馬方節」という呼び名が追加されたということになる。

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追分節竹内勉
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 「馬方節」と「馬子唄」は別のものだと考えている人が多いが、本来は同じものであ
る。ただ、強いて言えば、曲名をつける際に馬方という職業の人たちが唄う節まわしの唄といった具合に、曲・節に重点を置いてつけた曲名が「馬方節」であるのに対して、「馬子唄」のほうは、馬子という職業の人が唄う唄といった、曲そのものより用いる人に重点を置いた命名法による曲名である。で、どっちが古いかと言えば、「田植え唄」とか「臼挽き唄」といったように、用途などが中心になっている命名法が古く、のちに節中心の「〇〇節」といった曲名が登場してくるのである。この2つの命名法から生まれた曲名が現在共存しているので紛らわしいが、使う人たちは別に区別せず、「馬方節」と言ったり「馬子唄」と言ったりしている。あくまで語呂・語感だけの違いである。
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日本民謡大観(関東編)』
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 馬子も馬方も字義としては同じようなものであるが関東地方では駄賃付と称し、馬を物資運搬の具に供して生活を立てて居るものを馬子又は馬喰と呼んでいる。然し東北地方で普通馬方と称せられるのは馬の売買を専門としている博労のことで、馬市へ馬を曳いて歩き、ある場合には数十頭の馬を甲から乙へと曳いて行くような事もあって、いわば馬を扱う専門家で、駄賃付けのしがない稼業の馬方も居るが東北地方ではこれ等はまず馬方の部類には入らぬ方である。然し関東では東北のように多く馬を産しないので従って取引交換が行われないから、駄賃付け以外の馬方は稀であり、南部や津軽地方のように一人で十数頭の馬を宰領しつつ旅を続けるといった光景は見られないのである。又徳川時代には街道に近い農村は助郷に狩出されて屡々苦渋を嘗めさせられていたが、この助郷の百姓なども仕事を終わった帰り道などに通行の旅人を拾って小遣い稼ぎをしていたことは十辺舎一九の「膝栗毛」等に描写されている通りである。
 馬子唄といい馬方節というも、要するに馬子なり馬方が謳う唄だからこう呼ばれたに相違ないが、リズムや旋律の上からこれを音楽的に見ると駄賃付けの馬子の謳う唄に比べて売買専門の博労が夜道をする時に謳う唄とは大辺違っていて、駄賃付けの馬子唄が比較的に節もあらく、万事があっさりとしているのに対して夜曳唄(東北地方では売買専門の博労が馬を連れて旅をする時の唄を夜曳唄と言っている。これは昼間のうちは野原などに休憩し夜に入ってから朝になるまで徹夜で歩くので夜曳と称した)の方は節は中々細かくかつ技巧的でテンポ等も頗る長く引っ張って唄うのである。
 関東地方の馬子唄は駄賃付けに属するもので、「夜曳唄」は関東地方にはない。
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 結論的には、一部例外はあるが、概ね


「馬子唄」≒「駄賃付け」、「馬方節」≒「夜曳き」


ということになろうか。

 

 

 

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