古調追分

 

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 江差に発生した江差追分は、明治初期、江差地方の風土にとけこみ幾多の変遷を経ながら、愛好者の生活環境や労働形態の相違から、その微妙な節回し、止め方に違いができ多くの流派が生まれてきたのです。「浜小屋節」が最も古い型のようで、ついでその浜小屋節が新地に入って「新地節」となり、さらにこれらの追分は、いろいろな街道や山道を馬を曳いて歩く馬方の間に馬方節として唄われた。そうした馬方は江差の北の方、詰木石町を中心に住んでいたのでその追分の事を「詰木石節」という。


 「浜小屋節」は、津花の浜通りに住む、船子、漁師などの人々の間に唄われた労働歌で、また浜小屋の遊興のなかで唄われた唄である。別名頬かぶり節、地方にあっては在郷節とも呼ばれ伴秦楽器として三味線、太鼓が使われ、本唄の後に後で述べるような諧謔味のある囃子がつけられた。


 ♪ えぞ地海道に お神威なくば
   連れて行きたい 場所までも
  来たか丁さん待ってたハイ
  お前ばっかり可愛くてハイ (村田弥六)
 
 「新地節」(または旦那節、艶節、芸者節)は、花街で親方や船頭衆が三味線に踊りをつけ二上がり新内入りの追分など座敷唄として発達させたものである。
 ♪ 鳥も通わぬ 八丈が島へ
  (新内)「やらるるこの身はいとわぬ あとに残りし妻や子は」
   どうして月日を送るやら (高野小次郎)

 

 「詰木石節」とか馬方節といわれるものは、主として町内の詰木石地区(現、愛宕、新栄町)に住む馬方衆や職人達によって愛好され発達したもの。この頃には後ろにつける囃子詞は失われているが、この「詰木石節」が正調追分節へとつながっていったのです。


 以上の分類もきわめて概括的なもので、実際には美声の持主がそれぞれ一派を名のり、多くの派閥に分かれていたのである。
 こういう状態は明治中期までの様相で、これを「古調追分」と呼んでいるが、その当時の唄は本唄の後に囃子をつけて唄われていた。しかも一定の型式がなく声自慢達によって長短、高低、抑揚ともに自由奔放に唄われており、明治の初年頃から江差で名の出た唄い手には、山岸栄八、桜井タケ、杉野儀一郎、岸田シゲ、田中ミワ等の名が残っています。 当時、小桝のばあさんとして知られた小桝清兵衛の祖母は三味線の師匠で追分節を極め、詰木石派を深く研究して基本唄を作り、座敷唄として親方衆や船頭連中にも教えなどした。この小桝のばあさんの唄が現在の正調追分節の元祖と言われています。

 

 この「正調」ということについて、湯朝竹山人が『歌謡襍稿』の中でちょっと穿った見方をしているので紹介しておきます。
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 さて、「正調」ということ。現在北海道の追分節仲間で代表的に知られている人に越中谷四三郎という人があり、私は江差で同氏と逢い、親しく聞いた話によると、追分節は、昔は七節に唄われていたのが中絶していた。どういう塩梅に七節に切るのかわかりかねた。然るに平野源三郎、越中谷四三郎氏等が工夫して、七節の調が案出された。そこでこれに「正調」の名を冠して流行させた。それが今日の「正調江差追分節」だということであった。
 そこで、私は正調の二字を冠した理由を尋ねてみたけれど、越中谷氏には明らかな答えはなく、誰いうとなく正調追分節ということになったしまいましたと漠然たる挨拶であった。私の思うにこの二字は「萬朝報」の「俚謡正調」が世間に宣伝されていた時分、小樽か札幌あたりの新聞記者が、追分節にこの正調の文字を流用したことでもあって、それが江差の追分仲間に、わが物のように使用されることになったのではないかと推量される。北海道の人の間にも、この推量をどうやら事実らしくいうものもある。
 今日では追分節といえば、七節に唄う事が一般の約束のようにはなっているけれど、昔の松前節は、五節だの七節だのというような不自然な窮屈な唄い方をしたものとは思えず、この唄特有の哀哀切々の調が、声にも節にも、もっと自然でもっと自由で、さらにもっと個性的、即ち、唄う人の主観的情調を表現して唄われたものであったろうかと私は推察しておる。
 もしそういった推察が容れられるならば、正調の二字は別の意義が現れてくるはずで、七節に唄う事が正しい調であるという意味は疑わしく、正しい正しくないというような定義は、元の松前節と今日の正調節とを比較対照して、聴き分けた耳には、異様な感じがする。それゆえ私の思うところは、正調追分節という名は、まさしく「新派追分節」という意味に解することが最も理解的だと信ずる。古調から変化して、新しい唄い振りが産まれたので、正調とか変調とかいうのではなく、昔の調べに対する新しい唄い方というのであるから、新調である。古調に対して新派の調といわねばならない。
 さりながら、現在、世間一般に「正調追分節」で通じているので、今更いかんとも仕方のないものの、一応はこれが解説を与えて、正調の意味が、本来的に理由があってのことではなく、ただ唄い方を「七ふし」に唄うことに変えたというだけの意味であることを、明らかにしておく必要はあろうと思い、この機会に愚考の一端を述べておく。
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 「正調」というのは何も老舗の本家争いで冠された文字ではない、ということだけは確かなようだ。

 

 日本俚謡研究会金田空山編纂の日本民謡には《江差追分には古調と正調があって、古調は本唄が主で必ずしも前唄や後唄を必要としない。かわりに「ソイあぶらこ鰈真鰈、一朱に三枚バッタバタ」などの囃しを用いる。正調は前唄、本唄、後唄の三段形式のことである。》とあり、 札幌市の旭吟城は、北海道民謡全集』(昭和40年刊)の中で、《「古調追分」とは明治の中頃まで唄われた追分節を総称していうのであって、「前唄」や「後唄」がなく、「本唄」のみ唄っていたものであります。そして「本唄」の後に必ず次のような囃子詞をつけたものであります。》として、次の6つの囃子詞を掲出しています。


 ハー ソイ
 アブラコ鰈 真鰈 百で三枚
 バッタバタ ソイ ソイ

 

 ハー ソイ
 売って鰈 買った馬鹿
 イサバ呑んでくだまきゃ なお可愛い

 

 ハー
 投げれば立つよな ドンザ着て
 石狩浜中 ブーラブラ
 あとから掛取りゃ ホーイホイ

 

 ハー
 来たか丁さん 待ってたホイ
 お前ばかりが 可愛くて ホイ

 

 ハー
 お前達浜小屋 まだ見ねな
 江差の五月は 江戸にもない

 

 ハー
 江差の五月は 江戸にもない
 酌婦(アヤコ)踊れば わしゃ唄う

 

 これらを見てもわかるように、囃子詞は、七五調の軽快な、口当たりの良い文句ならなんでもよかったのである。
 実は、唄のあとにこうした囃子詞の、それも意味の通じる軽口や尻取り文句のようなものを加えていくのは、宴席の酒盛り唄に共通して見られるもので「信濃追分」であれ、「おけさ」であれ、「ハイヤ節」であれ、酒席に活気を持たせるのは、この囃子詞であった。
 中でも、昭和23年頃NHKで収録された、古調追分の貴重な唄い手である国仙重作の唄は、


   (本唄)
♪  (アー キタサイ)
松前(サイ)江差の(サイ) 鷗の島は
 (中囃子)
 アー キタカ瓢箪 待ってたホイ
 お前ばかりが 朝起きゃならぬホイ
地から(アーサイ)生えたか 浮島か
 (後囃子)
 アー投げれば立つよな ドンジャピイ
 そこから金取りゃ ホーイホイ 
 スイース

といったものであったし、また、同氏の別の録音では、
♪ アー
止めたとて どうせ行く人やらねばばらぬ
せめて波風おだやかに
 ソイ アブラコ カレ マガレ
 十銭に三枚 バッタバタ

 

 といったものであった。

 

 生田春月編日本民謡集』の中には、信濃追分として
碓氷峠の権現様よ、私が為のは守り神 スイ
来たか長さん待ってた ホイ
お前ばかりが可愛くて 朝越なろかいなあ

 などというのも挙げられている。

 

その他、古調追分の囃子詞としては、次のようなのもあります。
 ハー
 茄子畑のドテ南瓜
 赤くなるまで 待ってくれ

 

 ハー
 ささげ畑のさや豆ッコ
 ひと鞘走れば みな走る
 わしもあとから ついてゆく

 

 次に「浜小屋」なるものについて見ていきましょう。
 文化年間(1804~1814)、津花町に福田屋のいと・さとと呼ばれる二人の女がいた。この二人は、はんぺん・豆腐だとか餡焼餅の類を携えて、港内の船の間を売って歩いた。そのうち人気が出て酒のようなものも扱うようになり、なおさら繁盛するところから、今度は津花の浜に丸木小屋を建てて、ここで酒肴を売って客を招いた。影の町より近くて軽便であるところから大いに繁盛し、遂には何軒も真似をしだす者が現れるまでになった。このようにして浜小屋は二人の女によってはじめられたのだという。
 浜小屋は当時の津花町巡査派出所(元海軍所跡)の位置より北方の海浜にあって、後に南の方まで延長した。丸木小屋は浜の砂の上に丸太を打ち込み、それを縄で粗雑に組み立て、周りを簾垂張りにしただけのものである。安政年間(1854~1860)になってからは、何分狭い浜へもってきて、我勝ちに丸木小屋を建てようとするのだから、しばしば紛争を生ずるに至ったので、遂に官庁が干渉して、一戸分の地積を二間四方の四坪と制限し、浜と町方と両方数丁の間、番号で区別し、抽選によって営業者に下げ渡すことにした。幸い良い場所に当たったものはよいが、反対に不利な場所のくじを引いたものは、見るも気の毒なくらいしょげ返ったそうだ。ところが、二間四方すなわち四坪では客を収容しきらず、木を縛って棚の様にして二階、三階、はては四階にも造った。八畳一間の間に酒肴を置き、女をはべらし、ささやかな屏風を立て隔てて何組もの遊客で混雑したという。その浜小屋でとりもちする女が即ち「あや子」であって、主に福山辺から雇ったのである。顔のいいのは一期三十両、少しお多福でも二十両にはなったという事だ。こういう有様であったので「江差の五月は江戸にもない」とまで唄われるようになったのである。

 一方、「新地」の方はどうかというと、
 江差の貸座敷は切石町・上野町辺に散在していたのを、天保14年に岡本与左衛門・安宅伊兵衛の両人が世話人となって新地町を開き、ここに32軒の茶屋を移したのにはじまるようであるが、ここは比較的高級な歓楽街であって、藩の役人や漁場の親方衆の社交場であった。新地の名は浪花の「新地」をそのまま採って名付けたものである。

 

参考文献
江差』川竹駒吉 明治34年
江差松前追分』森野小桃 明治43年
『小唄漫考』湯朝竹山人 大正15年
『追分の研究』高橋鞠太郎 昭和14年
江差追分其他』阿部龍夫 昭和28年
追分節』竹内勉 昭和55年
江差追分江差追分会 昭和57年
江差追分会HP』
『北海道の追分節について』 田辺秀雄

平野源三郎

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 平野源三郎のことを何故にこのブログで取り上げようと思ったかといいますと、もちろん江差追分の普及に類まれなる功績を残した人物ということもありますが、なんといってもその名前の響きが気に入ったからです。端正な顔立ちと蒲柳の質の若旦那然とした容姿もまた、その生きざまと共に心惹かれるものがあります。そこで、どういう人で、どんな活躍をした人なのかを知りたくなったのであります。同時にまた、平野源三郎を知ることはすなわち当時の追分界を知る事でもありましょう。

 

 正鴎軒平野源三郎は明治2年10月25日、木古内町下町に平野源七の8人兄弟の5男として生まれました。その2年前には江差町中歌町で、後に「唄は平野、竹は小路」と称えられることになる小路豊太郎が生まれています。
 明治18年9月、江差の親戚筋にあたる呉服商平野家の養子となり、私立鷗島学校を優秀な成績で卒業後は、養父の家業である呉服類の行商に従事し、遠く寿都方面まで足をのばした。呉服の他に野菜などの種物も少しは商ったようです。しかし、根が商売向きでないためか、掛売りが多く、営業成績は上がらなかったらしい。
 結婚は2度しています。熊石から迎えた最初の妻とは新婚早々に死別し、2年後、新たに近在から娶った妻とはなんらかの理由で間もなく離別を余儀なくされるなど、たて続けに不幸に見舞われた結果、以後、源三郎は生涯独身を通すことになるのです。しかし、一度だけロマンスの話が残されています。
 高橋タネという明治二十八年江差生まれの老女の談によれば、その頃、三十代の半ば位だった「平野の兄さん」は、いつも質素な筒袖の着物姿で、兵児帯に両手を突っ込みながら、見るともなしに自宅の近所の娘の家の方を見やっていたという。しかし、本人同士が想い合ったその恋も、婿取りが定められた菓子屋の一人娘ということで、結局は実らなかったようであります。

 

  その平野源三郎はいつどのように追分と関わるようになったのだろうか。
 それは偶然から始まりました。
 養母のリカ女が、元々江差新地の蔦屋の芸妓であって、追分をはじめとする諸芸に通じていた人であったのです。
 美声でならしたリカ女は十代の半ばで養子にきた源三郎が声が良く唄好きなことを知ると、当時、新地の取締まりとして町の顔役であった小桝清兵衛の母イク女(小桝の婆さん)に源三郎を紹介して追分を習わせました。
 佐ノ市以来の伝説的な追分名人と言われる山岸栄八の時代が過ぎた明治20年代初期のことで、この頃から市中の心ある人々の間では、第一級の郷土芸能である地元の追分節を、本格的に伝承しようとする気運が芽生えてきたようである。
 小桝屋で稽古に励んだ源三郎は、たちまちのうちにまわりが目をみはるような上達をとげ、当時、柳崎の少し上流に住んでいた饅頭屋の爺さんと呼ばれる人に尺八も習って、その道においても名手と呼ばれるほどになった。 源三郎が尺八の研究に没頭していた当時、商売に行く時にさえ竹管を携帯して歩くこともあったという。そして、ときに興が乗ると他家の仏壇の前で追分を一曲吹いて回向する、といったぐあいであったため、いよいよ腹に据えかねた養父は、後年に、改めて源三郎の養子という形をとって、親戚筋から別の養子を迎えたという。 

 明治20年代の後半から檜山管内はしだいに凶漁となり、とくに33年以降は鰊がほとんど獲れなくなって江差の市中は急激に衰微していった。平野家の家業も巨額の貸し倒れを生じて破綻し、明治42年11月には養父も死亡して、家督をついだ源三郎の肩に家計の重圧が直接のしかかることになった。
 明治40年頃、愛宕町在住の赤石市太郎主催で、豊部内橋畔の高田屋において行われた江差追分競演会が催された。その競演会には、町内外から多く出演者があってノドを競い合ったがその時の唄は各人、各様の唄で種々様々であったといわれている。各派にはそれぞれ師匠が居り細かな節回しや、止めに特徴があり、その伝統をかたくななまでに守り通していたのである。

 一方、幕末以来、知名人の来訪も多くなり、追分の情緒が愛され、道内はもとより東京方面でも名声が高まりつつあった時だけに、江差追分の将来を憂慮する人々から《現在のように追分節が幾通りもあったのでは、後に混迷をまねく結果となる》ことを心配する意見が高まってきた。そこで、当時の桧山支庁長の中村雄蔵氏、神官の藤枝貞麿氏らの有識者が中心となって江差追分の曲調の統一をはかることになった。 
 明治42年11月、町内の追分関係者が参集して、正調江差追分確立のための会合が開かれた。その日、豊部内橋畔の宿屋久保田リセ方(現ふじや旅館付近)の二階に集まった面々は15名程で、神官の藤枝貞麿氏を初め、平野源三郎、村田弥六、四十物久次郎、越中谷四三郎、高野小次郎、船木賢治、若狭豊作、浅木福蔵、小林賢治、桜井タケ、鍵谷トミ、松井トシらの各師匠であった。以後、会合は同じ場所で何度か繰り返して開かれ、その結果、今日の標準的な江差追分の基本をなす「七節七声、二声あげ」という曲節の骨格が、全員異存なく決定された。

 また、この年の前後には平野源三郎が中心となって四十物久次郎、池野信一郎、今泉勝太郎、桜谷松蔵ら各師匠に江差追分の統一を働きかけ、「正調江差追分節研究会」が発足した。この研究会の中で、


「本唄を生命とする」


「詰木石節を骨子とする」


「調子をニコ上げ(二上がり)とする」


「囃子をソイーソイとする」


「七節を七声で途中切らずに唄うものとする」


ことが決定され、正調江差追分として統合の基礎ができ、以後、江差追分については有志一丸となった本格的な研究活動が展開されることになったのである。
 次いで明治44年9月、江差の古老たちが古来わが土地の名謡と誇った追分節の衰頽を嘆いて、北海道各地から追分節の名手と称する者数十人を招き、江差でその競演会を催して追分節復活の機運を促した。その時各名手の唄い振りを玩味の結果、最もその節調の正確優秀と認められたのは平野源三郎のものであったと言う。第一人者としての貫禄を見せつけたのである。

 その後、平野源三郎を中心に標準の曲譜を作るために努力が続けられ、明治44年、現在の7線による独自の曲譜ができあがり、それを東京で正調江差追分節発表会を開いた際、公表して定型化に成功したのです。当時の地元追分会の動きを端的に記した明治45年5月12日付け「江差日々新聞」の記事によると、

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 その昔名物の一とうたわれた江差追分節も、土地の衰微に伴い節調子が大いに乱れ、自分勝手の我流に唄うもの多く、このまま放っておけば、真の追分節を唄える人がいなくなると歎き、当地各同好の者が協議して、さきに追分節研究会を組織し、以来熱心に研究中であるが、この際完全な楽譜を作り、江差追分を永久後世に残そうと計画し、前年当町において追分節大会を開催し、当町は勿論各村落よりもっとも熱心な秀でた者数十名を集め、それぞれうたわせたところ、当町平野源三郎の節廻しがもっとも完全なのを認め、同研究会においては同氏の節調子により専門家に托して完全な楽譜を作らせて、同好にこれを配り、追分節の隆盛を図ろうと既に相談成立し、平野氏は近日上京するとのこと。

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 明治45年6月28日、東京神田のキリスト教青年会館で『追分節演奏大会」が行われたが、そのきっかけは北海道選出の代議士、浅羽靖が東京の音楽学者田中正平に段取りを依頼したことに始まる。田中正平が同好の士五十余名を集めて、その前で江差追分を唄わせたのである。 そのいきさつについて、昭和9年頃の『江差日々新聞』に『江差追分節と来歴』という題で山田伝蔵という人が連載していて、その第二十一回に興味ある記事を書いている。

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 平野氏は養父の没後家計の失敗から落ぶれたので、当時巡査部長をやめて遊んでいた池野という男と語らい、平素唄い馴れた江差追分節を唯一の心頼みとして上京したのである。それも当初の計画では北海道産の煎豌豆に追分豆と命名し、雨にふせ露に宿りながら浅草の四辻に立って、追分節の一つも添い景品として豆売りをしようとしたのであった。ところが偶然の機会から池野の尽力で故人浅羽靖氏に知られ、其そ斡旋で四辻の豆売りに唄う筈だった江差追分節が、神田の青年会館において優幽の哀曲が立錐の余地のないほどの中で唄われたのである。

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 出演した平野源三郎は、持前の幽婉、高尚な声調をいかんなく発揮し、並居る聴衆に深い感銘を与えたのである。ついで、7月13日に同所で行われた公開大演奏会・・・この中で会主の浅羽代議士は平野源三郎のことを江差追分の第一人者と紹介している・・・も好評を博し、以後、平野源三郎追分節の声価は不動のものになった。 その、7月13日神田のキリスト教青年会館で行われた公開演奏大会の模様の当時の都新聞の記事からの抜粋。

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 十三日、青年会館で平野源三郎という江差の人の追分節を聴く。江差節や在郷節などと分類してあるが、前者では、「帯も十勝」、後者では「忍路高島」が数番中の秀逸で、世間で聴き馴れたむやみに甲を高めるのと違って、比較的に低い調子の、底から雪のような潮の花が湧いてザザザザザッと磯をかむかと思われ、肉が締まって波に揺られる感じがする。20番も唄った後でなければ、思う調子が出ないと語ったが、低い調子がかえって余韻深く、やっぱり追分は潮風の吹き荒むなか寂のある声で唄うものだろう。

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 つまり、平野源三郎の唄は、当時在京していた他の寄席芸人のなどとは異なり、比較的低音でありながら、充分に本場の情緒をそなえた唄として大方の好評を博したわけである。
 同じ年の11月1日と2日の両日には、「日本追分節名人大会」が開かれた。出演者は、平野源三郎のほか、名人を自称する越後生まれの柄沢秀逸、九州の森峯吉、坂部登良など多数であった。ところが多くの人達は、美声は美声であったが、徒に技巧を弄したケレン沢山な芸人的なもので追分節本来の情緒をさえ忘れてしまったかのようなものであった。
 その中にあって、平野源三郎の唄は流石に古朴幽婉、かみしめればかみしめる程味のあるものであったが、耳の肥えない者が聴くと余りに平淡なようで、情味に乏しく、左程に前受はしなかったようである。また、ある人は平野氏は年齢のせいか、かつての美声がなくなったのは誠に惜しいものだと言っていた。しかしながら、羽織袴に威儀を正し、直立したまま尺八伴奏で唄ったため、大変に評判がよく、これがきっかけで東京の江差追分平野源三郎の節まわしが中心になって広まり始めた。

 次の、民謡研究家竹内勉の見解などはなるほどと思わせるものがある。

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 この三回にわたる東京での江差追分鑑賞会で多くの人を集めることができたのは、東京には越後の米搗き・風呂屋に代表されるように、大勢の越後の人達が集まっており、北海道の追分節には、それも浜小屋節的唄い方には、ヤン衆その他で北海道と交流があるだけに、耳なじみであった。しかも江差追分の前身である松前節は越後生まれだから、越後の人たちにとっては故郷の唄という感じが強かったのだろう。

 次に、平野源三郎の唄が好評を博した理由は、東京は江戸時代に武家文化の花が開いたところだけに、折り目正しい品位と格調のあるものを好んできた。しかも儒教の影響でか、ひたすら耐える殉教者的な人に共感を覚え、更に加えて判官びいきという日本人の心情がある。そこへ松前江差からはるばるやってきた平野源三郎という男が、紋付き袴に威儀を正し、朗々と唄うことで、まず印象をよくしたようである。そこへもってきて「江差追分」という唄が、寂れゆく江差の人たちの、かつての栄華をしのばせる心のよりどころの唄として復活してきただけに、判官びいきの心情を揺すった。しかも、尺八という、かつては普化宗の虚無僧の吹いた宗教楽器が加われば、それは一種の無常感を感じさせる宗教音楽でもあった。それらすべてがうまく融合して観客の共感を呼んだのだろう。これに反して評判の悪かった他の人たちの唄は、多分、生臭さ、アクの強さ、そして地方の花柳界の唄らしい野暮ったさがあり、それが徳川のかつての城下町東京では受け入れられなかったのではないかと思われる。

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 その後、平野源三郎はすぐ北海道へ帰らず、ひきつづき1年程在京し、その間、後藤桃水(後年、東北民謡の育ての親と言われる)の尺八伴奏で各種の演奏会に出演したり、吉原、芳町辺の芸妓にも教授し、「櫓声会」という会を設けて一般の同好者に追分節を教えたり、瀬棚の芸妓駒助の伴奏でニッポノホン社のレコードに吹き込むなど、縦横の活躍を続けた。 

  

https://www.youtube.com/watch?v=5fBPAdn-Wec

https://www.youtube.com/watch?v=aQWrsTYppLk

https://www.youtube.com/watch?v=qEcqk9nlr0c

https://www.youtube.com/watch?v=BbO1uf7gonw

 

 今日に残された源三郎のレコードは、いづれも荘重な中に一抹の哀感をたたえ、その頃、秋風落莫の感深かった郷里江差のために、万丈の気を吐いている。ところが、間もなく病にかかりやむなく一年余で帰郷することになったのであるが、その頃、養家はすでに家業不振のため没落しており、義父との折り合いも悪いことなどから安住の地もなく、自ら詰木石地区に組織した江差追分節研究会もすでに分裂していた。
 大正3年8月、失意のうちに札幌に出て、「正調江差追分節教授所」を開き、旗亭「いくよ」やススキノの芸妓などに教え始めるが、ふたたび病状悪化し江差に戻って療養に努めた。
 大正4年2月5日の『北海タイムス』紙に連載の「追分節名人鑑」に、平野源三郎について次のように掲載された。紹介者は江差町 江差追分節研究会である
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 江差追分の名手は平野源三郎氏と村田弥六氏を東西の大関とするべきであり、そして平野氏は純江差産であって年四十六才。幼い頃より歌が好きで、その生母もまた追分節の名手として名声高く、その遺伝ともいえる。元来氏の声調は謡曲における宝生流の格調を帯び、優婉にして撥音強く厳しい所、しかも一糸乱れず聴く者を知らず知らずのうちに断腸の妙味に引き込む。明治四十五年中故浅羽翁の紹介で上京中、知名人の勧誘を断りきれず、神田美土代館にて大演奏会を開催し絶大の喝采をあび、都中の同行者を熱狂させ、各新聞紙上に賞賛されるこことなった。特に高官の招待を数十回も受け、又美音会あるいは演奏会に出演し、毎会非常の好評を博した。次いで日本蓄音機商会の頼みで蓄音機に吹き込む等その音譜を求めるもの頻出し、ついに東京に滞在せざるをえなくなった。東京に追分節教授所を開いたところ実に多くの同好者を得た。また氏は追分尺八の名手としても知られ、氏は追分節を馬子唄と在郷節正調の三種に分け、以下に同好者の参考までにその文句を掲げると、
 (三下がり馬子唄)
 ♪ 思ひ捨てるは叶わぬとても縁と浮世は末を待て「心細さよ身は浮き舟の誰も舵取る人も無い「文の表書薄墨なれど中に恋路が書いてある
 (在郷節)
 ♪ 帯も十勝に其まま根室落ちる涙は幌泉「ありゃ鳴く筈だよ野に住む蛙みずに逢わずに居られよか「大島小島の間とおる船は江差うけよか懐かしや
 (正調)
 ♪ 忍路高島及びもないがせめて歌棄磯谷まで「櫓も櫂も波に取られて身は捨小船何処に取りつく島もない「波の音聞くがいやさに山家に住めば又も聞こゆる松の声
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 大正4年の5月には再度、札幌に出て「追分教授所」を当分南5条西5丁目、岡本方で開始。暮れの12月18~19日には平野源三郎が札幌に来たのを記念して、狸小路巴館にて「平野源三郎来札記念各流追分節大演芸会」が開催され、尺八小路豊太郎、唄田沢はつ、札見民子、鶴子、筆助、東金吾、富士丸、加代、幾松、お染の出演、久しぶりに小路豊太郎と平野源三郎の尺八合奏が行われたことを北海タイムスが報じている。 
 かくて、盟友小路豊太郎との共演も実現したが病再発で帰郷。療養生活を送るようになったが、札幌での追分暮らしが忘れられず大正6年4月、病を押してふたたび出札した。同月30日の北海タイムスは「江差追分平野氏来札」の見出しで、、《江差追分節名家平野源三郎氏は長々病気にて郷里において治療中だったが、今回出札、一時、南二西七柴田如峰方に寄寓していたが、近日稽古を開始する筈》と報じ、翌5月14日の同紙には「平野氏の稽古」の見出しで《江差追分節名家平野源三郎は、今回札幌南4条五5目(旗亭福井横)へ寄寓し、いよいよ今14日から何人でも追分節の稽古をなす由、一時衰えかけた江差追分も又々勃興することになるだろう。》と報じている。
 源三郎が一時寄寓した柴田如峰(欣兵衛)は、江差新地のうなぎ屋の娘で名妓とうたわれた茂吉の夫で、新聞業をやったが、のちに札幌に出て北海タイムスの記者として活躍、大正元年退社して札幌の北3東2の「大正館」の経営に乗りだし、同年12月14日から三日間「経営披露大演芸会」を開催している。
  大正6年6月4日、北海タイムス社主催の「札幌郵便局集配人慰労演芸会」が南3条西2丁目の中央館で行われて、平野源三郎が出演するが、これが源三郎の最後の舞台となった。
 いよいよ体調が思わしくなくなった源三郎は、郷里に戻らず幌内尋常高等小学校勤務の息子下川部勝太郎(養子)が住む幌内に移転し病床に伏した。
 そして翌大正7年8月21日、同地で淋しくこの世を去った。享年四十九才であった。
 三木如峰によれば、臨終の際、枕辺に呼ばれてすべての後事を託され、正鷗軒の跡目を継ぎ平野派家元として正調追分節を後世に伝え、益々普及発達を期して貰いたいと懇々依頼された由。
 なお、没後の大正12年11月に江差において同好者による「追分界名人故平野源三郎氏追弔会」が行われている。

※参考文献
『小唄漫考』湯朝竹山人 大正15年
『正調追分節』三木如峰 昭和14年
追分節』竹内勉 昭和55年
江差追分江差追分会 昭和57年
江差追分物語』館和夫 昭和64年
『鷗嶋軒小路豊太郎と周辺の人々』井上 肇 平成7年
『 風濤成歌』江差追分会 平成11年

江差追分会HP』

 

 実はこれは意外に知られていない話なんだが、明治45年6月28日の東京神田のキリスト教青年会館で『追分節演奏大会」が行われた時に、なんとあの苦沙弥先生が聴きにきてたと言うんだ。これは美学者の迷亭の日記に書いてあることだから間違いはない。
 「いつもいつも、後架で近所迷惑な詩吟ばっかりうなってないで、ちょうど追分節の演奏会を神田でやるという話だから、気晴らしに行ってみようじゃないか」といったら、
「どうも胃の調子がよくないから気が進まないな~、そりゃ浪花節みたいなものか」
「まあ、そんなようなものだ。きれいなね~ちゃんも出るようだから騙されたと思っていこうや」
とまあ無理やり連れて行ったはいいが、後でえらい怒られたそうだ。
「なんだ見目麗しい乙女がでるっていうから行ったら、ジジイばっかじゃねーか」
                            おあとがよろしいようで

歌詞考6(蝦夷や松前やらずの雨が~)

 

  信州追分宿の「追分節」が文化文政の頃(1804~30)に、流行り唄として日本中に広まった中で、新潟県下にも伝えられ、信濃川の河口に開けた港町、新潟の花柳界でも盛んに唄われた。その「追分節」を覚えた船乗りたちが海上で舵を取りながら口ずさむうちに、ゆっくり、長く伸ばして唄う節になっていった。そして蝦夷松前やらずの雨が七日七夜も降ればよい という歌詞が好んで唄われ、その唄い出しの語から「松前節」と呼ばれるようになった。というのが通説ですが、

 陸の追分節がどの時点で海の追分節に切り替わったのか、その起点というかきっかけになったのがまさに松前節」なのであります。

 新潟県で今日「越後追分」という唄は、かつての越後では「松前節」と呼ばれていました。

 この「松前節」が「越後追分」と呼ばれるようになったのは、大正の末頃にラジオ放送が開始され、新潟県からも全国中継でこれらの唄が放送されるようになって以来のことだから、放送局の命名によるものであったのです。

 同じことが、「信濃追分」についてもいえます。やはり大正の末頃に、信州でレコードに吹き込むにあたって、「追分節」では地方色がないということで、「信濃追分」と命名されたのです。

 

 湯浅竹山人は「追分節」と「松前節」とが同じものであるかということにつき、ちょっと穿った見方ではあるが、その著追分節松前節に就て』の中で次のように述べている。
ーーーーーーーーーー
松前節は海の産であり、追分節は陸の産である。松前節は船頭唄であり、追分節は馬士唄である。松前節は波の上下に動揺する調子から生じ、追分節は馬士が牽く馬の歩調から生まれたのである。松前節は片手の五本の指を上下して波の動揺に準じ、追分節は四個の茶碗を伏せて、畳の上で馬の歩む足取りの音をさせて初学に稽古する所以である。従って唄の文句も自ら異り、忍路高島及びもないがせめて歌棄磯谷までの如きは、純松前節の唄であって、西は追分東は関所せめて峠の茶屋までの如きは、純追分節の唄である。
ーーーーーーーーーー
 

 越後の追分(松前節)が、北海道の追分節よりはいっそう馬子唄に近いという一例として、町田佳聲は『民謡源流考』の中で、畦上三山の唄う「松前節」を取り上げている。 

♪寒いアー風だよ アーちょぼいち アー風は
  しわりごわりと アー吹いてくる

(合いの手)

♪鳥も通わぬ八丈が島へ ヨーイトナー
  コリャやらるるこの身はいとわねど
  後に残りしアノ妻や子がネ
  コリャどうして月日を送るやら
  アーエンヤラヤノヤー
  アエンヤラヤノエンヤラヤノ エンヤラヤノヤー 

 

 ここでは各句にアーといううたい出しのついているところから、これこそ馬子唄からきているなによりの証拠であり、この唄が信濃から越後へ、越後から北海道へ渡ったというコースに間違いのないことがわかるという。 

 「松前」とは、江戸時代に現在の北海道の西南部を治めていた領主の名で、福山(現在は松前町)に城を構えて松前城と呼んでいたので、蝦夷地の代わりとしても「松前」という語がつかわれていた。その「松前」を越後で使用しているのだから、これは北海道のほうから広まったと考えるのが普通だが、そうすると松前節」の代表的な歌詞である、

蝦夷松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい 

の説明がつかなくなる。

 そこで町田佳聲・竹内勉のコンビが考えたのが、《この唄は、蝦夷地のほうへ去っていく男との別れを惜しむ女の気持ちをうたったものであろうが、もちろん、こんな文句が信濃追分宿あたりで生まれるはずはなく、「追分節」が越後に移されてから、はじめて越後でうたいだされたものに違いない。それで、この文句の初句をとって、まさか「蝦夷節」もおかしいので、松前節」と、だれがいいだすでもなく呼んだのが固有名詞化したのであろう。

 このことは、近世の小唄俗曲の名が、いずれもその歌詞のうたい出しをとって曲名にしてることからもいえる。たとえば、♪春雨にしっぽり濡るる で「春雨」、♪さんさ時雨か萱野の雨か で「さんさ時雨」であり、♪吹けや生保内だし で「生保内節」と呼んで、別に生保内村の唄だから「生保内節」といっているわけではなく、ただ単に、歌詞の最初をそう唄い出すから、それが通り名になっただけである。》というものであった。これがいまでは通説となっているわけです。

 次に『民謡源流考』より二人の「松前節」を歌詞のみ引用させてもらいます。

それぞれにいったい誰に習った唄なのか知りたいものだ。

※はわしの感想。

 

松前群馬県〕樺沢芳勝

 (本唄)

 蝦夷松前 ハアーやらずの雨が

 七日 ハアー七夜も 降ればよい スイースイー

 (合いの手)

 お前越後か わしも越後 ヨーイトナ 

 コリャ お国訛りが 出てならぬ

 越後出るとき 涙で出たがネ

 コリャ 今じゃ新潟の 風もいや スイ スイ スイー スイ

  ※江差追分のソイ掛けの古い形がはいっている。

 

松前新潟県〕岩瀬国風
 (本唄)
 蝦夷松前 ハアーやらずの雨ヨー
 七日八日 ハー七夜も 降ればよい 
 (合いの手)
 送りましょかよ コリャ 送られましょか ヨーイトナ 
 せめて波止場の 茶屋までも

 コリャ 未練でいうのじゃ わしゃなけれどネー

 コリャ 別れりゃいつまた 逢えるやら

 

 ここで特筆すべきは、明治から大正初期にかけては、一部の例外を除けば、ほとんどが「♪ 蝦夷松前やらずの雨は~」であり、それ以降は「♪ 蝦夷松前やらずの雨が~」となったことである。理由は不明であります。

 

 

『風俗画報』山下重民 明治40年

♪ 蝦夷松前やらずの雨は 七日七夜も降ればよい松前追分節

 

 

『写声機平円盤美音の栞り』天賞堂 明治44年

♪ 蝦夷松前やらずの雨は 七日七夜も降ればよ~いスイスイ(追分節

 

 

『里謡集拾遺』高野斑山、大竹紫葉共編 大正4年

♪ 蝦夷松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい松前ぶし)

 

江差松前追分節』河合裸石 大正6年

♪ 蝦夷松前やらずの雨は 七日七夜も降ればよい

松前に出稼ぎしようとて情人と別れを惜しむ夜、屋根を打つ雨の音を耳にして歌ったのであろう。

 

松前追分番付札幌富貴堂発売 大正7年7月

♪ 蝦夷松前やらずの雨は 七日七夜も降ればよい

 

追分節物語』横田雪洞 大正8年

♪ 蝦夷松前やらずの雨は 七日七夜も降ればよい

綿々の情切に忍びえず、せめて蝦夷の入り口迄にてもとの愛着湧く。その恋愛の情が、

その惜別の心が、はかない遣瀬ない彼女らの心から出て、ついに忍路高島となれりと言う。


蝦夷地の旅から』小早川秋声 大正9年
♪ 蝦夷松前やらずの雨は 七日七夜も降ればよい江差松前追分)

 

『正調江差松前追分;謡い方と尺八の吹き方』越中谷四三郎他 大正11年

蝦夷松前やらずの雨は 七日七夜もふればよい

こうした歌詞を入船出船の時に、自慢の声を張り上げて、櫓櫂をそろえた歌うのをきく

と哀愁を覚える。

 

『小唄伝説集』藤沢衛彦 大正9年

♪ 蝦夷松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい

 

『趣味の小唄』湯朝竹山人 大正9年

♪ 蝦夷松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい松前追分節

 

日本民謡史』藤沢衛彦 大正14年

♪ 蝦夷松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい松前節)

 

『小唄漫考』湯朝竹山人 大正15年

♪ 蝦夷松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい(越後松前節)

 

『異国情緒集』新村出編 昭和3年

♪ 蝦夷松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい(新潟)

 

郷土史研究講座 第二号』雄山閣 昭和6年

♪ 蝦夷松前やらずの雨が 七日七夜も降ればよい(越後松前節)

 

『郷土芸術日本民謡』日本郷土里謡研究会編 昭和6年

♪ 蝦夷松前遣らずの雨が 七日七夜も降ればよい越後追分

 

『詳注全・地方民謡集』交蘭社 昭和7年

♪ 蝦夷松前やらずの風が 七日七夜も吹けばよい松前追分)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  



 

 

信濃追分

 信濃追分 - YouTube

信濃追分(1972) - YouTube

 

 わしは今、健康を回復したら行ってみたいところが二個所あります。一つは神威岬の神威岩であり、今一つが信濃追分宿です。この二個所にはわしの目が黒いうちになんとか行ってみたいものです。神威岩はちと難度が高いが、信濃追分駅までならその気になれば二~三時間で行けると思う。写真では味わえない生の「分か去れ」を見てみたいものだ。

 

 そもそも「信濃追分」という曲名は何処から来たのでしょうか。
もともとは、信州追分宿の「追分節」です。この「追分節」の最も古い文献とされているのは、松井譲屋編『浮れ草』<国々田舎唄の部>文政五年(1822)追分節の項に記されている次の七首です。


♪ こゝろよくもておひわけ女郎衆、あさま山からおにがでる
♪ 一夜五両でもつまもちゃいやよ、つまのおもひがおそろしや
♪ さらし手ぬぐひちょいとかたへかけ、あくしょがよひのいきなもの
♪ あのやおひわけぬまやら田やら、ゆくもゆかれず一トあしも
♪ うすいたうげのごんげんさまよ、わしがためにはまもり神
♪ あさま山ではわしゃなけれども、むねにけむりがたえやせぬ
♪ おくりましょかよおくられましょかよ、せめてたうげの茶屋までも

 

 因みに、「小室節」の名称が出てくる最も古い文献といえば、『吉原はやり小唄総まくり』です。これは寛文二年(1662)版の草紙で、<万治二年(1659) 所々より吉原迄の駄賃付けの事>として、


一、日本橋より大門まで並み駄賃弐百文馬奴二人小室節うたふ かざり白馬駄賃
   三百四十八文


などと記されているので、およそ160年の開きがあるところから、「追分節」から「小室節」へと広まっていったというのは無理があろう。

 

 『小唄伝説集』藤澤衛彦 大正9年(1920)
ーーーーーーーーーー
 今の信濃国北佐久郡長倉村大字追分は、昔、沓掛、軽井沢と並んで、浅間三宿と言われた追分宿で、中山道と北国街道との追分であったところ、その道を往還する人は誰でも、三宿を経ないわけにはいかなかった。俗謡追分節は、実にこの地方の民謡から起ったもので、信越線開通後は、軽井沢を除けば、ほとんど昔の面影をとどめなかったが、今も伝わる追分節の曲調は、たまたま駅路の鈴の音に、三宿の全盛時をしのぶ旅人の魂をゆさぶるものがあろう。


♪ 此処はどこだと馬子衆に問へば、こゝは信州中仙道
♪ 一に追分二に軽井沢、三に坂本まゝならぬ
♪ 碓氷峠のあの風車、誰を待つやらくるくると
♪ 小諸出て見りゃ浅間の嶽に、今朝も三筋のけむり立つ
♪ 小諸出抜けて松原行けば、いつも三筋の糸が立つ
等々
 これらは、世にいわゆる信濃追分、あるいは小諸節といわれるもので、人は馬方節と蔑むが、実際、追分はその名実ともに、この信濃追分、小諸節が根元なのだ。信濃追分、小諸節は、単なる馬仕節として見ても、全くこの上なく純粋なもので、節の、勾配の急なところに活気のある、悠々迫らず、それでいて、引締った、今めかしい匂いの少しもない、昔風にひなびた、まことに長閑か、馬の蹄の音のパカリパカリに調子のはまった、野の男性的絶唱である。
ーーーーーーーーーー
 ここでは信濃追分と小諸節は同じものとして扱われている。これは松本幹一(晩翠)がとはずがたり大正6年(1917)で《追分節、小諸節は、共に信州の宿駅の名であり、この辺の馬子唄なのを、直江津、新潟等の北海廻りの船頭が覚えて、松前、函館、江差等へ伝えた云々》とあるところより引用したものか。

 

 また、柳田国男『民謡覚書』『廣遠野譚』(昭和15年)の中で信濃追分について次のように述べている。
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 今でこそ追分は遥かな海の曲となって、夕の欄干にもたれる者の歎きを連想させているけれども、最初は日本武尊が亡き妃をお慕いなされたという伝説のある国境の嶺を昇り降りする馬方の歌であった。現在の地名がその事実を証明するだけでなく、幾つかの古い章句が、なを麓の村里には行われている。 

 

   ♪ 碓氷峠のあの風車  たれを待つやらくるくると

 

というような詞は、今でも降りて来て山の深秘をほのめかそうとした者の、情緒を伝えているような感がある。それから又「碓氷峠の権現様は」といい、「西は追分東は関所」というなども、元の形ではないだろうが、とにかく近頃唄い始めた詞ではあるまいと私は思う。碓氷の西麓の世に聞こえた恋の驛路を、鳴輪の音もさわかに朝夕通り過ぎる馬方が、心まで歌になりきって永くこの古調を記憶していたのも、それが又旅人の情を動かして、千里の海の果てまでこの歌を携え還らせたのも、私には到底偶然な文化伝播とは考えることが出来ない。
 その道の人たちは何と説いているか知らぬが、江差松前へは交易の伸張に伴なって、徐々に南方から運ばれて行ったものと想像している。そうして広く果てしない海波に養われて次第にあの溜息のような長い節まはしが成長したのであろうが、もとはやはり馬の足音と鳴輪の響きとを合の手にした、もっと簡潔な進行曲であったろうかと思う。
ーーーーーーーーーー

 

 その信州追分宿も、明治16年(1883)の新国道の開通、明治26年(1893)の信越線碓氷トンネルの開通の結果、すっかり寂れてしまって、多くの飯盛り女や馬子たちもちりぢりになっていったわけだが、それ以前に遊郭は明治22年(1889)に岩村田へ移転せざるをえなくなった。しかしその岩村田遊郭もうまくゆかず、大正13年(1924)には公娼制度廃止令が出されたこともあって、遊郭を閉鎖することになった。
 そこで、大正の末ごろに岩村田の矢ケ崎七之助らが「追分節」を復興しようと考え、旧南大井村御影新田(現小諸市御影)から、追分宿の永楽屋の「おさの」から唄を教わった博労の渡辺善吾を招いて「追分節」を習った。その復興時の様子は『正調信濃追分大正14年という小冊子が残されており、理念・経過が語られている。
 その冊子は手元にないが、幸い竹内勉の『追分節』に引用されているので、転載させてもらいます。
ーーーーーーーーーー
 煙を噴く浅間ケ嶽をバックに毛槍立てた諸侯の上り下り、桝形の茶屋に遊女と名残りを惜しむ若い旅人、さては追分節のどかに駄馬曳く馬子の往来、さうしたシインは街道名所図絵の幾ページかを活躍させている。私はこれ等の古錦絵を見る度に追分駅栄華の跡をしのんで沁みじみとなつかしくなるのである。
 追分の駅は上信の国境に接する一小駅に過ぎないとはいえ、江戸から下る旅人に取っては碓氷の険峻を越へた無事を祝して杯を挙げる好適の宿となり、関西方面より上るものに取ってはあすの難関を控へてゆっくりと休んで英気を養う要衝となっていたのである。
 時には妓楼軒を並べて浅間の雪解を化粧水に玉の肌をみがく遊女が旅情を慰めて呉れた。そして嬉しいロマンスや悲しいロマンスの種を蒔いたのである。それにも増した名物には追分節の哀調に遊子の腸を断つ事であった。街道上下に威儀をつくろった大名行列さへもこの名吟には流石に歩みをとめる程であったという事だ。
 こんな風に維新後まで追分の宿は賑わいを極め追分節は珍重されたが、その後遊郭岩村田移転、鉄道の開通などゝ世はあはただしく変転して、さしもに栄華を極めた追分駅は全く衰微にし自然追分節も乱調となり漸く世に忘れられるに至った。今にしてこの正調の保存を図らなかったなら、あたら信濃の一名物も全滅の運命は免れないのである。
 ところがこの正調を真に伝るものは殆どなくなって仕舞った。ただわずかに渡辺善吾翁が80あまりの高齢をながら生存しているのは我々に取って不幸中の幸といわねばならない。翁はまだ青春の血の湧いている頃、当時の名妓として聞へた永楽屋のおさのから直伝を受けたこの道の達人で年令こそ高いが健康は若いものを凌ぎ、声音又若々しくその正調をしのぶに充分である。
 すなわち翁に頼んで岩村田の芸妓連へ伝習し、さらに藤間師に振付を頼み、追分ぶりをも完成させることができた。なを、今後益々信濃名物として遠く近くに普及をはかり郷土芸術の誇りとしたいと望んでやみません。この一小冊子を公にするのもその運動の一端に外なりません。
ーーーーーーーーーー


 そして岩村田に移った芸妓の「すずめ」のちの簾田じょうが昭和28年(1953)の「NHKのど自慢」長野大会に出て優勝して以来、追分宿の「永楽屋系追分節」は簾田の唄で信濃追分として生き続けることになったのであります。 今日広く唄われている節まわしは、簾田じょうのものです。
 大正14年(1925)には、唄清香、三味線百合子・すずめで鷲印レコードに吹き込まれたが、「信濃追分」という曲名は、これまでのように単に「追分」ではどこの唄かわからんということで、「信濃」の地名が加えられたようである。
 この「おさの」は少女の頃より、追分宿の永楽屋に抱えられ、その系統が今日の信濃追分として残った。一方、油屋の「おのぶ」からは油屋の主人小川誠一郎が馬子唄調の追分節を伝授され、そこから「越後追分」、さらには「江差追分」へとつながっていったと思われます。

 

信濃追分
♪ 小諸出て見りゃ エー浅間の山にヨー(アア キッタホイ ホイー)
 今朝もエエ煙が 三筋立つ (行くよで来るよで 面影さすよだオオサ ドンドン)
♪ 浅間根腰の 焼野の原で 菖蒲咲くとは しおらしい
♪ 一に追分 二に軽井沢 三に坂本 ままならぬ
♪ 浅間山さん なぜ焼けしゃんす 裾に三宿 持ちながら
♪ 碓氷峠の 権現様は 主のためには 守り神
♪ 碓氷峠の 権現様は わしがためには 守り神
♪ 西は追分 東は関所 せめて峠の 茶屋までも
♪ 碓氷峠の あの風車 誰を待つやらくる(来る)くると
♪ あのや追分 沼やら田やら 行くに行かれず 一足も
♪ 送りましょうか 送られましょうか せめて桝形の 茶屋までも
♪ さらばと言う間に はや森の陰 かすかに見ゆるは菅の笠
♪ 色の道にも 追分あらば こんな迷いは せまいもの
♪(嫌な)追分 桝形の茶屋で ホロと泣いたが 忘らりょか
♪(嫌な)追分 油屋の掛け行灯にゃ 浮気ゃ御免と 書いちゃない
♪ 追分一丁二丁 三丁四丁 五丁ある宿で 中の三丁目が ままならぬ


(長ばやし)
♪三里の先から 足音するよだ オオサ ヨイヨイ
♪来たよで戸が鳴る 出てみりゃ風だよ オオサ ドン

道中馬方節

道中馬方節(唄・成田雲竹 尺八・高橋竹山) - YouTube

道中馬方節 - YouTube

道中馬方節 成田雲竹 (10) - YouTube

 

 この唄は、主に馬市へ馬を連れて行く時の「夜曳き唄」で、博労自身が曳く事も、頼まれた馬方が曳く場合もあるが、馴れない若駒をつないで曳くので、日中は避け、夜間に移動することが多く、なかなか骨の折れる仕事である。馬に声をかけて気を静めさせ、また自分の眠気を覚ますために唄った唄が「道中馬方節」である。
 黒石から秋田へ抜ける矢立峠羽州街道)を往来する博労たちが唄っていたものを成田雲竹が習い覚え、その節回しが定着したもの。昭和12(1937)年頃にレコード化されている。
 津軽で唄われていたものが「津軽道中馬方節」で、南部で唄われていたものが「南部道中馬方節」で、どちらもほとんど同じ旋律である。隣接地で交流が多かったことや、一般的に言っても全国から馬市に集まる博労たちが宿や茶屋で、のど自慢に唄い、その中の節の良いものが人気を呼んで、一つの唄として残されて来たものなので、ほぼ同じ唄い方の唄が多い。

 

日本民謡事典』竹内勉
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この唄の源流は、旧南部藩領(岩手県中央部から青森県東部一帯)の博労達が唄っていた「夜曳き唄」である。
 それは博労仲間を通じて東北地方一円へ広まっていったが、博労が唄う唄は、馬に聞かせるものであり、しかも一人で唄うものであるから、十人十色の節まわしであった。ところが、昭和時代に入って各地の「夜曳き唄」がレコードに吹き込まれると、吹き込んだ歌い手の故郷の、津軽・秋田・宮城・相馬・最上などといった旧国名や県名を冠して、それらを区別するようになった。また、最初にレコード化した人の節まわしを他の人達が踏襲するようになったため、のちには、あたかもそれぞれの節まわしがその県や地方を代表する唄い方の様に考えられていった。
 今日広く唄われている節まわしは、成田雲竹のものである。
ーーーーーーーーーー

 

♪ 矢立ハアー峠の ハア夜風をハア受けてヨー


  ハアあきたハア夜長を ハアー後にするヨ(ハイィ ハイハイト)


    *「矢立峠」 羽州街道青森県平川市秋田県大館市の境にある峠(標高25

           8m)
    *「あきた」 解釈が割れている。「秋田」、「飽きた」
           別に「秋の」としている場合もある。

 

♪ ひとり淋しい 博労の夜曳き 鳴るはくつわの 音ばかり
    *「博労の夜曳き」・・・「博労の夜道」とも唄う。

 

♪ 一夜五両でも 馬方いやだ 駒の手綱で 身をやつす
    *「一夜五両でも」 五両は女中奉公のおよそ二年間の給金に相当する。

 

♪ 心細さよ 博労の夜道 七日七夜の 露を踏む

 

♪ さても見事な 博労の浴衣 肩に鹿毛駒 裾栗毛

 

♪ ここはどこよと 尋ねて聞けば ここは津軽の 関の橋
    *「関」 今の平川市碇ケ関にあった関所、津軽三関所の一つ。

 

弘前国道維持出張所 羽州街道 矢立峠〜碇ヶ関

小室節1

 「小室(諸)節」が江差追分の源流であるとする説を唱える人達の先駆的存在が、昭和51年に追分節の源流、正調小室(諸)節集成』を著わした長尾真道であります。 
 氏は若い時から尺八を習っていて、追分節の譜を買い求めた時に、その説明書の中に小室節が追分節の源流と思われるとの記事に心打たれて、以来小室節の研究に四十余年の歳月をささげたという人です。


 氏は「小室節」の発生について以下の様に述べています。
ーーーーーーーーーー
 奈良朝末期の頃、朝廷は政治、軍事、産業に欠くことが出来ないものとして馬を重視した。この馬の増殖をはかるために全国に三十二の勅使牧をつくった。その半分の十六牧は信濃の国であった。またその信濃の国のなかで最大であり、当然全国の代表的存在であったのが現在小諸市にはいっている御牧ケ原である。つまり望月の牧である。
 昔は、馬の輸入とともに、その飼育、増殖さらには牧場経営の技術者として多くの人が渡来し、帰化した。こうした帰化人のほとんどは、騎馬遊牧民族として名高い蒙古人である。彼らが、故国にいにしえより伝わる「駿馬の曲」をもたらした。この曲は横笛の曲であって、小室節のメロディーときわめてよく似かよっており、驚嘆するほどである。
 思うに、彼ら帰化人にとって、佐久の高原にひろがる牧は、はるけくも遠い異境の地。しかし高原の風土はなにがしか故国モンゴルをしのばせずにはおかない。かたわらに朝夕いつくしみ育てた馬もともにある。いくばくか望郷の思いもこもって口ずさむ「駿馬の曲」。
 佐久の高原に流れる馬飼いたちのメロディーは、このために完全にその地にとけこんでいったに違いない。国境を越え、人種の差を超越して、良いものは良い。自然の形で小室(諸)の里人の心の琴線にふれたであろう。
 そしていつとはなく浅間神社の神事における祭礼の唄とあわさって定着して、ここに小室節の成立をみたのである。この時期は室町末期のころと思う。さらに朝廷へ馬を年貢として献上する貢馬(くめ)の、はなばなしくも大変な行事を通じて、道中唄となったのも自然の事である。
ーーーーーーーーーー

以下の図は村杉弘氏が『江差追分源流考』の中で、長尾氏の説を関係図にしたものである。

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 この中で長尾氏は「昔は、馬の輸入とともに、その飼育、増殖さらには牧場経営の技術者として多くの人が渡来し、帰化した。こうした帰化人のほとんどは、騎馬遊牧民族として名高い蒙古人である」と述べている。

 近年盛んな遺伝子の研究からは、アルタイ系騎馬民族に高頻度にみられるY染色体が東日本ではゼロであるが、九州と徳島でそれぞれ3.8%、1.4%確認されており、騎馬民族の小規模な流入があったことを支持する結果となっている。さらに遺伝学的解析によれば、日本在来馬の起源は、古墳時代に家畜馬として、モンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された体高(地面からき甲までの高さ)130cm程の蒙古系馬にあるという。
 とはいえ、大昔に蒙古より帰化した技術者が、望郷の念にかられて唄った曲が「小室節」につながっていったというのは、可能性としてはありうるし、ロマンもあるが、やはり無理があるようにも思います。それぞれの伝統の中で育まれながら、結果的に似たものが出来上がったと解するのが妥当ではないでしょうか。

 また、「いつとはなく浅間神社の神事における祭礼の唄とあわさって」という部分だが、小宮山利三が『軽井沢三宿の生んだ追分節考』の中で、

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 研究者や小諸の地元民たちのなかには、祝詞形式の「小室節」と、労働歌的「小諸馬子唄」と同じに考えているが、東洋音楽選書の『日本の民謡と民俗芸能』第二部(追分節編)に次の記述がある。

   【祭礼馬子唄が労働馬方節と過去においてまったく関係ないとは言い切れないだ

   ろうが、祭礼の儀式にうたわれる『馬子唄』というのは、馬を献上するときに

   これを祝って『駒索唄』という古風な祝い唄を謹詠して送ったのだが、これは

   労働とは直接関係のないものである。この種のものは各地に存在している。】

 この貢馬行事にうたわれているような神聖な「駒索唄」的な「小室節」を、中馬の馬子たちが自分たちの仕事唄としてうたうことはまずあるまいと考える。

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と述べていることも紹介しておきます。この中で「この種のものは各地に存在している」という中には、「南部馬方節」の項でも取り上げた例も含まれるわけです。 
 
 
 なお、小室と名の付く場所は次の四か所があります。
・ 滋賀県東浅井郡今田根村大字小室(近江の国、琵琶湖の北東)
・ 長野県小諸市信濃の国佐久郡浅間山麓の地にあり、小室宿と称した)
・ 埼玉県北足立郡小室村武蔵国の小室宿とも称す)
・ 千葉県千葉郡豊富村大字小室下総国橋本の東南半里)

 

 三田村鳶魚民俗学者山中共古との対談本東海道中膝栗毛輪講(上)』の中で鳶魚は次のように述べている。
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(意訳)

 つづら馬の小室節は正徳四年版の近代長者鑑に「上方へのぼるべしとて、乗物七丁、のりかけ十五、緞子びろうど唐織にくれないのいろをまじへ蒲団張りにはなをさかせて、春の日の長たび、小諸ぶしも耳にきゝなれてはおもしろからず」とあるのは松の葉の「さても見事なおつづら馬よ、下にやせんしき唐縞の蒲団、ふとんばりして小姓衆をのせて」という唄の注釈にもなるでしょう。
 近松門左衛門丹波与作』に《アレアレあそこへ歌ふて来る、本小室のひんぬきは與作々々と手招き、さても美事なおつづら馬や七蒲団にソンレハ曲彔添えて》とある。それを饗庭篁村さんの近松の評釈によると、その本小室というのが小室節の事である、信州の小諸宿からうたい出したものを追分節という。そのうたい方は越後の米山節、佐渡の岩室節と同じであるという。
 小室節の本文は松の落葉に出ている。信州の小諸宿からうたい出したものなので、この道中に行われていたことは、一九時代の流行ではなく、近松の時代に行われていたようだ。丹波与作の文がその証拠です。それを近松丹波与作という名にしたのは、正徳二年三月の二度目の興行からで、宝永六年六月の初興行の時には丹波与作関の小万、待宵小室節』という外題でした。そうすると元禄よりもっと前から行われていて、馬子たちがよく唄ったようだ。そう考えると、この膝栗毛でも前の方に木曾の追分から、飯盛が三島へ来ている事が書いてある。この木曾の追分というのは、小諸にくっ付いた宿だから、小諸の辺からも以前は東海道の方へよく往来していたのでしょう。昔からの往来を見ても、よくこの分布が知れて来るだろう。だがここで単に小室節と言っているのは馬子唄と見たらよいと思う。
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本小室といふのは今でいう「正調小室節」の事。


 それに対し、共古は次の様に反論している。
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(意訳)
 小室節は私の考えは違ってます。信州の小諸からという説はそれはそうかもしれないが、聲曲類纂を調べた時に、小室節の起こりも名もはっきりしない、ただ江戸の三河島の者が伝え謡っていると斎藤月岑は言っている。小室は地名で三河島に縁故があるのだろう。それは武蔵の北足立郡に小室村という村があって、この小室村というのは八ケ村の一番の本村となっていて、昔は市も盛んであった。その村近辺の者がこの歌をうたい出したので、三河島とは近辺の隣同士だから、その辺の者が覚えて来て、三河島に伝えたんじゃないかと思う。それに信州という説もあるが信州のは小室じゃなくて小諸と書く。いま一つ縁があるかと思うのは、近江の浅井郡に小室があって、その村も盛んであったが、確か三河島の者は三河から来たので、それらに縁故があるかと思って調べたが、私はおもに北足立郡の小室村の者が、それを伝えた ものじゃないかと思う。
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《信州という説もあるが信州のは小室じゃなくて小諸と書く》⇒小室と小諸は同じで、小諸の字を使い出したのは徳川中頃からといわれている。
 
 その小室節を唄う馬子はどこから出て来たのだろうか。明和四年(1767)に吉原で俄狂言を始める時も、昔の白馬を思い出したのか、三河島から小室節を唄う者を頼んできたそうだ。
 その共古とほぼ同様な説をとなえているのが町田佳聲で、《信州小諸も元は小室と呼んだので小室節の名はそこから出たと信じられているがそうではなく、馬子が浅草村に近い武蔵国(埼玉県)北足立郡小室村の出身だったので「小室節」と称したわけで、江戸の浅草までわざわざ信州の馬子が駄賃稼ぎに来たとは常識的に考えられない》と述べている。

 


三河島郷土史 入本英太郎 編 三河島郷土史刊行会, 1932(昭和7年
 《江戸声曲の上に顕著であり、また三河島民謡の一つたる有名な小室節は遠く元禄時代の昔から伝わり、弘化四年刊行の「声曲類纂」に、
小室節、その始め並びに名義とも知るべからず、今も諸侯入府の節は、御馬前に立って歌うとかや、その曲節を伝える家、今も武州豊島郡三河島村に残りてあり、三河島に残るとは三河より来る子孫とかや、その伝来故あって略す」
とあり、当時はなを盛んであったらしい。一説に有名な寛永寺の餅つき歌がこの小室節の変体だというが、追分節のごとく長く延ばす所を見ると、あるいはそうかも知れぬ。いずれにしてもその伝来の程は明らかでないが、初めは近江浅井郡の小室から起こり、転じて武州北足立郡小室村に伝えられ、同村では毎年祭礼にこの小室節を歌ったのである。何故か後に三河島村の若者間に伝わるようになった。(一説に小室節は信州小諸より伝来せしと言う)明和四年九月、吉原で俄かに始めるについて、昔の白馬を思い出したのか三河島村へ小室節を歌う者を頼みに来た事が記録に残っている。元禄三年の「人倫訓蒙圖彙」にも、この小室節を「馬方節とて一ふしあり、当世は辰巳あかりの声高にして何事にもまず片肌ぬぐは彼らが風俗なり」とあり、いずれにしても威勢のいい歌であったらしい。小唄流行の盛んな当時、山雀節が葛西に伝わったり、また小室節三河島村に伝わったという事は、芝居や遊郭から発生せず、真の野から声を高めただけに面白い。しかし惜しいかなこの小室節は明治初年ついに絶え、その後しばらく先代尾上菊五郎だけがこの曲節を伝えていたと言うが、現在では全く絶えてしまったらしい。
 祭礼のダシ巡行の折には必ずこの小室節をもって引出したのであるが、現在ではその変わりとして神輿渡御の際には木遣唄をもって昔の名残りを止めている》。

 

 

 湯朝竹山人は『歌謡集稿』昭和六年の中で「小諸の古調」と題して、次のように語っている。
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♪ 小諸出てみりゃ浅間の山に 今朝も煙が三筋立つ
♪ 小諸出てみりゃ浅間の煙は 今日も東へ吹いて出る
♪ 小諸出ぬけて松原行けば いつも三筋の煙立つ
 小諸、今日ではコモロといふ、古は「小室」といったさうだ。今もコムロといふ人もあるのは昔の名称が伝っているのかも知れぬ。「小諸出て見よ」の句は古く且つ広く伝唱された文句と見える。就中幕末の頃は江戸では歌に唱はれ歌澤に唱はれ今日に伝わっている。現在小唄節でも盛んに唱はれている。歌詞は次の如く出ている。
♪ 小諸出てみよ浅間の山に 今朝もけむりが三筋立つ 天へのぼりて雲となる(端唄稽古本)
♪ 小諸出てみよ浅間の山で 今朝もけむりが三筋立つ ヤレよいやナよいやサ(流行小唄節)  
 江戸で唱はれた馬子唄の小室節が、若しこの信州小室から起原するものであったら、文献的に貴重なる文句といはねばならぬ。
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 昭和45年には地元小諸で小室節保存会なるものが発足し、同53年9月の第16回正調江差追分全国大会にゲスト出演、同54年には第一回の「正調小室節全国大会」が開かれております。        
 唄われているのは次のような歌詞である。

♪ (ハイハイ)小諸でてみりゃヨ 浅間のエー山にヨ(ハイハイハイ)
  今朝も三筋のヨ エー煙立つヨ(ハイハイハイ)

♪ 小諸出抜けて 唐松行けば 松の露やら 涙やら

 

 つまるところ、小室節から追分節へと変化したかどうかはいまいち決め手になるはっきりとしたものはないわけだが、ただ言えることは、小室節が江戸時代にあっては馬子唄の代名詞的な存在であったことは間違いのないところである。

 聞くところによれば、小諸市に住んでいた高野金吾なる人物が、十七歳当時の明治四十三年ころに、元馬方をしていた老人から習ったという追分節は、小諸節と節回しが大して変わらないものであったと言う。

 因みに、「追分節」で最も古い文献とされているのは、松井譲屋編『浮れ草』<国々田舎唄の部>文政五年(1822)の追分節の項に記されている次の七首です。

 ♪ こゝろよくもておひわけ女郎衆、あさま山からおにがでる
 ♪ 一夜五両でもつまもちゃいやよ、つまのおもひがおそろしや
 ♪ さらし手ぬぐひちょいとかたへかけ、あくしょがよひのいきなもの
 ♪ あのやおひわけぬまやら田やら、ゆくもゆかれず一トあしも
 ♪ うすいたうげのごんげんさまよ、わしがためにはまもり神
 ♪ あさま山ではわしゃなけれども、むねにけむりがたえやせぬ
 ♪ おくりましょかよおくられましょかよ、せめてたうげの茶屋までも

 それに対し、「小室節」の名称が出てくる最も古い文献といえば、『吉原はやり小唄総まくり』です。これは寛文二年(1662)版の草紙で、

<万治二年(1659) 所々より吉原迄の駄賃付けの事>として、
一、日本橋より大門まで並み駄賃弐百文馬奴二人小室節うたふ かざり白馬駄賃
   三百四十八文
などと記されているので、およそ160年の開きがあるところから、「追分節」に関し、さらに古い文献が出てこない限りは、小諸宿と追分宿の距離の近さから考えても「小室(諸)節」が「追分節」に影響を与えたと考えるのが自然でありましょう。

 こうした一方、馬子唄の源流は東北、南部地方であるとし、蒙古遊牧民⇒小室節⇒追分節江差追分という説をとなえる者は、売名のため、奇をてらう説を出したがる人であると非難する、著名な民謡研究家(故人)がいたのも事実です。

 わしとしては、一方的な非難ではなくプロの民謡研究家として、「小室節」を、馬方節との関連、追分節との関連で研究していただけたら、解明された事柄もあったかもしれんと考えると、今となっては残念です。

 

 

 

 

 

上州馬子唄

上州馬子唄 - YouTube

 

 三国峠越えの三国街道で、駄賃付けの馬子をしていた樺沢芳勝が唄い始めた。
このあたりの天気は越後側からくずれてくる。そうすると、三国街道を北上する馬子がこの唄を歌う時の位置は、赤城山山麓で、前橋宿から渋川宿あたりまでである。そうなると、沼田宿は四里先である。その四里更に先に水上宿があり、うまくはかどればもう一里先の湯桧曽宿まで行けるのである。
 群馬県で歌われてきた馬子唄、馬方節にはいくつかあり、高崎から越後へ向かう三国街道あたりで歌われてきた「三国馬子唄」、中山道松井田宿あたりの「碓氷馬子唄」、赤城山麓で歌われた「赤城馬子唄」などがあります。その中で、樺沢芳勝が歌い、広めた馬子唄が「上州馬子唄」です。
 勢多郡富士見村生まれで上州民謡の名手である樺沢芳勝は、若い頃に同じ群馬県勢多郡桂宣村上泉の博労・観音トクから「三国馬子唄」を覚え、「赤城馬子唄」の節を混ぜて節を整え習ったが、当時は「馬方節」と呼んでいた。昭和10年(1935)ごろ、江差追分の三浦為七郎一門の稽古場に参加し、ここで初代・浜田喜一のすすめもあって「上州馬子唄」と改名。
日本の数ある「駄賃付け馬子唄」の中でも、秀逸なものに仕上がっています。
 なお、樺沢芳勝の「上州馬子唄」を広めたのは、同じ群馬・伊勢崎出身の町田佳声であったそうです。

 

歌詞については、
♪ 可愛い男に 馬方させて 鈴の鳴る度 出てみたい

といった、一般的なものが歌われていましたが、
♪ 赤城時雨て 沼田は雨よ 明日は水上 湯檜曽まで
といった群馬らしい歌詞は、群馬の畔上三山が作ったのだそうです。
「上州馬子唄」は、日本各地に馬子唄がある中でメロディの美しさでは一二を争う名曲だと思います。
ただ、今聞かれる演唱では、節を長々と引っ張る歌い方が多いですが、樺沢が歌う初期の演唱では、馬に語り掛けるような淡々としたものでした。それは、駄賃付け馬方の経験のあった樺沢の唄の醍醐味だと思います。

 

 樺沢芳勝は、郷里で「樺沢芳月(ほうげつ)」の名で馬子唄を教えていたが、ある女性が師事していたときの思い出が手紙として残っているようなので、引用させてもらいます。なかなか興味深いものがあります。
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「その昔、私の師樺沢芳月と云う先生が大正時代~昭和初期まで馬方をしておりました。前橋~桐生~大間々~赤城山伊香保そして遠くは一日がヽりで東京方方面迄もお客を馬にのせて運ぶ仕事をしていたとの事です。
当時はのり物と云えば馬だけでしたから、町から村へそして山、坂、峠を登り下りして肩に汗ふきの手拭いをかけて、馬の手綱を引き乍ら働いたそうです。
奥山に入るとすヾを大きく振って、きつね、たぬき、いのしし、カラス、おおかみなどからお客と自分、馬の身をまもったそうです。(すヾは小7ヶ、大13ヶm赤と白のひもでまく)人家のある町の中に入るとすヾの音を小さく馬の足音に合わせて歩きます。又、馬上のお客がねむらない様に、馬子唄などを唄って聞かせたとの事です。(馬子唄の文句はその土地を唄ったもの)樺沢芳月先生は馬子唄の美声で当時、レコード会社からスカウトをされたとの事です。目的に着くとわずかなお金をもらい、いつも通う居酒屋へ足を運ぶのが何よりのたのしみです。
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♪ 赤城イ時雨てエーエーエエエーエ ハァーアアア沼田はアアヨーオオオ
  ハァーアア雨エーエエエエエよ (ハイ ハイト)
  明日ウはアア 水上イヨーオオオ ハァー湯檜曽まアアアアでヨー
  (ハイコラ ハイハイト)

 

♪ 清水峠も ハァー事無くヨー
  ハァー越えて 妻の笑顔がヨー 眼に浮かぶ

 

♪ 山で床とりゃ ハァー木の根がヨー
  ハァー枕 落ちる木の葉がヨー 夜具となる

 

♪ 北山時雨て ハァー越後はヨー
  ハァー雪よ あの雪消えねばヨー 逢われない

 

♪ 可愛い男に ハァー馬方をヨー
  ハァーさせて 鈴の鳴るたびヨー 出てみたい